伴侶 (たびー 作)
※作者本人ページでも同作品を公開しています。
故郷の雪を頂く山の峰々は遙か後方へと去り、荒涼たる砂礫を越えてハサンは王都の門へとたどり着いた。
こちらもまた、大きな山のように見えた。眼前にそびえる岩壁は左右に長く、壁面にいくつも小窓があった。そして窓には必ず十字に鉄の棒がはめられている。おそらく中は五層くらいになっているように感じられた。岩壁の頂には、見張りの兵士が数人立っているのが見える。
「奴らの襲来にそなえているのだ。ハサン、山育ちで目のいいおまえには、おそらく見張りの役が回ってくるだろう」
となりを歩く神馬のオルガが、ハサンに話しかけてきた。背の低いハサンに話しかけるため、頭をげると、白銀のたてがみがさらりと揺れる。
正面の門は小さく感じた。けれど黒檀の分厚い板を金属で縁取り、聖句が踊るような文字が金と銀とで描かれている表面は、荘厳さを湛えている。門は他にも何ヵ所かあるのかもしれない。
「なんとか日没まで着けたな。正式な手続きは明日になろう。なに、心配するな。我らはすぐに宿舎へと案内される」
ハサンたちのように、荷を担ぎ、荷車門を引く驢馬を急かす人々が見受けられた。ハサンの背丈の三倍ほどある門扉を近くで見ると、聖句の間には鏃がいくつも深く突き刺さっていた。
「……先の戦いの痕だ」
ハサンのからからの喉がごくりと鳴った。
道中に古戦場跡を通った。高山にある村から下りてきて間もなくだった。
草の一本もない、岩だらけの地面から無数の剣が突き出し錆びついていた。それから、折れた矢羽たち。空から降り注いだ残骸だ。亡くなった者たちの遺骸は無かったが、オルガは共に戦い亡くなった夫の痕跡を求めるように、優美な頭を垂れ、しばらくの間地面の匂いを追っていた。
翼ある者たちは天から地上へ矢を射る。地を走る者たちは地中から剣を生み出し、空へ放つ。
神馬の夫となったものは、ひとたび戦となれば、神馬と一つになり闘う法だ。
自分にそんな大役が務まるだろうか。ようやく十三になったばかりのハサンは、足がすくむ。
「どうした、ハサン。家に帰りたくなったか?」
ハサンは慌てて首を横に振り、滲んでいた涙を赤と青の糸で細やかに刺繍されている袖で無造作に拭いた。
「ほら、母たちが用意してくれた衣装が汚れる。だいじょうぶ、わたしが傍にいる。おそらくお前は今までの乗り手の中でも、一番の若さかだろう。けれど、わたしが選んだ。誰よりも同じ音色で魂をふるわせるおまえを」
神馬は自ら乗り手を選ぶ。選ばれたものは、男女を問わず夫と呼ばれる習わしだ。
ハサンがオルガに乗ったのは、まだ一度だけだが、体が溶け合い大地を思うさま駆けまわった。熱い血潮が全身を駆け巡り、力がみなぎり、いつまでも駆けていられると感じた。今思い出しても、鼓動が早くなる。光も匂いもすべてが色彩を持ち、目に飛び込んでくる光景は人として見るときと全く異なる様相を呈していた。耳からの音は何層にも聞こえ、距離の遠近は関係なかった。
そして、とてつもない恍惚感も。
ほら、門をくぐるぞと、オルガに促されてハサンは前を向いた。ハサンとオルガが門の衛兵の前を通り過ぎると、兜をかぶり槍を持った体格のよい衛兵たちは無駄話を止め、二人を見つめた。
「ハサン、おまえはわたしの夫だ。臆することはないよ」
オルガの声は、ハサンの気持ちを落ち着かせてくれた。深く青い瞳のオルガ。銀色の鬣をなびかせ、平原を駆けていたオルガ。どの神馬よりも精悍で美しく。ハサンは山の牧場で山羊を追いながら、その光景をいつも見ていた。
「うえをごらん」
門を潜ると、中は岩の天蓋でおおわれた町だった。壁に沿って段が刻まれ、緩やかならせん状の通路は、天井まで続いている。通路は店や住宅の前にあり、小さく区切られた住まいの入り口には、色とりどりの小さなランプがともされている。買い物帰りや宿を求める者たちが通路はごった返し、ざわめきでオルガの声が聴きとりづらい。肉を焼く油の匂いの混じった煙や野菜を煮込む湯気や煙がこもることなく流れていく。どこかに風穴があって、つねに風が吹いているようだ。
「天井からも明かりはとれる。奴らが攻めてきたときには、塞ぐのだ」
おそらく天蓋をぬけて、岩壁の上に出られる。そこにも衛兵たちが詰めているのだ。
「口を閉じて」
言われてハサンは口が開いたままのなに気づいき、慌てて手で押さえた。行き交う人々が、オルガの行き来の道を空ける。同時に、ハサンにも畏敬の眼差しを向けるのだ。
「正面の奥が王宮だ」
樹木や花をかたどった彫刻が施された柱が整然と並んでいるのが見えた。
「その隣は神殿。あそこで我らの婚儀がなされる」
神殿の入り口の天井近くには勇ましい白と黒の神馬の彫像が飾られている。いつの間にやら人々から歓迎の歌が沸き上がった。
新しい神馬と夫祝福の歌を。
「ハサン、手を携えともにゆこう」
ハサンにもう迷いはなかった。
2018/10/25 作者本人ページでも同作品を公開のため、注を追記