明けの明星 (たびー 作)
最後に聞こえた指示はシンプルだった。
『宵の門より入れ』
シンプルだったけど……クソ爺が! 死ぬかと思ったわ!海上に出現した『ゲート』に、まっ逆さまに飛び込め、かよ!
ぼくは未だに激しく鼓動を打つ胸をなだめつつ、水上機を操縦した。着水した入江は波がおだやかで、エンジンは途切れることなく、機体は水面を滑っていった。
爺が水上機にこだわっていたのは、このせいか。
ほんと死ぬかと……いや、もしかして、死んでいるのかな?
コンパスの針はぐるぐる回って止まる様子はないし、高度計の針は定まらない。ひとまずエンジンを止める。
ここは地獄か天国か。
アクアマリンの透明な海の底の白い砂に、機体の影がくっきりと映っている。海中には、赤や青、緑の原色の鱗を光らせて小魚が泳ぐ。空は虹が幾重にもかかり、シルクのスクリーンに写し出されたよう。
うん、少なくとも地獄ではないだろう。
さて、目的は達せられるか。機体に破損はないし、帰りの燃料も大丈夫そうだ。ネックレスのペンダントヘッドを飛行服のうえから一度強く握り、キャノピーをスライドさせた。フロートへ慎重に降りる。斜めにかけた鞄が濡れないように持ち上げ、覚悟をきめて海へと入った。
見た目通り水はぬるく、腰までの深さだった。けど、じきに浜辺へと上陸できた。
革のブーツを脱いで逆さまに……と、思うそばから濡れた衣服は乾いた。
やわらかく甘い匂いを風が運ぶ。ぼくはフロリダの別荘へ行ったときのことを思い出した。庭に咲き乱れていた、ブーゲンビリアの香りと似ている。
さすがに暑くて、手袋と毛皮の耳当てつきの帽子を脱いで腰のベルトに挟んだ。髪を切ってきてよかった。鞄の中身が無事なのを確かめて、砂浜からすぐに続く貝殻の道を進んだ。
爺から聞いていた通りだ。地面から泡のように水の粒が現れて、ぼくの肩のあたりで、ぱちぱちとはぜる。椰子の木、シュロの木、絡みつく蔦の先に咲く赤い花。エメラルド色の大きな羽根の蝶が優雅に飛び交う。鳥のさえずりが響く森をゆく。
ぽこん、と何かが頭にぶつかった。
ねじくれた枝々が頭上にあり、木と木のあいだには蔦が幾重にも蔓を伸ばている。小さな赤い実が鈴なりだ。これがあたったのかな?
と、思うそばから、その実が数個飛んできた。微動だにしない、ぼくのでくの坊ぶりを笑うように、輪唱のような笑いが聞こえてきた。
それから、かすかなお喋りも。
――せいたかさん。
くすくす。
――痩せっぽっち。
――蜘蛛みたいね、手足が長くて。
くすくす。
爺の言葉を思い出す。
『うろたえるな』
……金の髪、その服……前にも来たかしら?……キリィ坊や。
ぼくの足が止まる。
『うろたえるな、たとえ名前を呼ばれても』
慌てるな、落ち着いて進め。足元の枝や石につまずかないように。
爺の軍服のレプリカ着てきて正解だったな。親戚一同が認める通り、ぼくは爺の若い頃に似ているらしい。姿形も性格も。
『一族きっての変わり者、おまえにしか頼めないよ』
はん? 変わり者なのはお互い様。
『なら、似た者同士からのお願いだよ』
気軽なお使いみたいに頼むなよ。
貝殻の道、色とりどりの蝶や小鳥、むせかえるような甘い香り……森を抜けたなら、きっと……。
「ようこそ、キリィ。こちらはおきに召しまして?」
石柱が並ぶ通りの入り口に、ゆるく波うつシュガーピンクのロングヘアーの女性が十人ほど引き連れて待ち構えていた。
両肩を露にした褐色の肌に、小さな赤い珊瑚を連ねた首飾りに腕輪。髪にはハイビスカスによく似た花を飾っている。白く薄い布ごしに、幾重も重ねた裾がふわりと広がるドレス。わざとだろうか、素肌が透けて見える。
優美な眉とくっきりとした瞳の形。魅惑的な少し厚目の唇をすっと引き上げて微笑む。
あれだ、ゴーギャンの絵の女性たちに似ている。まとっている衣服はまちまちだけれど、みな惜しみなく自分の美しさをさらしている。
「ところで、ご用……」
かしら、と彼女が言い終わらないうちに、手首を掴かみ引き寄せた。華奢な体はあっさり僕の元へとやって来た。そのまま唇を重ね合わせる。
しばし沈黙が流れた。
目を丸く見開いたままの彼女とぼくは熱い口づけを交わしたまま、見つめた。
きゃああ! お供から悲鳴があがった。
「不埒もの! 無礼者!」
口づけた彼女を腕から解放し、かな切り声をあげる女性の横であっけに取られている黒髪の少女の唇を素早く奪う。
悲鳴はさらに大きくなった。腰を抜かして呆然と座り込んだ少女の頭をなでて、ぼくは周囲を見渡す。悲鳴がピタリと止んだ。みな唇に手をあて、身をすくめている。
パチパチと地面からの水の泡がはじける音だけがした。
じりっとぼくが一歩体を進めると、再び悲鳴の渦だ。
「ねえさま、じょ女王をお守りして!」
腰が立たなくなったシュガーピンクの君が上半身だけ起こして指示を飛ばす。皆が一斉に走り出す方向へぼくもついていく。追い抜きざまに、捕まえて片っ端からキスの嵐だ。