遠くまで (キュノスーラ 作)
午前五時。
軽やかなアラーム音が鳴りはじめたのとほとんど同時に、それまで死んでるみたいに動かなかった明日香の手がばっと伸びて、スマホを掴んだ。
彼女はそのまま一挙動で立ち上がって、窓に近づき、障子を開け、まだ暗い窓の外を確かめようとガラスに顔を近づけた。
「えっ……うん? あっ! 大丈夫や、雨、降ってない!」
「メガネかけえや」
「あ、忘れとった。……ていうか、まやちゃん、準備はやっ! もう今すぐ出られるやん」
「四時半くらいに目ェ覚めてしもてな。こっそり着替えててん」
「嘘っ。何も気がつかへんかったわ」
明日香と登る、最後の山。
入社直後に、たまたま研修で隣の席に座った。ちょっと喋っただけで、ものすごく気が合う相手だということが分かった。
自然が好き。山が好き。ザイルとかピッケルとか、そういうガチのやつじゃなくて、もっと気軽に野山を歩くような。日帰りで山を歩き、町に降りてから、グルメとショッピングを楽しんじゃうような。
少しくらい予定が狂っても、たとえば、立ち寄ろうと計画してたお店が臨時休業してたようなときにも、いらいらしない。
えーっ、こんなことある? と二人で笑って、次の行動を考える。
一緒にいると、心地好かった。
それぞれ違う部署での勤務になり、仕事の内容も時間帯も違うようになっても、ときどき予定を合わせて、一緒に山を歩いた。
「三十秒で支度するわ。今の、アレやで、ドーラさんの真似やで」
「四十秒じゃなかった?」
出会ってから六年。
彼女は、この秋に結婚して、関東に行く。
相手の人のことを、私は知らない。私たちは、そういう話はほとんどしなかった。
山にいるときは、今、目の前に広がる景色のこと、今、聴こえてきた音のことを話す。
「忘れ物、なし」
「ほな行こか」
個室を出て、フロントの前に用意されていた弁当――早朝に出発する者は、注文しておけば、こうして用意してもらえる――をザックに詰め、山荘の外に出た。
山荘の裏手から、いよいよ登り始める。
あたりはうす暗く、空はどんよりと曇り、私たち以外に人の姿はない。
足取りに合わせて、念のためにつけてきた熊よけ鈴の音が響く。ずっと前に同じ店で買ったけど、種類の違う鈴。明日香の鈴の音は高く、私のはそれよりもすこし低く。
「あれ見て、花」
「ツツジっぽい。蜜吸いたい」
「それ懐かしいな。……ほんま、山は空気がええわ。台風マジで残念なんですけど」
「ほんまやな。今か!? って感じやったな」
私たちの、きっと最後の山。
いつもの日帰りツアーとは違って奮発し、遠出の二泊三日で、白馬岳の山頂を目指す計画だった。
だが、台風が来たせいで、乗るはずだった列車が運休。一日目が消滅して、一泊二日になってしまったのだ。
今、目指しているのは、天狗平という湿原。
そこに着いたら、折り返しで下山しなければ、帰りのバスの発車時刻に間に合わない。
「まあ、山頂だけが山じゃないしね」
「そやな。今、雨降ってないだけでも、まあセーフってことで」
地図と、岩にペンキで書かれた印、木の枝に巻かれたテープを頼りに、山道をどんどん登っていく。ふだんよく登る低山とは違って、背の高い木が少なく、見通しがいい。
「見て! 万年雪や!」
「カメラカメラ!」
何だかんだと騒ぎながら一時間半ほど登ったところで、天狗平に着いた。
「なんも見えねー!」
「こんなことあるー!?」
ものすごい霧が立ち込めて、あたりは真っ白。
地面に敷かれた木道さえも、数歩先までしか見えない。
「やばいよ。景色関係ねえ!」
「マジでやばい、何これ! あっ、標識! 天狗平!」
「カメラカメラ……うわー、マジでなんも見えねー!」
木道の脇に設置されたベンチに座って、私たちは弁当を広げた。
こんなことある? やばすぎるよね、何ひとつ見えないんですけど。弁当の中身すら、はっきり見えないんですけど。いやそれは言いすぎ、見える見える一応見える。
賑やかに言い合いながらも、残念だという気持ちは大きくなっていった。
最後の山。
せっかく遠くまで来たのに、景色がこれじゃあ――
「あっ」
佃煮が入っていたアルミカップを、箸で引っかけて落としてしまった。
弁当をベンチに置いて膝をつき、木道の隙間に落ちたやつを、指先をさしこんで拾う。
「うわ……ここ、飴の包み紙とか落ちてる! もう! 自分で拾えよ、落とした奴!」
「マジで? あかんな。これ、ビニル袋……あっ」
明日香が口を広げて差し出してくれたビニル袋が、中途半端な高さで止まった。
私は何事かと首をひねり、それを見た。
ガスが、切れてゆく。
左から右へと、まるで大きな手が舞台の幕をさあっと開いたように。
同時、雲が割れた。
太陽が、昇っていた。
洗われたような光。
湿原の水が、緑がきらめき、湿気を含んだワタスゲの穂が輝きを放つ。遠くまで――
「最高や」
明日香が言った。
「空気が光ってる。まやちゃん、絶対、また来ようね。二人で!」
「うん」
私は笑った。
「今度は絶対、二泊三日や!」