3話 【悲報】俺氏、スライムすら倒せない
「申し遅れました。私、この村で剣の指南をさせて頂いております、ジージ・クライツェルと申します」
俺を居間に通した後、老人はそう名乗った。
ジージさんが用意した焼き立ての細長いパンはとても香ばしい匂いがして、朝食も冷蔵庫のケーキも食べ忘れていた空きっ腹には堪らないものがあり、「どうぞお食べ下さい」と勧められて、俺は「い……いただきます!」と手を合わせてからがっついた。
熱々のパンは何も付けなくても恐ろしく美味しかったが、
「これもどうぞ」と赤や黄、紫色のジャムやマーガリンが出される。
「ど、どうも」とそれぞれ付けて食べると、どれも良い味わいで、簡素だが贅沢な朝食となった。
パンってこんなに美味しいものだったのか。
異世界に召喚されたことに未だ戸惑いはあったが、朝食を頂いてしまった手前、何だか強気にはなれず、
「そ、その……美味しかった……です」
と伝えると、ジージさんは嬉しそうに笑った。
「ほっほっほ、それは何よりです。パン屋の主人と、ジャムやマーガリンを作っているご婦人方にお伝えして置きましょう。勇者様が喜んで下さったとあれば、光栄でありましょう」
「勇者……」
その響きが何だかこそばゆく、ドキドキと胸が高鳴った。
ネット小説で数多く見て来た異世界転移が自分の身に起こったのだ。ということは――
「えっと……ジージさん」
「気軽にジージとお呼び下され」
「でも……」
「構いませんから」
「……それじゃあ、ジージ。その……俺が勇者として召喚されたのは、やっぱり何か理由があったりするんでしょうか? 何か特殊な力を持ってたり……とか」
チート過ぎる魔法が使えたりとか。期待してしまう。
ジージは頷いて、
「ええ、ええ。その通りでございます。勇者様は選ばれたのですよ、この世界に」
「世界に?」
「召喚したのは私ですが、勇者様を選んだのは私ではありません。世界が危機に対して、必要な存在を選び出し、ここへ呼んだのです」
「えっと、それで……俺は一体どんな理由で選ばれたんでしょうか?」
ドキドキしながら尋ねる。
が、ジージは首を横に振った。
「それは分かりません」
「え」
「何せ選んだのは私ではありませんから。それに――」
心なしか、ジージの奥まった瞳がギラリを鋭い眼光を放った気がした。
その迫力に圧されて、俺はゴクリと喉を鳴らし、
「……それに?」
「勇者様はまだレベルがゼロですので、まだどのような力が使えるのかは分からないのです」
「まさかのレベル制!?」
しかもまだレベル1ですら無いという。
パンをご馳走になってから、俺はジージに連れられて異世界の土を踏むこととなった。
全身で感じ取れる外の雰囲気は、日本のそれとは全く違うもので、改めてここが異世界であることを思い知らされる。
少なくとも俺は、こんなにも美しい自然の光景を見たことが無い。いや、知らないだけで、地球にもこんな自然を実感出来る場所は存在しているのかもしれない。ただ、俺が生きて来た人生の中では初めての、鮮烈な光景だった。何かに目覚めそうな程に。
視界を阻む物無くどこまでも広大な青空の下、ジージの家がある小高い丘の上から村まで、人ひとり分の細い道を歩いて行く。
ところどころに石や段差などもあって、決して歩き易いとは言い難い道を、ジージは慣れた足取りで進みながら言った。
「そういえば、まだ勇者様を召喚させて頂いた理由をちゃんとお話しておりませんでしたな」
「あっ……そういえば」
レベル制だったことに対する衝撃で忘れてしまっていたが、確かにまだ聞いていない。
「勇者様に倒して頂きたい相手が居るのですよ」
「それって……」
まさか、と心臓が大きく脈打った。
頭の中を過ぎるのは、日本のRPGに出て来るラスボス達。
背中に一対の羽を生やし、炎を吐く巨大なドラゴン。世界支配を目論み、強大な魔力を持つ魔王。世界の光と闇のバランスが崩れた時に現れ、全てを無に還そうとする存在。
いずれもとても倒せるようには思えないが、俺は勇者としてこの世界に選ばれたのだ。レベルが上がって、チートな力に目覚めたりすれば決して不可能では――
「おっ、ジージさん。どうしたんだい? さっきパンを買いに来たばかりじゃなかったっけ?」
村に着くと、三十代くらいの男性がジージに話し掛けて来る。漁師であるらしく、肩には魚の詰まった網を持って、肌の色が浅黒かった。
ジージは「ほっほ」と笑って、
「ええ、そうなんですが、ちょっと村を案内したい方がいらっしゃるもので」
漁師さんの視線が俺へと向けられ、瞳が驚いたように見開かれる。
「案内したい方って……まさか! この坊主、ジージさんが召喚した勇者様かい!?」
「ええ。つい今朝方、この世界に来て頂きました」
「おお! これでこの村も平和になるってもんだ! よろしくお願いしますぜ、勇者様!」
漁師さんが凄く嬉しそうな顔をして、俺の両手を取りブンブンと上下に振る。
戸惑いつつも、期待されていると知って何だかこそばゆい気持ちになる。
「おっと、こうしちゃいらんねぇ! 早速、村の皆にも勇者様が来たって伝えてやんねぇと!」
漁師さんはそれから、「よければ後で俺の家にも遊びに来てくだせぇ! カミさんの美味い魚料理をご馳走しますんで!」と言って、手を振りながら去って行く。
「人気ですな、勇者様」ジージは言う。
「ジージ、この村は何か良くない状況にあるの?」
漁師さんの口調から察するに、少なからず平和とは言えないようだったが……。
ジージは頷いて、
「はい。ですから、村に平和を取り戻す為に、勇者様にお力を貸して頂きたいのです」
と、ジージが何かを察知したかのように振り返る。
眼鏡の奥の瞳は、まるで別人のように真剣で険しいものになっていた。
「ジージ?」
「……どうやら、ちょうど現れたようです」
「え?」
すっとジージが人差し指を民家の影に向ける。
そこからゆっくりと地面を這いながら現れたのは――
直径三十センチ程の大きさで、クリアブルーの色をしたスライムだった。
「あれが今回、勇者様に退治して頂きたい魔物――スライムです」
「冒険のスケール小せぇ!」
というか、わざわざ異世界人を勇者として召喚する意味ある!?
期待と緊張で上がりに上がっていた俺の中のテンションが急降下して行く。
魔王とかドラゴンとか、そういうのを想像していたので、目の前の巨大グミ(ソーダ味)みたいな物体を見ると、脱力感が半端無い。
プルプルと身体を震わせながら、カタツムリかナメクジのようにのっそのっそと地面を這うスライム。目は無く、口も無く、どうやって生命として成り立っているのかよく分からない、神秘すら感じる不定形な存在。一種の可愛さすら覚えた。
「えっと……あれが村の脅威?」
「その通りです。それでは勇者様、早速、この剣でお願い致します」
ジージが背負って来ていた剣のホルダーを外し、鞘ごと俺に手渡す。
余りにも自然な動作だったので、俺は何気なくそれを受け取ろうと両手を伸ばしたが、
「あ、ちなみに重いので気を付けて下され」
「うおぉぉぉっ!?」
ジージから剣を手渡された瞬間、凄まじい重さが両手を襲って、バランスが取れず地面に肩膝を着いてしまった。
「ちょっ……ジージ、何これ!? こんなに重い物を今まで持ってたの!?」
「慣れです、慣れ。その聖剣『エターナルエイト』を使って、あのスライムを浄化するのです」
「しかも聖剣なのこれ!?」
柄とか鞘とかには小さな傷が一杯あって、金属部分はくすんでいて、非常に年期を感じさせる代物だ。お世辞にも格好良いとは言えない。
これがリアルの聖剣……何というか、微妙だ。自分の中にあるファンタジー世界に対するイメージがどんどん崩れ去って行く。
「……とりあえず、倒せばいいんだよな」
重くて右腕が震えるが、何とか鞘から聖剣を抜く。聖剣だというのに、刀身も年期が入っており、綺麗とは言い難い鈍い光を放っていた。
「ふんぬっ!」
思わず口からそんな声が漏れてしまう程に聖剣は重く、両手で構えるのだけでも苦労する。剣ってこんなにも重いのか。金属の塊だから当たり前なのだろうが、想像とのギャップを感じてしまう。
俺は重い剣を支えながら、ジリジリとスライムに近付いて行く。
スライムは警戒していないのか、のっそのっそとゆっくり横切るように歩行を続ける。
この程度のスピードなら、幾ら剣が重くても当てられる。そう確信して、剣の刃が届く範囲まで接近したところで大きく振り被る。
そこで俺は今、このスライムの命を奪おうとしているのだと気付く。
「あのさ、ジージ」
「どうなされました、勇者様?」
「このスライムってさ、どうしても倒さなくちゃ駄目なの? そんな脅威には――」
「今は大人しくしていますが、そのスライムは紛れも無く魔物です。人の身体に張り付き、命を吸い取る力を持っています」
「い、命を吸い取る?」
「はい。一気にというわけではありませんが、吸収され続ければ絶命してしまいます。ですから、村の者達が安心して暮らす為にも、倒さなければなりません」
「っ……!」
ジージは至って真剣な表情をしていた。
それでも俺はまだ躊躇したが、少しして心を決める。……すまん、スライム。
「おりゃあぁぁぁ!」
両腕に力を込めて、剣を振り下ろした。
剣先がスライムの柔らかな身体を真っ二つに切り裂く。あっけない終わりだった。
「倒した……」
「いえ、まだですぞ勇者様」ジージが首を横に振る。
「え」
真っ二つになったスライムの身体が動き出し、にゅるんと剣から離れてくっ付く。元の潰れた巨大グミのような形に戻った。
「さ、再生した? なんで」
「核を斬っていないからです」
「核?」
「スライムの身体をよく見て下され、中に赤い球体のようなものがあるでしょう?」
クリアブルーの透けた体内をよく観察すれば、確かに球体が存在している。およそピンポン玉くらいの大きさ。
「というか、核とかあるなら最初にそれを教えてよジージ!」
「申し訳ない。最近、歳をとったせいか物忘れが酷くて……」
「とにかくもう一度……!」
この重い聖剣でピンポン玉くらいの大きさの核を狙うのは一苦労だが、幸いスライムは動きが速く無さそうだし、落ち着いて狙ってから剣を振り下ろす。
「えいっ! ……って、あれ?」
仮にこの一撃で核を斬り損ねたとしても、少なくとも剣先はスライムの身体の中心を捉えていて、真っ二つに出来るはずだった。
が、剣先は地面に埋まっただけで、先程まで間違いなくそこにあったスライムの姿は、影も形も無くなっていた。
まさか、倒したのだろうか? 核を斬って、一瞬で消滅した? いや、でも……。
「勇者様! 後ろです!」
ジージの言葉に、はっとなって背後を見やる。
プルプルと身体を震わしながら、スライムはそこに居た。
思わず、ゴクリと唾を飲む。……一体いつの間に背後へ回ったというのか。
一瞬でも目を離さないよう瞳を見開きながら、再度剣を構え、勢い良くスライムに振り下ろす。
スライムが動いたのはその時だった。手足の無い小さな身体からは想像出来ない圧倒的素早さで、スライムが跳ね、民家の壁まで飛ぶ。
「なっ……速い!?」
それだけで終わらず、スライムは民家の壁にぶつかると、ボールのように跳ね返って……いや、壁を蹴って、道の反対側にある民家の壁へと飛んだ。それを繰り返す。
まるでピンボールのようだ。しかも壁を蹴るごとに速さは増して行くように見え、やがて音が聞こえるだけで姿を見失ってしまう。
「なんなんだこれ!?」
「どうやら勇者様を敵として認識したようですな」とジージ。
「スライムってこんなに速く動けんの!?」
「来ますぞ!」
「え」
俺はまるで反応出来て居なかった。気付いた時には、ベタッと左腕にスライムが貼り付いていた。そして。
「ギャー!? 何か吸われてる吸われてる!」
血ではないが、身体のエネルギーとでも言うのだろうか。左腕から全身の力を吸われて行く感じが確かにあった。しかも結構な速度で。
「あばばばばば! た、助けて……!」
電撃でも流されたかのように段々身体が痺れて来る。や、ヤバい! 死ぬ死ぬ!
「勇者様、じっとしていて下され! ボーマ!」
魔法名なのかそう言って、ジージが手の平をこちらに構える。そこから火の玉が飛び出して、スライムに当たる。クリアブルーの身体が燃え出して、ピョンと俺の腕から離れた。
地面に着地したスライムはプルプルと身体を震わせて、炎を払い除ける。その後、また高速で跳ねてどこかへ行ってしまった。
俺は朦朧とする意識の中で、
「そ、そんな馬鹿な……」
【悲報】俺氏、スライムすら倒せない
まるでスレッドタイトルのような一文を脳内に思い浮かべながら、気を失った。