鈴木さん (青月クロエ 作)
※作者本人ページでも同作品の改稿版を公開しています。
約束の時間まで大分ある、だなんて。
昼寝をしたのが大失敗だった。
ふと目を覚ませば、窓越しに映る空は茜色に変わり、太陽は西へと沈み――、つまり、とっくに約束の時間は過ぎていた。
スマートホンの着信履歴には二回、あいつからの連絡が。
「やっべぇ……。あいつ、絶対怒ってるだろうな……」
布団から飛び起きた僕は、着の身着のまま部屋を飛び出し、あいつが暮らすアパートへと全力で自転車を走らせた。
アパートに到着するなり、日に焼けた石壁へ放り出すかのように自転車を立て掛ける。
直後、ガガガッと嫌な音を立てて自転車が倒れていく。
僕は気付かない振りをして、錆びついた鉄製の階段をカンカンと踏み鳴らし、二階まで急いで駆け上がる。同時に、更なる問題が発生した。
「えーっと……、あれ、202か203どっちだったっけ……??」
塗装の禿げたトタン壁に、等間隔で設置された五つの扉の前を、うろうろと何度となく往復する。
あいつに電話すればいいだけの話だけれど、時間に大幅に遅れて到着した上に部屋番号も忘れた、となったら、長々と説教されるに違いない。
でもなぁ、どうしよう……、と、後ろ手でズボンのポケットを弄ってはスマートホンを取り出すかどうか、しきりに迷っていた――、が。
「……ん??『202 鈴木』……」
扉上部――、申し訳程度に貼られた表札に視線を巡らせた時、僕は取り出しかけていたスマートホンを再びポケットに押し込む。
あいつ――、鈴木の部屋は202だ。
ピンポーン――
ボロアパートの癖に、ドアチャイムの音だけはやけにでかいな、などと驚いている間に、ガチャリと扉が開く。
濃厚で甘ったるい香水の香りに鼻腔を刺激され、僕は間違いを犯したことに気付かされた。
ドアチェーンは外さないまま、控えめに開けられた隙間から僕を見上げているのはあいつ、ではなく。
猫みたいに吊り上がった大きな瞳を持つ、若い女性だった。
化粧を一切していないせいか眉毛が薄く、少しぼんやりした目元だが、目付きや視線がやけに鋭い。
緩くウェーブがかった髪は長く、金に近い茶色で根元はちょっとだけ地毛が伸びていて黒い。
ゆったりしたスウェットに、素足にサンダルという格好ながら、だらしなく見えないのは顔立ちが整っているからか。
気怠そうなのに、どことなく自分に自信ありげな雰囲気から推測するに、外出時は化粧も服装も派手なタイプ、かもしれない。
「あ、あの……」
「………」
大きな猫目を細めたかと思うと、射貫くような、非難がましげな視線を無言で突きつけてくる。
鋭い視線に絡めとられた僕は、がちがちに固まって身動き一つ取れない。
ぽってりと柔らかなそうな唇から、痛烈な罵倒の言葉を浴びせられるのか。
はたまた、華奢な掌で頬を張り飛ばされるのか。
緊張、恐怖心を通り越し、ある種の覚悟すら抱き始めた僕に、その人は、少し掠れた仇っぽい声で一言、ぼそりと漏らした。
「……宅配便の人、じゃない……??」
呆然と呟いた後、跳ね上がった眉尻と目尻が引き下がり、白い頬がみるみる内に朱に染まっていった。
つい先程までの威嚇じみた表情から一転、おろおろと狼狽える様――、表情の落差に、図らずも僕の目は奪われた。
僕の食い入るような視線を感じ取ると、彼女の頬は益々赤らみ、居心地悪そうに身を竦めていく。
間違えて扉を開けたことに、対してか。
気を抜き切った姿を見知らぬ他人に見られたことに、対してか。
どちらにせよ、羞恥に身悶え、もじもじと身じろぎすら始める姿に、思わず抱きしめたい衝動に駆られた。
(いやいや、さすがにそれはやっちゃならん!変質者認定されて警察に突き出されるわ!!)
「えっと……」
とりあえず、謝罪なり何なり、何か喋らなければ、と、喉の奥から振り絞るように言葉を発しようと―――
バタン!!
唐突に、僕の鼻先擦れ擦れで乱暴に扉が閉められた。
今の今まで僕の視界は彼女の姿だけが映り、音も景色もない静寂の世界が終わりを迎える。
目の前には、年季の入ったトタン壁と、壁と同じく塗装がところどころ剥げ落ちた白い扉。
電球が切れかかっているらしい、ポカポカと点滅しながら頭上を照らす照明器具に、黒い羽虫達が集まっている。
「お前さぁ、何間違えてんだよ」
「うるせー。まさかお前のお隣さんも鈴木だなんて知らねーし」
彼女の部屋と入れ替わるように開かれた、右隣の部屋の扉からあいつ――、ニヤニヤと含み笑いを漏らす鈴木に腹を立てつつ、心臓はまだ痛いくらいに早鐘を打っている。
『鈴木さん』の恥ずかしそうな赤い顔が、脳裏に浮かんでは消えを何度となく繰り返され、浮かぶ度に僕の頬が、胸が、カーッと熱を帯び始めた。
(了)
2017/12/03 作者本人ページでも同作品を公開のため、注を追記