二つの心性 (雨宮吾子 作)
私は二つの心性を抱えていた。晴れの心と、雨の心とを。
それは容易に陽性だとか陰性だとか、そういった言葉で括ることのできない心で、晴れの日を陰気に過ごすこともあれば、雨の日を陽気に過ごすこともあり、またそれらが反転したりもした。心と身体のようにお互いが並立して、お互いに影響を与え合う、お互いがなければならないような、そんな心性なのだった。
私がまだ幼かった頃は、その二つの心性を意識していなかったから、どちらが優位であるとか、そんなことを考えることも当然なかった。後になってから考えてみると、主に雨の心の方が活き活きとしていた。放課後の学校の、暮れ方の薄曇りの空から、雨がしとしとと降り注ぐ春の日の光景は、今でも私の心の中に根付いてはいる。それも風に吹かれることで傷つき、次第に萎びてしまってはいるのだけれども……。
中学に上がって、登下校に沢山の荷物を抱えるようになってからは、その心性の有り様も次第に変わっていった。純粋に生活的な問題として、雨の日の登下校にストレスを感じるようになったのだ。それでもまだ晴れの心と雨の心は拮抗していた。拮抗、という言葉を使わなければならないくらいに、緊張が心の中を渦巻いていた。私の中学時代は、暗黒だった。
無事に高校に上がると、生活環境も変わって心は随分と伸びやかになった。その頃になるともう雨の心は弱まっていたけれども、まだそこに存在はしていた。ある初めてのデートの日、友達でもありそれ以上でもありそうな男の子と、待ち合わせ場所に選んだ屋根のあるバス停で、雨が降りしきるのを見ていたあの瞬間、私の心は完全に逆転してしまった。十五分も遅れて彼が姿を現したとき、肩のところの筋肉が風雨に吹かれてシャツの下に透けているのを見たとき、今日が晴れの日だったらどんなに心が爽やかだったろうと思ったとき、私の心の中では既に晴れの心が優位に立っていた。
それから幾つもの出会いと別れを重ねていき、私の心も衣替えをするように移り変わっていき、二つの心性を抱えていたはずの私は、いつの日か雨の心を失くしてた。私の心の中に降る雨は、その源である海は、枯れてしまっていた。
やがて私は母になった。今こうして言葉を、慎重に言葉を紡いでいる私だ。子どもを授かると強かになる女性もいるらしいけれど、私は却って繊細になってしまったらしい。初めて子どもの小さな手を握ったとき、その玻璃のように脆く壊れてしまいそうな性質に触れてからというもの、私はそれを壊すまいとして縮こまってしまったのだ。しかし、子どもというものは、親の想像を遥かに越えて成長していく。
「おかあさん、雨だよ!」
幼稚園の卒園式の朝、雨の降り注ぐ屋外の光景を見ながら、彼女は嬉しそうに、晴れがましい心をこちらに向けていた。
それから幾日も経たずにこうして言葉を紡いでいる私は、自分の中から消えてしまった雨の心を、ようやく一つの結晶として見つけることができた。
さようなら、そしておかえりなさい。晴れの心の残った私は、これからは太陽となってあなたを照らしていきます。