2話 異世界へ
とある朝、起きて一階に降りると、パートに出ている母さんからの書き置きがあった。
『風太、十六歳の誕生日おめでとう。冷蔵庫にケーキを買って置いたので、良かったら食べて下さい』
胸がズキリと痛んだ。
息子が入学一ヶ月と経たず不登校になって、部屋に引きこもって小説ばかりを読んでいる。
母さんは一体どんな気持ちだろう。考えると、申し訳無くて、すぐにでも消え去りたい気分になる。
(早く学校に行かなくちゃ……)
まだ間に合うはずだ。手遅れになる前に、何とかしなくては。
毎日のようにそう思う。何度も学校に行こうとした。
ただ、制服を着て、鞄を肩に掛けて外に出ようとする度、足が震えて動かなくなる。
玄関の敷居から外へ、一歩踏み出すことが出来ないのだ。
石川くんの顔が頭を過ぎって、どうしようもなく怖くなってしまう。
学校に行けば、また『エロ崎』と呼ばれて虐められる。日中も放課後も、ずっと石川くんと一緒。俺の居場所なんてどこにも無い。
そんな思考が頭の中をぐるぐると回って、身体から嫌な汗が吹き出て、凍えるように寒くなって震えてしまうのだ。
そうして俺は今日も部屋に引きこもり、小説の世界へと逃げ込んで行く。
何の救いにもなっていないのは百も承知だが、両親に極力迷惑を掛けたくなくて、最近はお金の掛からないネット小説ばかりを読み漁っている。
『小説家になろうぜ!』という小説の投稿サイトがあって、そこでは一日中、数え切れない程の小説がアップされ続けている。
ライトノベル界隈でも多いが、2014年現在で流行っているのは『俺TUEE』というジャンルだった。正確にはジャンルと言わないのかもしれないが、ジャンルと言ってもいいんじゃないかと思えるくらいには多い。
『俺TUEE』は言い換えると、主人公がチート――その世界観の中で序盤から最強クラスの能力を持っているというもので、変に暗かったり、重かったりする展開を避け、主人公が活躍しまくることで、読者に安心感と爽快感を与えてくれる。
主にファンタジー世界が舞台となることが多く、主人公は勇者として召喚されたり、現実世界で死んでから転生したりして、ファンタジー世界に足を踏み入れる。で、そこでチートな力を発揮して、格好良い英雄への道を歩むというわけだ。
その中には、現実世界に居た時に引きこもりだった主人公も居て――
「はあ……」
溜め息を吐く。
何というか、引き篭もりの主人公が活躍して英雄へと大出世して行く様は実に痛快なのだが……面白いが故に、現実の自分と比べた時に凄く虚しい気持ちになった。
仮に俺が同じように異世界転移、もしくは転生なんて事態に陥ってしまったとして、彼らのように為れるだろうか。たとえ異世界でチートな能力を手に入れたとしても、俺には無理だと思う。
だって俺は、現実世界の石川くんにだって勝てはしない。心で負けを認めてしまっている。俺は学校に行くことさえ、足が震えて出来ないのだ。
決して折れない強い心とは、一体どのようにして手に入れたらいいのだろうか。
そんなことを考えるようになって、気付けば俺は、パソコンの画面をスクロールさせているだけで、小説を読むことに全然集中出来なくなっていた。
幾ら考えたところで答えなど出ず、俺は嫌なことを忘れたくて、デスクから離れてベッドに潜り込む。シーツを被って、目を閉じた。
何も考えないようにしていると、いつしか意識は薄れて行き――
目が覚めると、知らない天井がそこにあった。
「え」
寝ぼけた頭で辺りを見回すが、どれだけ思考を覚醒させても、目を擦っても、少しも知らない場所だった。
やたらシックな家具と壁。床には絨毯、奥には暖炉とかあって、雰囲気的な意味だけでなく、実際にも異国の香りがする部屋だった。
俺は肌触りが違和感だらけのベッドに寝かされていて、どうして俺はこんなベッドで平然と寝られていたのか不思議で仕方が無い。
と、部屋の扉が開いて、一人の人物が中に入って来た。
俺は驚いて、咄嗟にシーツを盾のように構えてしまう。
現れたのは、豊かな白髪と白髭を蓄え、丸眼鏡を掛けた老人だった。その人は俺を見て、
「おお、目覚められましたか勇者様」などと意味不明なことを言った。
「は? 勇者……様?」
老人は笑顔で頷き、
「そうです。突然こちらの世界にお呼びして申し訳ない。昼間だったので、てっきり起きているものだと思っていたのですが、いざ召喚させて頂きましたら熟睡しておられましたので、勝手ながらベッドの方に運ばせて頂きました」
「な、何言ってるんだ!? こちらの世界とか……そんな異世界召喚みたいなこと言って! これは新手の誘拐なのか!? そうなんだな!?」
「いえいえ! 誘拐などとんでもない。私はただ、勇者様に村を救って頂きたく、古き習わし通りに異世界から召喚させて頂いたのでございます」
「そんなわけあるか! 異世界とか、そんな言葉を信じるとでも!?」
俺は確かに引き篭もりになったし、異世界転移やら異世界転生やらの小説ばかりを読んで現実逃避もしていたけれど、だからといって実際に異世界や魔法を信じる程、馬鹿になったわけではない。
老人は、ほっほと笑って、
「そうでしょうなあ。ならば論より証拠、実際にその目で見て貰いましょう。そこの窓を開けますので、外をご覧になって下さい」
ベッドから少し離れたところに、大きな窓があって、そこから明るい光が差し込んでいるのが見えた。……そういえばこの部屋、電気が無い。
老人が窓を開ける。風が流れ込んで来て、カーテンが揺れる。
俺はゴクリと唾を飲み込んでから、やや震える足でベッドから降り、窓のところへと向かう。
異世界なんてあり得ない。あり得ない、あり得ない――
自分に言い聞かせながら歩いて行く。
窓の前まで来て、風を受けながら窓枠に手を掛け、眩しい光の外に身体を乗り出す。
俺はしばらく、言葉を失った。
広がるのは澄んだ空と海の青色、丘と森の緑だった。この家は小高いところにあって、広い丘の向こうに小さな家が集まるようにして幾つも建っていた。その村は漁村であるようで、小さな港があって、そこから横に砂浜が続いている。
海の反対側には森があり、村から続く道に沿うようにしてどこまでも広がっていた。
肌をくすぐる柔らかな風には、潮の香りが混じっていて。
大自然を揺らす音と合わさり、圧倒的な現実感を俺に押し付けてくる。認めざるを得なかった。
「本当に……異世界なのか……!」
少なくとも、日本じゃない。それだけは自身の感覚がはっきりと告げていた。
「世界に名前などございませんが――」隣に立った老人が言う。「ここはクラウディス大陸の南西に位置する村、リスタートと申します。なかなか悪くない風景でしょう?」
眼鏡の奥にある目元が深い皺を刻んで、優しげに笑った。
「ようこそ勇者様、異世界へ」