(タカノケイ 作)
青年、で押し通すのが困難で名前を付けてしまいました。
※作者本人ページでも同作品を公開しています。
駅からは長い上り坂だった。一人暮らしをしている大学の友人から「高熱が出たから助けてくれ」という連絡を受け、初めて降り立った街だ。手にぶら下げているコンビニ袋には、清涼飲料水や冷却シートなどの見舞いの品が山盛りに入っていて、これがかなり重い。康太は袋を持ち替えるために立ち止まった。
――プシュウウ
大きな音を立てて真横にバスが止まった。しまった、バス停だったか、と思ったがもう遅い。ええい、乘ってしまおうか、とも思ったが次のバス停が目的地の先だったら馬鹿馬鹿しい。康太は運転手に向かって、違います、と手を振った。年配の運転手は「まぎらわしいな」という目で康太を睨み、バスまでが怒ったように大量の排気ガスを吐いて走り去った。
時代遅れの商品を並べた店舗が続く古い駅前の通りは、それなりの交通量があるのに一車線だ。バスはなかなか康太から離れず、軽油特有の排気ガスを浴びながら、ようやく坂道のてっぺんに辿り着いた。
俯瞰の景色の中に、似たようなデザインのアパートがいくつも並んでいる。家賃がお手頃なかわりに、安普請で狭い学生アパートだ。
「……これだよ」
康太は思わず声に出して呟いた。目の前にはバス停があった。学生はほとんどが車を持っていないのだから、当たり前と言えば当たり前だ。自分の要領の悪さにほとほとうんざりしながら、康太は友人のアパートを探した。
――右側の一番手前、メゾンなんとかのA201号室……
周りを見渡すと、向かって右側、一番手前のアパートの壁にメゾンヴィアーレAと書いてあった。
「あった」
ペンキの剥げた鉄製の階段を登りきると、一番手前の部屋が201号室だった。康太は音符の描かれたチャイムを押し込む。すぐにパタパタと足早に玄関に近づく足音に、カチャリと鍵を外す音が聞こえた。
高熱なのに随分と元気ががいいなあ、と安心すると同時にドアが外側に大きく開く。
「おかえりなさい」
どこか思いつめたような声と同時に衝撃があって、一番最初に思ったのは「良い匂いだなあ」ということだった。気が付くと、康太は部屋から出てきた髪の長い女性に抱きつかれていた。困惑と、柔らかいという感激が同時に起きる。誰だろう。誰と間違えているのだろう……間違えて……はっと我に返って、康太は彼女の肩に手をあてて押し離した。細くて長い髪が、さらりと手の甲をくすぐる。
「あの……」
ごくりとつばを飲み込んで、ようやく発音すると、彼女は首を捻るようにして康太を見上げた。涼し気な目元から、上気した頬へと一筋の涙が零れている。その目は一旦驚きに見開かれた後、彼女の気持ちをありありと伝えて暗く沈んだ。
その表情を見て、康太は縫い止められたように動けなくなった。何か言わなくては、と思うのに声が出ない。無意識に白いキャミソールの間から覗く肌色に向かおうとする視線を抑え込むので精一杯だった。
「すみません、私、人違いしてしまって」
形の良い唇が吐き出された声が、康太の耳を震わせる。
「あ、いえ、あの。俺、俺も部屋を間違えた、みたいで」
かすれた声でしどろもどろに言うと、彼女は「そうですか」と言って部屋の中に消えた。カチャリ、と鍵の締まる音を聞いても、康太はしばらくその場から立ち去ることが出来なかった。
2017/03/27 作者本人ページでも同作品を公開のため、注を追記