4
さて、ここにネグルという島がある。
太平洋に浮かぶ転々とした十五諸島を総じてパレドヒア国といい、そのうちの一つがネグル島である。
パレドヒアは年間平均気温二八度。湿度七十%以上の亜熱帯気候にあり、総人口は六万弱。自然に恵まれた常夏の南国で、その中でも二番目に大きなネグル島は本島とほぼ同数の二万強の島人が生活を行っている。
緑豊かな自然と澄み切った緑の海がこの国の自慢であり、多くの人々が観光として良く足を運んでくれている。
ただ、ネグル島でも賑わっているのは空港と輸出入を主だった港と名ばかりの軍事基地に、パレドヒア政府が指定した旅行者専用のリゾートホテル地、そしてそれらと根強い関係を持つ繁華街である。繁華街の後に続くように市街地が並び、さらに先は熱帯林やら草原やら人気をまったく感じない場所へと変わってしまう。
本来ネグル島は人の生活を行っていない広大な島の自然と海によって牧畜や漁業、果実を生産しては微々たる収入を得ていた。けれど、今では国の推薦でレジャー産業を主として生計を立てている。
昔は島人たちがのどかに暮らしていたのだが、数百年前、まだ十九世紀と呼ばれていた時代に突如として訪れた異人によってもたらされた異国文化により著しい発展を見せたことにある。
更にその異国文化の到来よりおよそ百年ほどに始まった世界的な戦時下に某国により占領。軍事基地設置と植民地化により、交通や生活、教育など幅広く整理を行われ、しかもこの国は奇跡的に戦火も訪れずに終戦そして、解放。
国としては有益な状態で戦争は終結してしまったのだ。
その後、長い時間を掛けて観光、貿易を経て成長し、また世界的なリゾートブームによって多くの外国人たちがこの国へと足を運び、永住を求めるほどになった。
今では多国籍民が殆どで、見た目だけでは誰がどこの国の出身かはわからない。
そんなネグル島がキーキたちの住む島である。
そして、いつきたちが訪れた外国というものこの島であった。
「……いつになったら動くのかしら」
長い長い車列、そのうちの一つである白塗りのリムジン車の後部座席で何度目かのそれが漏れた。いつきだ。
いつきたちが乗っている車は渋滞の中でも際立って目立っていた。海風や雨ざらし、日光によって剥げや錆びが目に付く一般車両とは違い、ワックスで良く磨かれ光沢を放ち、前後の車両から車間距離を大目に取られるほどに注目を集めている。それ以外にも遠くからでも栄えるその車両の長さや発光具合でどこか場違いな存在にしか見えない。
そんな車中でいつきの機嫌はすこぶる悪かった。
もう車内で一時間が過ぎようとしていた。
渋滞のおかげでいつきの苛々は増すばかり。
それだけではない。着いて早々空港での立ち往生も相まっていた。
着陸手前で飛行機がエンジントラブルを発生したのだ。
車輪を出していたことや、滑走路に着く直前であったために、どうに無事に着陸までは行えたのだが、不安定な姿勢での着陸と過度のオーバーランによって滑走路を過ぎ去っての着陸となった。幸いにも災害は発生せず乗客で打撲といった軽傷者が数名出た程度で済んだ……が、後数分早く故障が生じていたらあわや大惨事を招いていただろう。
医師の診断を受けての出発だったこともあり、空港から開放されるまでにまた長い時間を取ることとなってしまったのだ。
いつきは身体を閉めるシートベルトを忌々しそうに弄っては些細な変化しか見せない窓の外へと視線を向け続けていた。
ひんやりとした車内の冷房にも関らず、運転席でハンドルを握る井上の手に汗が浮かぶ。いつきの対面に座って笑顔を絶やさずにいる雪島も背から冷や汗が流れるのを感じていた。
そして、田山はというと。
渋滞の続く前方から汗を垂れ流しふらふらになりながら駆け付けて、息を荒げていつきの座る席の窓の前に来た。
いつきは肘掛のスイッチを押して窓を下げた。外との温度差による熱風が顔に当たり顔をしかめる。
「はぁっ、はあっ。その、です、ね。……はぁぁぁ。大型車両が、道の真ん中、で故障した、みたいです、ね。……ふう。結構、先の方ですかね。距離あるみたいですよ」
田山は途切れ途切れに渋滞の状況を知らせた。
雪島の命令で渋滞の原因を探らせに外で現場まで走らせていたのだ。
常夏のこの国で、黒スーツのまま大急ぎでと言われひとっ走り。今では背広は腕に抱えているが顔には大粒の汗がいくつも浮かびは流れ、首もとの襟もびっしょりと濡れていた。
「そう、それでいつになったら動くの?」
いつきは吊り上がった目元を田山へと向けた。
「で、ですから、渋滞で……多分ニッポンなら一時間ほどで動くと思うので――」
もういい、といつきはスイッチを押して窓を閉めた。同時に視界から消えるようにと手で払い、視線を彼の後方、どこまでも続く変わり映えのしない風景へと視線をずらした。
項垂れた田山はそのまま助手席に乗り込む。けれど、室内の涼しさに、はあ……と息を漏らしついついネクタイを緩めてしまう。ハンドルを握っていた井上は彼が乗り込んできた時に発生させていた体臭に顔を歪ませた。後部座席には壁一枚隔たりがあるために悪臭が移るなんてことはないだろうが、この狭い運転席では直ぐに臭いが充満するだろう。
井上は口には出さない。
井上と田山は昔からの付き合いだった。何も言わずにビニールに包まれた濡れタオルを渡す。田山は簡潔に感謝を口にすると、冷たいタオルに顔を埋めて口を開いた。
「はあ、涼しいなあ。外とは大違いだわ」
「そりゃなあ。あんな炎天下にそんな格好でマラソンなんて自殺行為だ。ほら、そこのボックスから好きなもん飲めよ」
サンキュー、と田山は足元に置いてある小さなクーラーボックスからミネラルウォーターを取り出して口を付けた。よほど喉が渇いていたのだろう。ボトルに入っていた水は直ぐに空になった。ペットボトルをくしゃりと潰して一息つく。
「それにしても、こんな日に事故だなんてな。うちの我侭なお姫様も機嫌が悪くなるわな」
例え本人に聞こえなくても、井上はついつい小声で話してしまう。
「始めて会った時はあんなに優しい子だったのにね。今じゃもう高飛車なご令嬢だよ」
そう田山も笑って同意し、二人でひとしきり笑う。と、田山は首を傾げてこう言った。
「でも、何かおかしいんだよ」
「ん、何かあったのか」
「俺が現場で見た車ってのが、軍が使っている旧式戦車だったんだよ。流石に武装は解除しているみたいで、車と代わらないんだけどさ。まあ、昔のやつだったなあ」
「それがどうしたんだよ? なんか問題あるのか」
「うーん、何か引っかかるんだよ。近くの車の運転手が話しているの聞いたけど、エンジントラブルがどうとか急に起動しなくなったとか言っててな。それがどうも気になってる」
田山は顎に手を当てて首を傾げる。
何か見落としている。些細な事だけど、耳にしただけのことに、何かが引っかかる。
「お前が戦車好きなのは昔からのことだけどよ、たまた飛行機事故と被ったからそう思えるんじゃないのかねえ? ……なあ、今はそんなことは忘れようぜ。見ろよ、この光景を!」
井上は左手の親指で窓の外、エメラルドグリーンの光り輝く海へを挿した。
ぱあっと田山の顔が耀いた。
「そうだよな! 雪島さんは子守りがどうだこうだと不満言ってるけど、これだって息抜きには代わらないよな!」
「そうそう! お姫様が寝た後で夜中抜け出して、大人の遊びと洒落込もうぜ!」
井上は厭らしそうに口元を歪めた。
そう考えるとさらに楽しみが増えてくる。田山もそれに何度も頷いた。
二人してついつい大声をあげて笑っていると、後部座席と繋がっている無線から『うるさい!』といつきの罵声が飛んでくる。
二人してしゃきっと背を伸ばし、直ぐに顔を合わせてニヤニヤと笑った。もう疑問は海とこれからのことで流されてしまったよう。それでも田山の頭には一針刺さっているかのような引っかかりが残っていた。