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今日はついてない。
空港を出て直ぐに車で移動としたというのに、あの渋滞は一時間では済まず、結局ホテルに到着するまでに二時間以上も要してしまった。その間に増えるのは苛立ちと空腹感。機内で一度食事が出たのだが、あまり食欲が沸かずほとんど手を付けなかったこともあるのだが……。
とにかく、ようやくホテルに辿り着いたのはもう日が沈むころ。いつきの予定ではホテルのプールで一泳ぎするはずだったのだが、最上階ルームから眺める夕日を見ていたら、なんだか白けてしまった。
だから、今日はもう食事の用意をしてもらった。
ニッポンにいたころなら夕食には丁度いい時間だろう。
いつもなら決まった時間に席に座り、毎日毎日と共に同じ道《女帝》を目指す仲間だった女の子たちと顔を合わせての食事。他人の顔色を探っては心にもない話で互いに尊敬しながら話をしながらの食事。
いつきにはそれが嫌で仕方がなかった。
……多分、他の娘たちも同じ思いではないだろうか。
「えー……今日はこのまま休みとしますが、明日からいつき様が外出する場合は、私たちが同伴の上での行動となります。また、夜間私たちがいない間、いつき様は学習に励んでもらいます」
「……遊べないの?」
「遊びに来たわけではありません。日中全て課外学習とします。ただ、休憩と称して二、三時間は間を作りますが」
心の中で悪態をつく。せっかく南の島へときたというのに、これではニッポンにいたときと変わらないでないか。だからこそと不満を放とうとして……外で待機していた田山に声をかけられた。
給仕が料理を運んできたようだった。
雪島はすぐに背を向けて部屋に給仕を向かいいれた。
田山と井上の二人が部屋の入り口で待機している中、給仕によって運ばれてきたカートから豪勢に盛られた皿がテーブルに並んでいく。その後、雪島は給仕にチップを渡して直ぐに出払ってもらった。感謝の言葉も聞かずに扉を閉めた雪島は料理を見渡し何もない事を確認する。そして、彼女の承諾が出てからいつきは手をつけることが許された。
ナイフとフォークを使っているのに、まるで犬のようだと思った。
二人だけの部屋に食器のぶつかりあう音だけが響き渡る。
後ろに立つ雪島は絶えず笑顔を作るも、音が鳴り響くごとに頬を引き攣らせているだろう。振り向かずとも彼女が今どんな表情をしているのか頭に浮かんた。
「もういい。今日は直ぐ寝る。雪島も下がって。田山たちにも部屋に戻って休めと伝えて」
どんなに練習しても未だに慣れないナイフとフォークを使ってロブスターの殻と身を崩そうと苦戦しながら後ろに控えている雪島にそう指示した。
「……ですが」
「いいからっ! ……ゆっくり休め」
いつきは知っていた。
まだ数ヶ月の付き合いとはいえ、雪島のそれは形だけで、追求はしないことを。見えていない時は不誠実な人だと。
けれど、今の雪島は普段の笑顔よりも口元をやや吊り上げて笑みを浮かべていることをいつきは知らない。
「はい……それではいつき様、失礼します」
気落ちしたような口調を作り雪島は背を向けた。
「……明日まで自由にしていていいから。言ったようにもう寝るから。朝、私が連絡するまで来なくていい。それまで好きにしてて」
いつきもそう背中越しで雪島に伝えた。
はい、という返事を残して雪島は今度こそ部屋を後にした。扉の閉まった音を耳で確認し、続けて少し間を取ってから後ろを振り向き自分の目で確認する。
いつきは大きく息を吐くと右手に持つナイフを皿の上に投げ捨て、利き手に持ち変えたフォークで殻の付いたままの身を突き刺す。空いている手で殻を剥ぎ取りやっと身を口に入れる。
「……おいしい」
ゆっくりと噛み締め、味を楽しんでから飲み込む。名残惜しそうに左手の指に付いたソースをぺろっ、と舐めた。
「……今までやってこなかったことを数ヶ月で直せるものじゃないわよ」
忌々しくテーブルに添えられたまだ未使用なフォークをつまんでは宙でプラプラと降ってはテーブルに落とした。
周りの目を気にしないで食べることがこんなにも美味しいものだとは。
いつきは《女帝》になるための作法としてテーブルマナーを日常から教え込まれてきたのだが、どうにもこういった堅苦しいものは苦手なままだった。
周りの子らが食べ終わり、食後のお茶を楽しんでいるころにやっとデザートが登場するほどである。これでも早くなった方で、始めての食事ではあまりの遅さにメインディッシュが来る前に食事を取り下げられてしまうこともしばしば……。
その時はまだ顔を見合わせた初日だったこともあり、周りからは慰めとばかりの同情がかけられた。だが、それも暮らしが一日、二日……週を越す前には自分たちが蹴落とさなければいけない対象だと知る。いがみ合うようになり、自分の食事の遅さに苛立ち、毎日の堅苦しさの捌け口として避難の声を浴びせられるようになった。
「食事なんて嫌い……」
豪勢な料理もただ味を楽しむだけではない。その料理にあった必要な作法を身に付け、延々と気にしなければならない時間はいつきにとって苦痛であった。
彼女はその後もフォークと手を使って食べ続けた。
その日はいつもの数倍は早く食べ終わることが出来た。何よりも美味しく感じて。
「ごちそうさま。それじゃあ……」
汚れた手をナフキンで拭き取り、一息入れて席を立ち、空の食器をワゴンに乗せ部屋の外に出しておく。
そして、カーテンを閉めてからワンピースの裾を掴むと、豪快に捲くり上げて脱いでいった。それを近くの椅子に投げ、下着だけの姿になった彼女は大きなトランクケースから真新しい下着と雪島に内緒で入れた衣服と水着を取り出す。ピンクのポシェットに水着を放り込んだ後に、下着にも手を伸ばし裸体を晒す。
身体に纏わりつく部屋の気温と全裸であることに羞恥を得ながらバスルームへと足を運んでいった。
蛇口を捻り、シャワーから溢れる温水に身を委ねて目を閉じる。
心地よい水温に呆けるが、首を振って意識を集中させる。
その後、全身にシャワーを浴びせる。
ふと、右胸から斜めに走る微かな傷あとに指を這わせた。
微かに残る傷あと。
――この痕、消えないかな……。
自分にとっては忌々しい過去の傷だった。
それはもう、よく目を凝らさなければ気が付かないほどに癒えている。けれど、その本人であるいつきには目に止まる。そして、とても大きな物に見えてしまう。その時のことは寝ていて良く覚えていない。目を覚ました時も泣き出すほどの痛み。やっと意識しはじめたのが包帯を取り変える時に目に入ってしまった変色したその傷あと。
それまでならいい。
けれど、この傷あとを見ると、あの時の記憶が……。
「違う! ええ、違うわ! 早く準備しなさい! この調子じゃ明日もずっと三人に監視されるのよ! 今日くらいじゃないと自由な時間はない!」
今はそんな事思いだしている場合ではない。
自分を叱咤し奮い立たせる。
いつきはシャワーを止めて、備え付けのシャンプーボトルへと手を伸ばした。
いつきがシャワーを浴びている時。
同ホテルの一室に三人の男女が篭っていた。雪島たちだ。
部屋の外に待機していた二人にいつきに言われた通りに告げ――途中、二人の口答えを一括し、自分たちの部屋に戻っていった。
いつきの部屋より一つ下のフロア。そこに彼女たちの部屋は用意されていた。
雪島は部屋に着くと明かりも付けずにベランダへと佇み、夕日の沈む赤い海岸を眺め続けていた。ただ、ひたすら無言で。
何も語らない雪島。二人はどうしたものかと狼狽えるばかりであった。
太陽は海へと沈んだ。
世界が青紫で上塗りされる。夜が来る。
雪島は肩を小刻みに震わせ、囀りのような声を漏らし始めた。
「ゆ、きじまさん……?」
「姐さん! しっかりしてください!」
二人の心配を気にもかけず、雪島は突如として振り返った。その顔はいつもの笑顔とは桁違いに離れた歓喜の笑みであった。
「……んふ、んふふふ……ふふふ、ふあ、あ、はははっ、あははははは!」
紫色に染められた部屋の中、雪島の笑いに恐怖を覚え二人は一歩後退る。思わず肩を抱き寄せるほどに二人はがたがたと震えていた。
ついにストレスで壊れたのだろうか。
二人は思った。
日は完全に沈み、二つの月の光だけが部屋を照らしている時、不意に雪島は笑いを止めた。けれど、表情には笑みだけが残る。雪島は部屋に戻ると、二人の前に立ち尽くし緩んだ口元から八重歯を見せて、
「あんたたち! 飲みにいくわよ! さっさと準備なさい!」
「「は、はい!」」
声を揃えて返事を返し、二人は流されるままに雪島の後に着いていくだけ。
彼女の中に溜まりに溜まった鬱憤を晴らすにはそれが一番の方法であった。
三人はすぐさまに部屋を出てホテルのフロントへと向かった。そして、外で待機しているタクシーを一つ捕まえて、運転手に片言の言葉で行き先を告げ繁華街へと走らせていった。
その時、フロントから三人の一部始終を柱の影から眺めている少女がいた。まだ湿り気の残る髪を垂らした少女だ。ピンクのポシェットを揺らして笑う。
少女は三人とは反対方向へと駆けだした。