クロムウェル
昼休憩の時間を告げる鐘が鳴ると、グレイルは真っ先に訓練場へ向かった。午前中は第1隊が使っていたらしく、皆へろへろになりながら訓練に使った道具を片付けている。
けれどグレイルの探している白い子ギツネの姿はそこにはない。しかし代わりに、地面に降り積もった雪には小さな足跡が残っていた。どうやら厩舎に向かったようだ。
「ふ、何をそんなに一生懸命舐めているんだ?」
しかし厩舎に着いた瞬間、グレイルは来なければよかったと後悔した。そこにいたのは馬とミルだけではなかったからだ。
支団長であるクロムウェルが、満面の笑みを浮かべてミルたちと戯れていた。
整っているが故に冷たく感じるその容姿と、常に冷静な性格から、部下たちには『氷の支団長』などと呼ばれているクロムウェルだが、今はその氷もどろどろに溶けてしまっている。至極幸せそうな顔で、ミルに手を舐められて喜んでいるのだ。
手に蜂蜜が塗られている訳でもあるまいに、ミルの方も何やら懸命だ。一体何を考えているのか。
動物に骨抜きにされているクロムウェルの姿は微笑ましかったが、彼は今の自分の姿を他者に見られる事を嫌がるだろう。
グレイルは静かに踵を返そうとしたのだが、それより早くミルに気づかれてしまった。
ミルはグレイルを認識すると瞳をきらめかせて小さく鳴き、わさわさと忙しなくしっぽを揺らす。明らかに喜んでいるであろうその反応はグレイルも嬉しかった。ミルは確実にグレイルに懐いてきているのだ。
けれどミルの視線を追ってクロムウェルまで顔を上げてしまい、その途端「見られた!」と言わんばかりに固まった彼の様子を見て、グレイルも気まずくなる。
「……」
「……」
両者の間に緊迫感のある空気が漂った。
どちらも口が達者な方ではない。こういう時、ぺらぺらと喋って場を濁す事ができないのだ。ミルのしっぽだけがうるさく揺れるのみ。
”噂”になるほどクロムウェルの動物——特に馬と小動物——好きは有名だ。
少なくとも、この砦の新人以外のメンバーは皆知っている。
時間を作っては毎日のように厩舎に行き、自分の愛馬に優しく話しかけ、丁寧にブラシをかけているのも、冬になると小鳥たちのためにせっせと木に果物をさしているのも、野良猫に餌を与え、『ノラ』と名付け可愛がっていたのも、その野良猫がふらりといなくなった翌日から目の下にクマを作って落ち込んでいたのも、仕事中に白い雪ウサギが近くを走れば、そちらに気を取られて氷の仮面が崩れかかるのも知っている。
北の砦のメンバーは、多かれ少なかれ、クロムウェルのそういう光景を目撃してきた。
しかしクロムウェルは部下たちに自分の動物好きがバレているとは考えておらず、上手く隠し通せていると思っているのだ。
堂々と可愛がればいいのにと思うが、クロムウェルが必死に『動物などに興味はない』ような態度を取るので、皆も調子を合わせて気づいていない振りをしている。
おそらくクロムウェルは、自分が周囲にどう見られているかをとても気にしているのだろう。支団長という立場についたからには、皆から多少怖がられる存在でなければならないと思っている。だから動物に対して極端に甘い態度をとる情けない姿を見られてはいけないと。
庶民ながら自分の実力だけで騎士団での地位を築いてきたグレイルからすれば、例え動物好きが周りにバレようとも、それによって本人の実力が変わる訳でもなし別にどうでもいいと思うのだが、クロムウェルは違う考えのようだ。
彼は名門貴族出身なので、今の支団長という地位にも自分の実力と功績だけで就いたとは言い切れず——これは本人が望んだ訳ではなく、気を遣った上部の人間が勝手に彼をのし上げたのだろうが——、クロムウェルはそれをとても気にしているように思えた。
イメージだけで周りからの信頼が簡単に崩れるのではと心配しているのかもしれない。
ずっと王都で育ってきたクロムウェルが環境の厳しいこの北の砦に来たのは、本人の強い希望だったという噂もあるので、彼はやはり実績を積んで確固たる自信が欲しいのではないだろうか。
犯罪や国境でのいざこざは少ないが、その代わり過去真冬には砦の中で凍死者すら出た事があるくらい、ここの環境は過酷だ。見回りひとつとっても吹雪の中では容易ではないし、毎日の除雪も訓練も、何もかもが体力勝負。
おまけに砦の騎士たちは皆、他の支団で厄介者扱いされた一癖も二癖もある者たちばかり。
大自然に対して、そして権力とは無縁の部下たちに対しては、貴族のコネなど通用しない。しかしだからこそ、ここで支団長を勤めた経験はクロムウェルの自信に繋がるに違いない。
「グレイル、何か用か?」
クロムウェルは何食わぬ顔をして立ち上がると、ミルと愛馬に対ししまりのない顔をしていた事実など無かったかのように、毅然とした表情で言った。意識してか、声のトーンが先ほどより随分低く、冷たくなっている。
彼は今のところ立派に支団長の勤めを果たしているが、きっとまだ完璧な自信を手に入れてはいないのだろう。
だからこうやって、部下に幻滅されないためにも厳しい氷の支団長の仮面をつけている。
グレイルは穏やかに目を伏せ、自分より若い上司に合わせた。自分は何も見ていなかった。そういう振りをする。
「いえ、ミルを探していたのです」
「ミル? それはコレの名前か? いずれ野生に帰すのに、名などつければ情が移るぞ」
クロムウェルは興味が無いような顔をして、わざと『コレ』呼ばわりしたミルをちらりと見下ろした。直視しないのは、まともに見れば可愛さの誘惑に負けるからだろう。
だいたい、『ノラ』と名付けて情を移したネコに離れていかれて、長いこと気落ちしていたのはクロムウェルの方だ。
「支団長はアイラックスに会いに?」
「”世話をしに”来たのだ。自分の馬をきちんと管理するのも騎士の勤めだからな」
クロムウェルは世話をしに来たという言葉を強調した。動物好きとして可愛い愛馬に”会いに来た”のではなく、騎士の仕事の一つとして”世話をしに来た”のだと。
徹底しているな、とグレイルは変に感心した。疲れないのだろうかと心配にもなる。
「私はもう行く」
最後に黒馬の鼻筋をさらりと撫でてから、クロムウェルは厩舎を去ろうとした。本当はもう少し癒しの時間を堪能したかったろうに、自分が来たばかりに申し訳ない。そうグレイルは思った。
しかしここを離れようとしたクロムウェルは可愛い妨害に遭い、その場で立ち止まる。追いかけて来たミルが、足にまとわりついてきたのだ。
「……!」
追いかけられて、クロムウェルの顔が一瞬嬉しそうに輝いたのをグレイルは目撃した。
だがすぐに表情を取り繕うと、冷えた声で鬱陶しそうに言う。
「邪魔だ。ちょろちょろと動き回るんじゃない」
意訳すると、「蹴ってしまいそうで危ないからやめるんだ。怪我をしたらどうする」だ。
しかしミルはいつの間にあんなにクロムウェルに懐いたのかと、グレイルは眉間にしわを寄せた。
「ついてくるんじゃない」
小さく鼻を鳴らして追いすがるミルに、クロムウェルは顔を大きく歪める。そして誘惑に耐えるようにギリリと奥歯を噛んだ後、ミルを振り切るようにして足早に建物の中へと去っていった。
とんでもなく辛そうだったが、大丈夫だろうか?
「ミル」
グレイルは、クロムウェルの後ろ姿を目で追っている子ギツネに声をかけた。
「浮気か?」
冗談めかして責めると、ミルはハッと振り向き、慌ててこちらへやって来る。言い訳するようにグレイルの顔を見上げながら、足下で右往左往していた。
その頭を撫でてやりつつ、グレイルはクロムウェルがこの北の砦へやって来た時の事を思い出していた。
『見たかよ、新しく赴任してきた支団長』
『ああ、あの貴族のお坊ちゃんだろ? 実家の権力で今の地位についたっていう』
『そんな奴に上に立たれんのは腹が立つな。副長が支団長になってくれりゃあよかったのに』
『見た目もひょろくて女みたいだったぜ。根性も無さそうだし、あれじゃひと冬持たねぇな』
『ま、さっさと音を上げて帰ってくれればいいさ。そもそも何でこんなとこに来たんだろうな。俺らみたいに左遷された訳でもねぇだろうし、王都でぬくぬくしてりゃあいいのに』
最初、砦の騎士たちは皆クロムウェルの事を嫌っていた。見た目からして軟弱な貴族のお坊ちゃんに、この砦の長が務まるかと。
しかし一緒に仕事をするようになり、その評価が一変するのに長い時間はかからなかった。
『なぁ、俺今日、訓練で支団長と手合わせしたんだけどよ、あの人結構強いのな。剣に副長みたいな力強さはねぇけど、その代わりすげぇ鋭いっつーか……』
『俺もそれ見てたけど予想以上だったな。騎士団に入れたのもコネだとか言われてるから、剣なんて素振りくらいしかできねぇんじゃと思ってたけど』
『あれは相当努力してるよな……。貴族なのに、ちょっと意外だ』
『うん、もっと鼻持ちならない奴かと思ってたら、すげぇマトモっていうか……信頼できる感じ?』
『俺らにも厳しいけど、自分にはもっと厳しいよな、あの人』
耳に届くクロムウェルの悪口が次々と賞賛へと変わっていくのを、グレイルも温かな気持ちで聞いていた。
今や、この砦の誰もがクロムウェルの事を認めている。冷静な氷の仮面の下には実は人間らしい情が溢れていて、時折それを厳しさの中に上手く織り交ぜながら、自分の部下に向けている事も知っている。
そしてもちろん動物——とりわけ馬と小動物には、陰でその溢れんばかりの情を直球で与えている事も。
氷の支団長は、実は動物好き。
そういう噂が砦内に流れていても、彼を『動物好きの軟弱者』などと言う輩はここにはいない。
クロムウェルが思っているよりもずっと、砦の騎士たちは彼の事を認めて評価しているのだ。彼の動物好きという一面が、むしろ好意的に受け止められるくらいには。
「それに早く気づくといいのにな、不器用なうちの長は」
ミルを撫でながらグレイルは独り呟き、年長者らしく笑った。




