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「ハジメ、醤油」
そう言われてハジメと呼ばれた少年、キーキは無言で渡した。
この醤油はソフィーの家で仕入れてもらったものだ。キーキはそれほど気にしないが祖父はどうにもニッポン食じゃないと嫌だと言う日がたびたびある。なので、こうして醤油に味噌、みりんなど、祖父の食事に欠かせない調味料を取り寄せてもらっているものだ。しかし、それだけでは本来の味は引き出せないと、たまに食材までも頼もうとすることもある。その分普段よりもはるかに食費がかさむため、それは流石に控えてもらっている。
だが……
「贅沢なのはわかるが、米の味が……味が違うよなあ。それに魚がどうにもなあ。……取り寄せていいか?」
「……」
こくんと一つ。
祖父の尋ねにも頷くだけ。
いつものキーキならば無駄遣いは絶対に駄目だと言う。しかし、祖父と衝突した日は短くてもその日一日が終わるまでは絶対口を聞くことはなかった。
祖父は溜め息をついた。
「いい加減子どもじゃないんだから話さんか。その怒っている時に無口になる癖は直しなさい」
それでもキーキは口を開こうとしなかった。黙々と箸を進めていく。
「……たく。勝手にしろ」
祖父はお椀を持って味噌汁を啜った。
ただ黙々と二人は箸を進め、沈黙が続く食卓は結局箸を止めるまでそれは続いていった。
食事が終わると二人は使った食器を流し台に重ね、水を張ってそのままにする。洗い物は一息ついた後だ。キーキは窓際に腰を落として空を眺め始め、祖父は新聞を片手にテレビをつけた。
――本日正午、パレドヒア全域で故障事故が多発しました。貿易船が航海中に停止し、軍事車両が道端に停止し大渋滞を引き起こしました。また、ネグル島では飛行機が機能を停止しての着陸となりました。幸いにも軽傷者が数名出ただけで済みましたが、事故の原因は燃料切れとのこと。しかし、どの車両も燃料に《ルナタント》が……――
自国でのテレビ局は有志による一局だけで、殆どの家庭では衛星を通じての海外番組が流れている。キーキの家もその一つで、チャンネルを何度か変えるが興味を抱く番組は今のところなかった。
結局、祖父は海外局のニュースにして、先ほどまで座っていた席に戻って湯飲みに緑茶を注ぎ一口啜った。
新聞を広げては黙々と読みふけ、たまにテレビにも目を向ける。これが祖父の食後だ。キーキも同じようにお茶を飲みながらテレビや雑誌へと目を移すのが日課であった。けれど、今の彼はご立腹中である。キーキは祖父やメルドと喧嘩した日は決まって空に浮かぶ二つの月を見つめていた。
それが二つ目の彼の癖。
どうにか止めさせたいと祖父は長年思っていたが、何故と問われても濁す程度の返答しかできず、今更聞く耳を持つ孫ではないことは知っていたので何も言えない。仕方なく新聞へと目を落とした。
――続いては海外特集です。皆さんはあの五年前の忌まわしい大地震を覚えているでしょうか。そう今日はニッポンについて。未だに爪痕の残りながらもニッポンで行われた第九十二代女帝選出選挙について取材してきました――
女性アナウンサーの声に祖父は顔を向けた。
――歴史的な地震災害から五年、未だに復興に追われているニッポンですが現在開催中の第九十二代目女帝の最終選挙に全世界の注目を集めています。本来なら二年がかりで行われる選挙活動ですが、今回はおよそ一年間という急ピッチで行われました。
ニッポン政府のミノイチ議員は「これで国民に発破をかけられればいい。活性化に繋がることを願っている」とのコメント。はたしてこの選挙でニッポンの活力を取り戻すきっかけになるのでしょうか――
「……もうそんな時期か。時間なんて早いもんだな」
そうテレビの映像が流れるたびに祖父は寂しそうに呟いた。
――さて、ここで女帝について簡単に説明を。
これはニッポン国民の十四歳から十六歳までの少女から一人厳選され、十五年と言う間に女帝というポストに付くといったものです。女帝と言っても殆どは国内の地域復興から国外の親善大使などの国内外での友好活動が主立っていますが、他にも着任する女帝によって多種多様な活動を行っていることでも有名です。前任のタツミ故女帝は国内に留まらず国外での自然保護で世界的にも評価を得て表彰されましたね――
そこへ画面はアナウンサーから切り替わりカウンター席に座るコメンテーターの一人に切り替わった。
――前九十一代目のタツミ女帝は五年前の災害でお亡くなりになりましたからね。歴史が深い分、国民の方もこれには酷く落胆したでしょう。ですが、今回の女帝選出選挙でニッポン国民の皆さんが元気を出してくれればと思います――
そこでまたしても女性アナウンサーへと画面は切り替わると、彼女の後ろのバックスクリーンに今回のその八人の女帝候補たちが映し出されていく。まだあどけなさの残る少女たちだ。しかし、八人とも均整のとれた顔立ちで美少女揃いである。番組出演者の一人が下品に口笛を吹いた。そんなちゃちな反応も番組の売りなのか気にせずに一人一人の紹介を本人のインタビュー付きで流れていく。
――毎回……まあ、僕が生きているうちじゃ今回で三回目だけど、思うんだけどこれってミスコンでいいんじゃないの?――
そう映像の画面枠で男が口を挟んだ。
「……まったくだ。中身じゃなくて外見で選んでるんじゃないのかこれ」
男の言葉に祖父は頷き疑問をあげる。その返答を求めるように祖父は横目でキーキへと視線を向けた。キーキは黙って空に浮かぶ月を見つめるばかり。
祖父は口を閉じてテレビへと視線を戻した。
テレビは他のゲストたちへと画面を切り変えていく。
――若いねえ。十四歳から十六歳って前以上に今のニッポンはそんな若い子で大丈夫なのか?――
――まだ遺族の悲しみも消え去っていないのにこんなことして政府は反感とか買わないのかね? 女帝選出選挙ってやるにもやったあとにも多額の金が消えるんでしょ? 今のニッポンにそんな余裕は……――
――選ばれた女の子は任期中に角を立てずに大人しいお人形さんでいたら解かれたあとは芸能関係やらで引き手数多だし報奨金も貰えるんだから一生安泰なんだよね。宝くじが当たったようなもんだ――
と、あまり良い顔をしない出演者たちの言葉。
「なあ、ハジメや」
祖父はテレビに顔を向けながら再度キーキに語りかけた。
キーキからの返事はなかった。
「お前、何やら月に興味があるようだが、そんな夢は直ぐに諦めて堅実に生きていけよ」
キーキは微動だにせずただ黙って夜空を見ていた。
「月はもうなんも無いんだ。あるのは過去の栄華を誇っていた残骸がひょっこりと水面より顔と覗かせ、何万という人間が漂う死の海だけだ。そんなところに行ったところで何も得られはせん。ましてや金銀財宝なんて考えるだけ無駄だ。そんなものあったとしてとっくのとうに政府に回収されているだろうよ。取りこぼしがあろうと、それが何になる? その行為を許すようなことは誰も認めてないし、見つけたところで没収されるのが席の山だ。悪くてとっ捕まるだけ」
それでもキーキは輝く二つのそれを眺めていた。
「お前の夢は何番煎じもいいところなんだ。もう何万人という人間が足跡を残し踏み荒らした荒地に自分の一歩を刻みたいと言っているようなもんだ。それなのにあいつときたらわしの言うことなど聞かずに勝手に研究員になりおって……ごほん! いや、今は関係ない。まあ、だから。そんな犯罪行為になるやもしれんことに手を出したらお天道様で見守ってくれているお前の父親が泣くぞ」
それでもキーキは空に浮かぶ月を見つめるだけだ。
「……何がそこまでお前を惹き付けるんじゃ」
「月に行きたいんだ」
キーキ立ち上がり口を開いた。
「月の海を泳ぐこと……月潜りがしたいんだ。探検は子どものころの夢だったけど、今は違う。一番重要なのはあの月で泳ぐことなんだ。探検なんて、財宝なんて無いことだって知っている。ただ月にいければいい。そこで、月で泳げればいいんだ。だから俺は月に行きたい」
そう、キーキは祖父を見つめて呟いた。
それは脆く折れそうで、それでも前に進もうとする迷子のような眼差し。歪に濁った光りを燈していそうな。そう、祖父は感じた。
「ハジメ……」
キーキは立ち上がり、リビングの扉を開け、
「海に行ってくる」
そう告げると静かに扉を閉めた。
「なあ……、わしはどうしたらよかったんだ?」
祖父はただ、コルクに留められた写真を見つめて呟くだけであった。
――差別って訳じゃ無いけど、どうしても見分けがつかないんだよね。どの子も一緒に見えちゃうよ。
でも、でもね、自分の中でこの子だけ何か八人の中で違うような気がするんだ――
テレビでは未だに女帝特集が続いていた。もう誰の耳にも届いていないのにテレビはその声を届けていた。
――ええ、ではそれは一体?――
――贔屓になっちゃうから誰だとは口に出さないけど、その子だけは妙なオーラを感じるね。って、こんな外の人間が贔屓だなんて言っても意味は無いか――
コメンテーターは「これ!」とばかりに指を挿そうとしたところでまた画面はアナウンサーへと切り替わった。
――去年の七月から始まった第一次、第二次を終え選出された八人の少女たちは来月より三ヶ月間の選挙活動に励みます!――