トリップ・トリップ (ながる 作)
作者本人ページにも掲載予定です。
私には密かな楽しみがある。
眠る寸前、ほんのシビアなタイミングで意識を飛ばすと、見たこともない世界に行けるのだ。
幼い子供の暗闇に対する恐怖心を紛らわす遊びだったのか、大好きだった物語に入り込みたい好奇心だったのか……きっかけが何だったのか今となっては判らない。
判らないが、私はその短い旅に夢中になった。何処かに行けるのは一晩に一度きり。だから、私はトラブルに会わないように、目を覚まさないように、その世界を堪能するのだ。
*****
しっとりと濡れた緑の匂い。
傾斜の急な山々の間を縫うように歩いている。
纏わりつく湿気は程無く小さな粒となって全身に降り注ぎ、私は少し足を速めた。小雨が本降りになり、バケツをひっくり返したような大雨になる。
幸いなことに、ずぶ濡れになる前に、岩山にぽっかりと口を開けた洞窟を見つけて飛びこんだ。
大きな洞の入口では雨が入り込んでくる。私は少し奥まで足を進めた。
暗がりに目を凝らしてもそれがどこまで続いているのか分からない。
フードの付いたローブの雨粒を払い、腰回りを探る。
ナイフに小物入れ、液体の入った筒。足元はブーツ。随分軽装だけど、旅人だと言えばそう見えるだろう。小物入れの中には幾ばくかのお金(らしきもの)と干し肉が少し、紐が数本。それだけだった。
明かりになる物が欲しかったな、と背中に手を回してみても他に荷物は無い。
暗闇から水のカーテンへと視線を移す。その先に見えるはずの緑も、音をたてて真直ぐに落ちる雨に滲んでいた。
不意に水を踏む音がばしゃばしゃと聞こえ、ぼんやりと動く影が水のカーテンに揺らめいた。
咄嗟に私はナイフに手をかけ、身を硬くする。
飛び込んできた青年は私を見るとぎょっとしたように足を止め、何か言葉を発した。動けないでいると、彼はマントを脱いでばさばさとはらってからゆっくりと近づいてきた。威圧感の無い程度の距離で足を止める。
『世界』を見る時、私は会話をしたことが無かった。言葉が分からないからだ。こんな風に誰かと向かい合うこともほとんどなくて――
「――――――かい?」
「え?」
雨音に混じる声が日本語に聞こえたような気がして、私は思わず聞き返していた。
「あ、良かった。口がきけないワケじゃなかった。君もアマヤドリかい?」
イントネーションが少し妙だが、確かに意味は伝わる。何故、と思いつつも私は答えていた。
「……急に、降られて……」
「この辺りのメイブツみたいなもんさ。しばらくしたらカラッと晴れる。道にでもマヨったのか?」
「……たぶん」
会話が成立することに、どきどきしていた。
「随分、珍しいコトバだな。俺の、伝わってる?」
「え? はい。大丈夫です」
「なら、良かった。ヒマなら俺に付き合うか?」
そう言いながら、彼はカンテラを取り出して中の石のような物を弾いた。ぽっと明かりが灯る。
「珍しいものを見せてやれるぞ」
にっと笑う彼が悪い人には見えなくて、何より「珍しいもの」が知りたくて、私はその提案に乗ることにした。
彼について奥へ奥へと入る。洞窟はだんだん狭くなり、あちらこちらへと枝道が伸びていた。聞くと、もう閉山された鉱山なのだという。
ある、ほんの狭い場所を抜けると雰囲気が一変した。
白っぽい岩に水音。カンテラの灯りが届く範囲だけではよく分からないが、鍾乳洞の、ような。
「一度、アカリ消すから動くなよ」
ぱちんと何かを弾く音と共に辺りは暗闇に包まれた。今まで小さくとも明かりを感じていた瞳には何も映らない。急にこのままここに取り残されたらどうなるのだろうと恐怖が襲ってきた。
目を覚ませばいいだけなのに、自分が眠っているのか起きているのかも曖昧になっていく。呼吸が乱れそうになった時、彼が囁くように言った。
「見てて」
カツーンと石をぶつけたような音が響き、辺りが一瞬にして明るくなる。眩しい光はすぐに収まり、周囲の岩壁に星が集まったような細かい明かりが取り巻いているのが見えた。
その星空の帯はゆっくりと広がって、鍾乳洞の中を奥へと移動していく。足下には小さな棚田のような水たまりが連なっていて、その水に星空の帯が映りこんでは流れていった。
何度か青年は同じ動作を繰り返した。鍾乳洞を走る星空。その光景に声も無くただ見惚れる。
LEDで作られた光の流れるイルミネーション。あんな風だけれど、もっと儚い光。なんだか泣きそうになった。
彼はその後、棚田のように連なる水たまりの中から白く丸い石をいくつか拾い上げていた。
「ちょっとスゴかっただろ?」とウィンクした彼は、からりと晴れ上がった空にその手を上げてひらりと振る。別れがたい気持ちを押さえて、私も小さく手を振った。
手のひらの中には、白く丸い小石がひとつ。
これは、持ち帰れるのだろうか。
目覚めたくないような、目覚めるのが楽しみなような――
白い小石を弾いて、包み込んだ両手の中を覗き込む。
ぼんやりと乳白色の光が、小さな闇を満たしていた。