高鳴りの風 (太ましき猫 作)
キーワードを「風」、補助ワードに「香り」「音」を設定してます。
特にヒトメボレ描写に対し使用してます。
握ったドアノブの熱さに、純は思わず手の平を開けてしまう。七月下旬、戸締りの間でさえ陽射しは背に汗を浮かせ、風は拭わず撫でるばかりだ。
「近くで大会があるんだ、来いよ」
純が師匠と呼ぶ、中学からの友人である浩の誘いだ。ゲーム、特に格闘ゲームが得意な浩に、純はよく教わっている。ゲームセンターで大会があれば、一緒に行く事が常であった。そんな師匠からの誘いである。例え高校一年の夏休みで、登校時間と同じく外出する事となっても、文句は言わない純だった。
最寄駅から徒歩五分。カバンからペットボトルを取り出し、勢いよくミネラルウォーターを飲みながら、純はマンションを見上げる。八階建てだと浩に聞き数えてみたが、確認する前に純は視線を下げてしまった。まだ真新しい外装は白いタイル張りで、日差しを照り返す上層階は眩しすぎる。
「わりぃ、今起きた」
待ち合わせ場所であるエントランスで、痺れを切らした純が電話した浩の返答がこれである。
「おい、マジかよ」
電話する純の横を、年配の女性が通り抜ける。高身長に低めの声、しかも幾分怒気を含む言葉が聞こえれば、早足になってしまうのも無理はないだろう。
そんな女性の様子を見て、純は申し訳なさそうに声を小さくした。
「ここで待ってればいいのか?」
「もうちっと時間かかるから、上がって来てくれ」
溜息をつきながら、純はエレベーターに乗り込みボタンを押す。上がり始めたとき、純はふと不安を覚えた。あれ、浩の部屋番号、六〇五だったよな。確認しようと純が電話するも、浩はなかなか出ない。
表札を確認すればいいだろう、そう思っていた純は更に迷う事となった。六〇五号室と六〇六号室の表札部分に、何の表記もないのだ。他の表札を確認するも、浩の姓名である橋本という文字は無い。
「こっち……だよな」
不安を紛らわす様に、短く刈りそろえられた頭を一度掻くと、純は六〇五号室のチャイムを鳴らした。
少し間を置き、ガチャリとドアが開く。ふわりと零れ出た甘い香りに気付き、純は体を強張らせた。
「えっと、どちら様?」
訝しげに純を見上げるのは、柔らかなセミロングヘアを揺らす女性。パッチリと大きな瞳は長く透ける睫毛に縁取られ、通る鼻筋の先に僅かに開く口元が可愛らしい。
一見して年上と分かるも、身長差から生まれる彼女の上目使い気味の姿勢に、純の胸はキュッと縛られる。
「あ、あの、橋本さんのお宅ではありませんか?」
「えっ、確かに橋元だけど……あぁ! 浩君の友達かしら?」
純が大きく頷くと、その女性は六〇六号室を指差す。
「橋本浩君の部屋は、お隣よ」
「す、すいません!」
声を上ずらせ大きな体を小さくし謝る純に、彼女は少し可笑しそうに笑う。
「気にしないで、表札出してないから分かりづらいものね」
彼女はドアを開けたまま、玄関に置いてあったバッグを持ち上げ肩にかける。前屈みになった拍子に、黒髪の隙間から浮かぶ彼女の白いうなじが、純の視線を惑わした。
ドアを閉めると、彼女は純に話しかける。
「じゃ、私は出かけるから。浩君によろしくね」
ふわりと微笑み去っていく彼女を見て、純の視線はその背を追わずにはいられなかった。小さく息を吸い込めば、彼女が揺らし残す香りが純の鼻をくすぐる。曲がり角で立ち止まった彼女のワンピースの裾を気にする仕草に、純の視線はくぎ付けとなった。
「なに、突っ立ってんだ?」
いつの間にか、六〇六号室のドアを開け、浩が立っていた。ニヤニヤと笑う浩に、純は気まずさから視線を逸らし低い声を出す。
「何でもねぇよ、準備はできたのか?」
「慌てんなって。ほら、中に入れよ」
中に入ろうとする純に、浩は笑う。
「黒髪短髪、不器用ながら高身長の年下男性は好みですかって、聞いとくか?」
「うるせー! とっとと、準備終わらせろ!!」
閉まる六〇六号室のドアのすぐ前を、甘い香りを抱えた風が吹き抜ける。どこからか聞こえた風鈴の音は、一つの高鳴りを純に告げていた。
2017/08/20 一部修正