『ジュリエッタ・ジュリエッタ』 (たびー 作)
「ジュリエッタ、夏の休暇は海に行かないの? もう五年も海で泳いでないわ」
起動したジュリエッタ・ダッシュが薔薇の花弁ような唇を開いた。自然なまばたき、かすかに瞼を伏せると、長く密生した睫がまるでアイラインを引いているかのようだ。
「初めて海で泳いだ日を覚えているかな。八月三日よ」
生前、花のような……と言われた若き日の母の姿を模して造られたジュリエッタ・ダッシュ。プラチナブロンドに、サファイアの瞳。母に似るだろうと、私のことを考慮して生まれる前から用意されていた人形。けれど成長した私が父の望みに添うことなく、かろうじて母に似たのは髪の色ばかり。それすら今は…。
「初めての海の冷たさにジュリエッタ、びっくりしていたわ」
波に崩される足元の砂のあやふやさや、肌に触れる海草のきれはしに心拍数が上昇していた。私がまだ四歳のころの記憶だ。ダッシュの中には、私が海へと入っていく期待と不安とで、刻一刻と変化していく身体データのすべてがある。
「……あら、ジュリエッタじゃないのね。……ジュリエッタの母方の、ザナージ家のナタリア様? 情報が更新されていないみたい。でも、ナタリア様は現在八十三歳のはず。あなたは、ずっとお若い。ジュリエッタのおばあちゃまとよく似てる。ジュリエッタと同じ車椅子とインターフェースを使っているのね。それも、より高性能な」
私は視線で動かすインターフェースで顔の前にあるモニターに文字を打つ。ジュリエッタ・ダッシュへのパスコードは、エラーで弾かれた。
「それで、ジュリエッタは? もう五日も私とリンクしていない。ねえ、あなた知らない?」
リンクを切ったのは、もう二十年以上前よ。子どもの頃は、ダッシュから伝わる五感のデータを楽しんでいた。泳ぐこと、走ること、友人たちとの他愛ない会話、固形物を食べること……大多数の人が享受していることを。
「あ、あたしの足……壊れたから外したのね。そういえば、以前にもあったわ。あれはジュリエッタの車椅子が……でもそれは……いつだったかな。あ、腕もない。さっき汚して?」
ガラス窓の向こうには、両手両足がはずされ、裸のダッシュが拘束されている。腕と足からはみ出たコードが血管のように見える。
「海がいいわ。新作のビキニでビーチを歩けば、ボーイフレンドなんかすぐできる」
実際に、そうだった。完璧なプロポーションのダッシュが、きわどいビキニ姿で一人でいたなら、すぐに声をかけられた。
「ラリーより素敵な人を見つけよう」
ダッシュがいたから、短い間だけだったけれど学校生活も体験できた。
毎日、朝が来るのが待ち遠しかった。自立AIのダッシュは誰からも好かれた。美しい外見、そつのない会話、裕福な出自という「設定」。私の代わりにダッシュは学生生活を送った。
初めての友人たち、初めてのボーイフレンド、初めての……出産以外のことなら、『経験』できた。
私は友人たちを、彼を好きだった、愛していた。けれど愛されるのは、私じゃない。ダッシュだ。精巧なダッシュがAI搭載のアンドロイドで、その向こうに私がいるなんて誰も気づかない。私は両親すらも訪れない屋敷の一室にいた。もしも気づいたとして、本当の私を見たならきっと……。
「事件の衝撃で時間軸が破損したようです」
隣に立つ皺ひとつないスーツに身を包んだ捜査官が私に告げた。インターフェースを操作する私に不躾な視線を寄こさない。
『ミオンは?』
「冷静に自供していると」
私はリンクを切るべきではなかった。いえ、リンクを切ったならダッシュをきちんと管理するべきだった。
「人は狂わず、機械が狂うとは」
ええ。まさかミオンがダッシュのコードを書き換えて、私怨の報復へ使うなんて考えもしなかった。
「あたしの腕と足は? これじゃあ何処へも行けない。ジュリエッタに伝えられない。腕、汚れを落として……汚れ、朱い……あたしは……何を……」
糸の切れた人形のように、ダッシュの首がガクンと前に倒れた。もう伝えなくていい、ダッシュは私じゃない。所詮、機械だ。
「これは証拠物件として押収します。その後は廃棄に。機械とはいえ重犯罪者ですから」
五十年前よりインターフェースは飛躍的に進歩し、もうダッシュのような躯体はいらないのだ。
もうダッシュ経由で、走ることも泳ぐことも、人を愛すこともない。
『かまいません』
「では、データチップを抜き取ります」
捜査官はガラスの向こうの技師に指示を出した。白衣の技師の手がダッシュのうなじを探る。
ふっと、ダッシュの瞳から濁りが消えた。それから私をまっすぐに見つめて、ふうっと微笑んだ。
「すきよ」
技師の手がチップを引き抜くと、ダッシュは動きを止めた。あふれた涙が頬を濡らしていく。私は涙をぬぐう手を持たない。
喉の奥から嗚咽がもれた。彼女が最後に私に伝えたものか。
さよなら、ダッシュ。もう一人の私。