副長、餌付けする(2)
グレイル独自の朝練を終えると、午前は執務室にこもってひたすら仕事。
そして昼休憩の時間になると、彼は手に持っていた書類とペンを置いて部屋を出た。
この国の人たちは1食1食の食事の量が多いのだが、代わりに朝夕の2食しか食べない。昼に何かを食べるとしたら、それは間食になるのだ。
グレイルも昼に席を立ったからといって食事をとりに行ったわけではなかった。食堂とは反対の方向に向かって3階の廊下を進んでいく。
突き当たりにある、はめ込み式の小さな窓から外を覗くと、下には野外訓練場が広がっていた。今日の午前中は第6隊が使っていたようだが、訓練をしていた騎士たちは休憩を取るためぞろぞろと屋内へ移動していた。
この砦にいる第9支団という『支団』の中にはいくつかの『隊』があり、訓練にしろ仕事にしろ、基本はその隊ごとに行動をとる。第1から第4隊は国境警備、第5隊は町の見回り、第6隊は訓練、という風に。
野外訓練場に人の姿がなくなってしばらくすると、端からそろりと白い子ギツネがやってきた。
やっぱり来たか、とグレイルは笑う。子ギツネは辺りをせわしなく見回して人間がいないことを確認すると、少しずつ中央へと進み出てきた。
昨夜また雪が降ったため、今までの足跡は消えてしまった。訓練場にあるのは、さっきまでいた第6隊の足跡だけだ。
子ギツネはもう1度周りを警戒してから、まっさらな雪の上を選んで走り出した。最初はただ駆け回っていただけだったが、段々と楽しくなってきたのか、瞳を輝かせながら嬉々として雪の中にもぐり始めた。
耳としっぽを残して雪に埋まったかと思えば次の瞬間には転がり出てきて、大きくジャンプし、また顔から雪に突っ込む。
前にも訓練場でこんな風にひとり遊びしていたから、また来るんじゃないかと予想したのだが、当たったようだ。
本当に見ていて飽きないな、とグレイルは思った。
「あ! 副長じゃないすか」
静かな廊下に明るい声が響く。
グレイルが振り向けば、派手な金髪の部下がこちらへやって来るところだった。名前をキックスといって、まだ若いが将来有望な騎士だった。調子に乗りやすいという欠点を除けば、だが。
「何してるんすか、こんなとこで」
キックスはグレイルに気兼ねなく話しかけてくる数少ない部下の一人だ。
グレイルは無言で顎をしゃくって、窓の外を差した。
「ん? ……おお、キツネだ!」
訓練場ではしゃいでいる子ギツネを見て、キックスもはしゃぐ。
「あれ、最近うわさになってる白ギツネっすよね」
「ああ」
グレイルは頷いた。
実はあの子ギツネの存在を知っているのは、今やグレイルだけではない。
子ギツネがこうやって訓練場を駆け回っている姿や敷地内をうろついている姿は、多くの騎士たちに目撃されている。
そしてその噂は、この4日で瞬く間に騎士たちの間に広がった。
冬になると雪がわんさか降るせいか、この北の砦にはいつも閉塞感のようなものがあったのだが、突然姿を現した愛らしい子ギツネの存在は、騎士たちの心をほっこりと和ませた。
厳つい男たちが、雪の上に残った小さな肉球の足跡を見つけては喜んでいるのだ。
しかしグレイルがその子ギツネを餌付けしていることは、他の騎士たちは気づいていない。知っているのは料理長くらいか。
グレイルも別に隠しているつもりはないし、訊かれればいくらでも話すのだが、訊いてくる者がいないのだ。
「副長って動物好きなんすね」
雪上をきゃっきゃと跳ね回る子ギツネを眺めていると、キックスが言った。
笑いを堪えるように唇を歪ませながら続ける。
「支団長と同じく、意外とああいう可愛い生き物がお好きで? ……ぶふっ、似合わねー」
ついに笑い出した失礼な部下に、グレイルは冷えた笑みを向けた。キックスの肩にがっしりと腕を回して言う。
「キックス、暇なら俺の剣の稽古に付き合え。上手く手加減できるか分からないが……」
「すみませんごめんなさいすみません」
***
夕方になって仕事が終わると、グレイルは食堂へ向かった。自分の分を食べた後、いつものように料理長に子ギツネの分の食事を貰って宿舎に戻る。
自室に入って灯りをともすと、グレイルの帰宅に気づいた子ギツネが窓の外で小さく吠えた。ごはんが待ちきれないのだろう。
窓を開けて食事を置き、一旦離れる。グレイルが近くで見ていると、子ギツネは緊張するらしいから。
彼女が食事をしている間に、グレイルは着ていた外套を脱いで衣装掛けに放った。ブーツの紐をゆるめ、風呂へ入る準備を整えておく。
しばらくして「きゃん!」という鳴き声が聞こえたら、それは食事が終わったという合図だ。グレイルが窓に近寄ると、木箱の上には空の皿が残っており、子ギツネは少し離れた小屋の前でこちらを見上げていた。
食事は美味しかったらしく、余韻を味わうように何度も自分の口元を舐めている。
子ギツネはグレイルに気を許しているように見えるが、まだ完全には信用されていないようだ。2人の間の微妙な距離がその証拠。
初めて顔を合わせた時からこの距離はなかなか縮まらない。グレイルは子ギツネの柔らかな毛並みを撫でてみたいと思っていたのだが、手をかざすと彼女は警戒してしまうのだ。
しかし今日こそは撫でることができるかもしれない。
グレイルの手には、2人の距離をなくすためのあるアイテムがあった。──料理長から貰ったジャーキーだ。
ささみを叩いて薄く伸ばし、オーブンで焼いたもの。特に味付けはされていないが、肉の旨味が凝縮され、人間でも美味しく食べられそうな感じだった。
グレイルはそのジャーキーを手に持ち、子ギツネに見せつけるように振った。
子ギツネは『ん?』と首をかしげた後、グレイルが何を持っているのか確認しようと近寄ってきた。木箱の前まで来たところでジャーキーの香ばしい匂いに気づき、ピンとしっぽを上げる。
相変わらずグレイルに近づくことは躊躇しているが、ジャーキーの事は気になって仕方ないらしい。そわそわと窓の近くを往復しながら、ジャーキーから決して視線は外さない。
「ほら食ってみろ。美味いぞ」
グレイルはジャーキーを小さく裂いて手のひらの上に乗せ、窓から腕を伸ばした。今まで、子ギツネは彼の手から直接何かを食べたことはない。これはグレイルの結構真剣な挑戦だった。
人間の手は怖くない、恐ろしい事は何もされない、安心していいのだ、という事を知ってほしかった。
匂いにつられて、子ギツネは木箱の1段目に前足をかけた。いつになくグレイルに接近している。
しばらく必死で首を伸ばしていたが、もう少し近づかないとジャーキーには届かないと気づいたらしい。ビクビクとした動きで木箱に乗り、2段目に前足をかけて体を起こした。
目の前にあるグレイルの大きな手のひらの匂いを嗅いで、その後ジャーキーの匂いを嗅ぐ。その間グレイルは子ギツネを驚かせないように、彫像よろしく腕の動きを止めていた。
「そんなに嗅がなくても」というくらい慎重に匂いを嗅いだ後で、子ギツネはジャーキーのかけらを口にくわえ、素早く木箱を降りて引き返した。
グレイルから適度に離れたところで、はぐはぐと戦利品を咀嚼している。
一瞬手のひらに触れた子ギツネの濡れた鼻。その感触にグレイルは感動していた。別に鼻フェチというわけではない。ただ、手から直接ジャーキーを受け取ってくれたことが嬉しかったのだ。
もう1度ジャーキーをちぎって見せると、子ギツネはさっきより慣れた様子でこちらに近寄ってきた。
人間に対する警戒心より、食欲の方が勝ったのかもしれない。今度はジャーキーのかけらをくわえても、子ギツネは木箱から降りず、グレイルのすぐ近くで食べ始めたのだ。
彼女が自分からここまでグレイルに近づいてきたことはない。ジャーキーの力は偉大だ、と彼は思った。
結局子ギツネは残りのジャーキー全てをグレイルの近くで、グレイルの手から直接食べた。
餌で釣られたとはいえ、二人の距離は少し近づいたのかもしれなかった。




