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【習作】描写力アップを目指そう企画  作者: 描写力アップ企画管理者
第四回 サヨナラ相棒企画(2018.3.24正午〆)
133/268

ラストステージ (Veilchen(悠井すみれ) 作)

※作者本人ページで同作品の加筆版を公開しています。

 父と私の間に、ベルベット張りのケースに収められた《ダフネ》が横たわっていた。艶めかしい曲線を描く木製の本体は、ニスで磨かれて飴色の輝きを放つ。ぴんと張った四本の弦は、が秘める音の魔力を思わせる。

 長年に渡って数々のヴァイオリニストに奏でられてきた《ダフネ》は、この三十年ほどは父の寵愛を一身に受けていた。


「父様、もう限界です。折れるか諦めるか、です」


 父が《ダフネ》を見つめる眼差しは、常に愛しげかつ誇らしげなものだった。だが、今その顔は血の気が失せて、恐怖さえ孕んだ目で私と彼女を見比べている。

 父にそのような表情をさせることに対して、息子としては忸怩たる思いを抱くべきなのだろう。だが、私はどこか高揚を感じていた。母も私も顧みなかった父を、ここまで狼狽させ追い詰めることができた。そのことに、歪んでいるとは知りながら悦びを感じずにはいられない。


「もう何度も弾いてやった」

「指定されたのと違う曲でした。もっと愛国心とか戦意を奮い立たせるようなのじゃないと」

「あんなつまらん曲……!」


 父の評価は、必ずしも正当ではないと思う。軍が威信をかけて作らせた曲の数々は、私の耳には十分趣向を凝らしていると聞こえるのだが。まあ、父の楽才を受け継がなかった私には分からないということなのだろう。

 とにかく、それは今の本題ではない。私は一枚の紙片を取り出して《ダフネ》の傍らに延べた。


「今度の演奏会のプログラムです。《ダフネ》で――我が国が誇る名器で演奏されるということだけは決まっている。」

「私以外の誰が――」

「ならば演目通りに。どうしても嫌だというなら、彼女は他の男の手に落ちることになります」


 プログラムに並ぶ誇りだの血潮だのという単語が父の気に入らないことは百も承知で、私は冷たく宣告した。世知に疎い父にも、酌量の余地はないのだと、どうしても否と言うなら力づくになるのだと伝わるように。


「《ダフネ》は我が子同然だ。娘に人殺しの手助けをさせたい親がどこにいる!?」


 娘というか恋人だろう、とか。実の息子が軍服を纏って目の前にいるのはどうなんだ、とか。そんなことを言うつもりは私にはなかった。父の不従順のせめてもの埋め合わせに私がこの道を選んだこと――どうせこの人は知らないし、知ろうともしないのだ。


「ひと晩じっくり考えてください。明日また来ます」


 だから、《ダフネ》を抱えて俯く父の旋毛つむじに短く告げて、私は父の部屋を後にした。




 狭く急なアパルトマンの階段は、老いた父の身には大分堪えるだろうと思えた。かつての屋敷には一階だけでも使い切れないほどの部屋があったのに。《ダフネ》に相応しい――時に禁じられた――曲を奏でるために、父は援助を打ち切られ罰金を課され、軍人や役人を黙らせるために財産を切り崩した。慣れない苦労は母の命をすり潰した。挙句の果てに、父はその母との思い出が詰まった屋敷まで手放して――でも、《ダフネ》と別れることだけは頭にないようだった。


 そのことで、私は多分父も《ダフネ》も憎んでいる。




 翌朝、私は一人でアパルトマンの前に立っていた。部下の手を借りる事態になるまいと期待したかった。長い階段に溜息を吐きつつ、足を上げた――その時、ヴァイオリンの音色が耳に届いた。《ダフネ》の声だ。


 最後の別れのつもりか、と首を捻りながら数段を上がる。と、不意に私の心臓は跳ねた。この曲、これは投獄された作曲家によるものだ。

 そこからは階段を数段飛ばしで駆け上がった。その間にも曲は変わる。ああ、これも駄目だ。敵国の民族音楽じゃないか。こんな曲を、街中で奏でるなんて!

 段を踏み外して膝をぶつけ。場違いな音色を訝って扉を開けた住人と押し合って。無様に息を乱しながら上る私とは裏腹に、《ダフネ》の音色はどこまでも優雅で繊細で美しかった。


 この音色、この曲が描き出すのは。花咲く野で戯れる子供たち。清らかな水の流れ。満天の星空。顔を寄せ合う恋人たち。深い荘厳な森。心動かす場面の数々。でも、目に浮かぶどれにも私と母はいなかった。


 溢れ出る涙を拭いながら、やっと父の部屋に辿り着いて、扉を――鍵は掛かっていなかった――開け放つ。


「父様! 貴方という人は――」


 どうしてこんなことを。どうしてみんな無駄にする。《ダフネ》を手放せば丸く収まるように、上に掛け合ってあげたのに。


 言いたいことは山ほどあったのに、口にすることはできなかった。ちょうど演奏が終わった瞬間だったのだ。余韻をぶち壊す無礼な観客わたしを一顧だにせず、父は、ただ朝の青い空を背景に穏やかな表情で佇んでいた。青空――そう、窓も開いていた。


「父さ――」


 声も、伸ばしかけた手も間に合わなかった。父は《ダフネ》を窓辺にそっと置くと、優雅な所作で一礼をした。演奏の終わりに必ずするように。


 そして《ダフネ》にあの熱い眼差しを一度だけ投げて。父は。窓枠を踏み越えた。

2018/05/23 作者本人ページでも同作品を公開のため、注を追記

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