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危機(2)

 水に飛び込んだ瞬間、しかし想像していた体が凍りつくような冷たさは感じなかった。あまりの水温の低さに呼吸が止まるんじゃないかと心配していたのだが、杞憂だったようだ。


 雪の浮いた池。その中に入っても水の冷たさをあまり感じないのは、きっと私の毛皮のおかげだ。

 特に皮膚近くに密集して生えているアンダーコートが、空気を含んで水を染み込ませないようにしてくれているらしい。

 直接肌に水が当たらないので、すぐに体温が奪われる事はない。

 けれど、やはり地上とは違う寒さを感じて体の筋肉が強ばる。寒さに強い雪の精霊が、まさか凍死する事はないと思うけれど……。


 寒さで固まった足をしゃかしゃかと懸命に動かし、犬かきを続ける。このモファっとした毛が水を吸ったらすごく重くなるのではないかと思ったが、むしろ空気を含んだ毛皮は浮き輪の役割をしてくれていて、水面に浮かび続けるのはそれほど大変な事ではなかった。


 後ろから追ってきた野犬は、私の予想通り池の手前で立ち止まった。涎を垂らし、低い唸り声を漏らしつつ、視線は私から離さないままウロウロと池の周囲を回る。

 時折水面を掻くように前足を池につけるが、水自体が怖いのか、その冷たさに危険を感じたのか、飛び込んで追ってくる事はない。悔しそうにこっちを睨んでくるだけ。


 野犬に喰われるという危機からとりあえずは逃れられたが、敵はまだ諦めるつもりはないようだ。池の周りを歩き続けながら、私が陸に上がる瞬間を虎視眈々と狙っている。

 そんな野犬の様子を尻目に、水面下で短い足を動かして、私は池の中心部へと泳いでいった。ここなら首を伸ばした野犬の牙も届かないし、より安全だ。


 しゃかしゃかしゃか

 しゃかしゃかしゃか


 私は水の中で足を動かし続けたけれど、さっきまで全力疾走していたからすでにだるくなってきた。しかし気を抜いて動かすのを止めれば、すぐに鼻先が水の中に沈んでしまう。凍死より、溺死の危険のが高いかもしれない。


 早く諦めてよ。

 私はそう願って敵を見たが、飢えた野犬はちょっとやそっとでは獲物の捕獲を断念する気はないようだ。

 丸っこくて美味しそうに見えるかもしれないけど、私の体なんて実際はほとんどが毛なんだよ! 

 

 そうこうしている内に、私のアンダーコートにも水がしみ込んできた。皮膚にその冷たさを感じると、「ひゃっ!」と人間みたいな鳴き声が漏れた。寒さに強くても、冷たいものは冷たいと感じるのだ。


 だんだんと毛皮も重たくなっていく。まるで粘度の高い泥が体にまとわりついてくるような感覚。

 足は疲れて、水を掻く体力もなくなってきた。

 

 やばい……! やばいよ、これ!

 あっぷあっぷと溺れかけながら、私は必死で空気をむさぼる。


「いた! あそこだ!」


 ——と、その時。

 駆けつけてきたのは、先ほどすれ違った騎士たちだった。


「池にいるのは、例の子ギツネだよな? 最近ここに住み着いたっていう」

「やっぱり野犬に追われてたのか」


 そう言うと、一人の騎士が地面に積もった雪を手に取り、ぎゅっと固めて野犬の方へ放り投げた。他の騎士たちも同じように雪玉で攻撃を仕掛けながら、野犬の方へと近づいていく。

 固い雪玉を何度もぶつけられ、最初は唸っていた野犬もやがて降参した。

 未練たっぷりの視線を私に寄越しながらも、騎士たちとは反対の方向へと走って行き、そのまま柵を通り抜けて敷地外へと逃げ出したのだ。


 しかし私はそれを喜んでいる余裕などない。

 水を吸った毛皮が鉛のように重い! 溺れる、溺れるっ!


「ほら、こっちに来い!」


 池の前で騎士がしゃがみ込み、私を呼ぶ。私も早く陸に上がりたかったので、そちらに向かおうと思ったのだが、ハッと目の前の騎士の姿を確認して躊躇した。

 とっても厳つい、あご髭の男の人……。


「早くしろ! 溺れてしまうぞっ!」


 そうやって叫ぶ声も低く、まるで怒鳴られている気分になる。

 この人、怖いよう! 

 大人の男の人の怒鳴り声ってすごい迫力がある。私の大きな耳がぴくぴくと震えた。あっちには行きたくない。


 一旦は陸に向かって泳いでいた私は、そこで待ち構えている騎士が怖くて方向転換した。違う所から上がろうと。

 ばっしゃばっしゃと飛沫をまき散らしながら不細工な泳ぎを披露し、あご髭の騎士とは真逆の方を目指す。

 

 が、そこには別の騎士が先回りして待機していた——坊主頭で凶悪な目つきの騎士が。


「こっちだ! 上がってこい!」


 前世のテレビニュースで、こんな顔の凶悪犯を見た事あるような……。


 私の中の勝手なイメージでは、騎士というと『華やかな美青年』を想像するのだが、今池の周りにいる騎士たちはみんな筋肉隆々で、なおかつ人相が悪かった。制服を着ていなければ誰にも騎士だと分からないような顔だ。

 この人たち、良い人たちなんだろうけど——野犬を追い払ってくれたし——、いかんせん外見に迫力がありすぎる。


「ほらッ、早く来い!」


 そんな目を剥いて叫ばないでよう。怖いってば! 低くて大きな声は苦手だ。

 私はまた方向転換しようとしたが、5、6人いた厳つい騎士たちに池の周りをぐるりと囲まれ、どこへも上がれなくなった。逃げ道を塞がれ、池の中央で溺れそうになりながらぐるぐると回る。


「なんで上がって来ないんだ?」

「お前の顔が怖いんだよ」

「お前の顔だって同じようなもんだろうが!」


 ケンカは止めて! みんな同じくらい怖いから! どんぐりの背比べだから!


「おい、使えそうな棒を持ってきたぞ!」


 と、そこでもう一人ゴツい騎士が増えた。元は何に使うものなのか、彼は手に長い木の棒を持っている。そしてそれで池の中にいる私を突ついたのだ。


「よし、そのまま押せ!」

「いいぞ!」


 棒で押されて、私の体が池の対岸へ近づいていく。

 ——凶悪犯が待ち構えている対岸へと……。


(ぎゃー!!)


 私は無我夢中で水を掻いた。慌てて棒から逃れようとする。


「あ、こら! 大人しくしてろっ! 陸まで押してやるから!」


 私はたぶん、半分パニックになっていたんだと思う。野犬に追われ、冷たい池に飛び込み、興奮状態だったところにコワモテの男の人たちに囲まれ、棒で突つかれ……。


 コワモテだろうが何だろうが、冷静に考えれば、この騎士たちが私を助けようとしてくれているのは分かる。

 けど、今の私は混乱していて、おまけに動物らしい警戒心も持っているのだ。例え自分の命がピンチでも、助けを求めて見知らぬ人間の腕に飛び込んでいく事などできない。


 私は池の周りで待ち構えている騎士たちと私の体を押してくる木の棒から、何とか逃れようと必死だった。

 もはや泳ぎは犬かきですらなくなった。ただ暴れるようにばたばたと手足を動かして、池の中央に留まる事と、鼻を水面に出す事に専念する。

 しかし空気と一緒にすでに何度も水を飲み込み、激しくむせた。喉が痛い。呼吸がまともに出来ない。

 足は疲れ、体は重く、今にも沈んでしまいそう。

 

(母上! 母上!)


 私は泣きたくなって、ひんひんと情けない声を上げた。

 もう駄目だ、水を吸った毛が重過ぎる。足を動かし続けているのに、体は浮かんでくれない。

 どんどんと沈んでいって、鼻と口が塞がった。

 息が出来ない。苦しい。

 目が、頭が、耳が池の中へ沈み、私の小さな体は完全に水に呑まれた。

 

 ああ、溺れる——!




 死を予感したその瞬間、しかし何者かに背中の毛を掴まれ、強い力で上へ引っ張られた。

 痛い!と思って、途切れかけた意識が戻ってくる。かと思えば、今度は誰かの手がお腹へと回って、私の体を水の中から引き上げてくれた。

 

 ぷはっ、と大きく酸素を吸い込み、代わりにゲホゲホと水を吐き出す。視界に入った私の手足は、びっくりするほど細くなっていた。濡れた毛がぺっとりと張り付いているせいだ。いつものモファっと感は皆無で、自分の足じゃないみたい。


 私を助けてくれた人は、ざばざばと池の中を歩いて岸へと向かった。そこそこ深いこの池は、彼の胸の辺りまでを呑み込んで濡らしてしまっている。

 ああ、こんな真冬の夜に、雪の浮かんだ氷点下の池に入るなんて。雪の精霊である私はともかく、人間は心臓麻痺を起こす可能性もあるんじゃないだろうか。

 とても危険な行為なのに、私を助けるために飛び込んでくれた?


 私は、私の命を救ってくれた勇気ある人物が誰か確認しようと顔を上げた。

 あご髭の騎士だろうか、それとも凶悪犯か。


 しかし月明かりに照らされたのは、左目の上を走る無惨な古傷だった。


 ——隻眼の騎士だ。

 彼が冷たい池に飛び込んで、私を引き上げてくれたのだ。


 私は彼の顔を見て安心感を覚えると同時に、失礼な事を思った。

 やっぱりこの人もだいぶコワモテだよなぁ、と。

 

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