ミモザのひと (外宮あくと 作)
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その時の俺はまだ幼くて、母が死んだことが全く理解できなかった。何度おはようのキスをしても起きてくれないので、膨れて文句を言っていたくらいだ。
薬湯を持って来た侍女が騒ぎ初めても、呑気に母が目覚めるのを待っていた。
乳母に手を引かれて部屋を出るのと、青ざめた父が侍医を連れて入っていくるのは同時だった。きっと朝寝坊している母を父は起こしに来たのだと、無邪気に信じていた。
棺に母が納められても、俺は何が起きているのか分かろうとしなかった。何故こんな狭い箱に母を寝かせるのかと不安だったが、それでもまだ理解しなかった。
静かに横たわる母は美しかった。
真っ白な衣装を着せられ、化粧を施し、気に入りの宝飾品と花に埋もれて、微笑むような顔で目を閉じていた。まるで花嫁が眠っているようだと思った。
俺は、母がおはようと言って起き上がるのを今か今かと待っていた。
「ママきれいだなぁ。早く起きてキスしてくれないかなぁ」
父の手を握って呟くと、ギュッと握り締められた。
俺と父の前を参列者たちが頭を垂れて通り過ぎ、次々に花を棺に入れてゆく。
皆が入れ終わった後、父に黄色い球状の小花がたわわに咲く枝を渡された。
「これ何ていうお花?」
「ミモザだよ。ママが大好きな花だ」
俺は父と一緒に、ミモザを母の胸元に置いた。
棺の蓋が閉められた時、俺はやっと泣いた。母を閉じ込めないでくれと。
春とは名ばかりのまだ風の冷たい季節のことだった。
それからの父はずっと独り身を通していた。
父はこの国の王であり年も若く、新しい王妃が必要であると幾つもの縁談が寄せられていたが、一顧だにせず全て退けていたのだ。
父にとって妻は、俺の母一人だけだったのだろう。毎年ミモザを植え続け、王宮の庭園は春になると優しい黄色に染まるようになっていた。
その父が突然、後添いの妃を迎えると決めた。
十年を機に、母を偲ぶために隣国の実家を訪れたらしい。悲しみに心を塞いでいた父だったが、ようやく母の育った場所を見てみたいと思う程度には気力を取り戻したようだった。
そこで父は彼女に出会ってしまったのだ。
父が王宮に連れ帰った女性を一目見て、俺は激しい雷に打たれた気がした。
母がいる、そう思ったのだ。彼女は母に生き写しだったのだ。二度と会えぬはずの母に。喜びなのか恐怖なのか分からない。心臓が暴れまわり、俺は一言も発することができなかった。
似ているのも道理、彼女は母の妹だったのだ。
父もきっと同じように衝撃を受けたことだろう。だから無我夢中で連れてきてしまったのだ。
その夜から彼女は王の寝所に召され、正式な婚儀もすぐに決まった。
父は何を望んでも許される人だった。
ミモザは今が盛りと咲き誇っている。
直に式典が始まるというのに姿が見えない花嫁を探して、俺は庭園を歩いていた。そしてミモザの下で彼女を見つけた。
「父が貴女を待っています……」
こちらに背を向けていた彼女がゆっくりと振り返る。
それだけで胸が高鳴った。
純白の花嫁衣裳。とろけて濡れたような光沢を放つ絹が揺れる。春の冷たい光がスカートの上を流れ落ちていった。
薄いレースに縁どられた胸元には、精緻な刺繍が施され、真珠が縫い込まれている。その柔らかに輝く真珠は、涙の結晶なのだという妄想がふと頭をよぎった。
きっと、美しく可憐な衣装に身を包みながらも、彼女が今にも泣きそうな顔をしていたせいだろう。
チリチリと胸が痛かった。
「貴方には私がどう見える?」
「誰よりも美しい花嫁です」
「幸せな花嫁とは言ってくれないの?」
「……笑ってくれるなら」
彼女はまたミモザを見上げる。
「お姉さまが大好きだった花。庭園で一番立派なこの木を、陛下もこよなく愛していらっしゃる」
彼女は姉の思い出をとつとつと語った。姉が嫁いだ時、彼女はまだ幼い子どもだったが、幸せに頬を染める二人の姿は瞼に焼き付いているのだという。
「ミモザ……私だって愛してるわ。お姉さまに負けないくらい」
黄色い小花の群れの隙間を縫って、日の光が降りてくる。彼女の頬に、キラリとガラスのような雫が光った。
「でも、陛下は私をお姉さまのお名でお呼びになったの……」
その涙に俺は歯噛みしてしまう。
「知りませんでした……」
「誰も知らないわ。陛下御自身でさえ気付いていらっしゃらない」
「俺なら、貴女の名前しか呼びません」
「……ありがとう。優しいのね」
唇の端に微かな笑みを浮かべた彼女は、温かな体温を持っているはずなのにまるで幻のように頼りなくて、死にゆく人の顔をしていた。
全身が羞恥で熱くなる。こんな悲しい笑顔を見たかったのではないのに、つまらぬことを言って困らせてしまった。
俺は優しくなんてない。彼女が望む言葉をかけられない。父が彼女に母を重ねているのは誰の目にも明らかなのだ。
今日父は母の面影を妻とし、彼女は父の抜け殻と結婚する。
ぐっと拳を握った。
決して奪えないこの人を、母と呼ばねばならないのかと、更にきつく。