月がわるいのです (新染因循 作)
散文詩。
あまたの星々が射かけた光が、きみをつらぬく。何色のきせきが縫いとめてしまうのか。ぼくの知らないきみを、ぼくの知らない国へ。
漠とへだてる、よの海から潮風が、彼我にかかる透明な橋を風化させる。軋む音を、ただ聴くだけのぼく。瞳は、古びたポロライドカメラのように、ふせた写真立て、ひるがえる窓帷、流れてくる闇をきりとる。
きみの像は、ぼくたちの部屋をのこして、時間を遡行するように結晶する。潮の香りと、柔らげな潮騒、皺ばんだシーツに、ぼくはひとり丸くなる。そういえばこの頃、森の霧が深い。霧中をまどうかたわの風たちにのって、どこかに落ちたきみへの便りは、まだ此処では光の下にいられるだろう。そう、霧が深いのだ。この頃はとくに。きみはそれを知らないのだから、仕方がない。
今宵もまた、天頂の月の眩いこと。星々の輝きを呑みこみ、深き霧に覆いかぶさり、ぼくの瞳を塞ぐような、その白金の結晶! さながら神話の銀の焔のように、茫洋と浮かび上がる姿に震えるぼくを、どうきみに伝えようか。
きみの空はどうですか。夜、それとも昼? 雲はどうですか。こちらの空では、霧も気にならないほど月が綺麗です。
肉体という不条理が、ぼくを苛むけれど。輝きに包まれるとき、法悦を齎された詩人のように、ぼくは浄化の安らぎに身を恃みます。このままの姿勢で朽ちてしまいたいとさえ思うのです。
ああ、風がさまざまなものを攪拌する。潮、湿った土、庭先の月下美人。緩やかに腐りゆくものの芳しさが、脳髄の奥まで伝搬し、弾ける。ぼくは、霧が放つ微かな光が天井を、さまざまな表情で飾りつけるのを、どこか遠くに見上げる。壊れたはずの時計が廻りはじめ、めくる頁もないカレンダーがばたばたと共鳴している。
たしかにあった。手に握った。零れ落ちた。地を啜ってでも取り戻せばよかった。
もう蒸発してしまったもの。風にのっていったもの。決して戻らないもの。夕焼けにほどけたきみの髪は美しかった。
今日の霧は濃い。乳白色の焔がカーテンをしずかに燃やし、ぼくに覆いかぶさる。冷たく肌を撫で、溶かそうとしているようだ。輪郭をうしなう感覚に、ぼくは眠たくなった。意識の濃淡がさまざまな模様を描いて、なにかを囁いている。霧は定まらないで、ぼくに覆いかぶさっている。もちろん、霧のなかからは数多の顔が顕れた。ぼくの望む顔があるか。わからない。どれも望んでいたような気がしたけれど、どれも美しいとは思えなかった。霧のなかに立ち込める月下美人の香りだけが、記憶に口づけする。
真っ白な顔はまたたくまにぼくをすり抜けた。霧が濃いから、あらざるものでもあらわれるだろう。ただ、ここにぼくの望むものは現れないと確信だけが、ただただ重たかった。
瞼が、霧を含んだように湿っぽくて、冷たさに震える。ねむい。だが夜は永い。いくら眠れど、さめないほどに。