2
然る時間、戸塚おわりはぱちりと目を覚ました。
きょろきょろと両目が動く。横たわったまま薄暗い周りを見渡してから上半身を起こす。
「うーん! 気持ち悪い目覚めだ! ちゃんと寝床で寝ればよかったよ!」
地下格納庫で一人愚痴る。
寿命が近いのかピリピリと点灯を繰り返す幾つかの蛍光灯を含めて電灯がその大部屋を照らしていた。おわりは冷たい鉄床の上で伸びをして偏った血を全体に通わせようとする。
パキパキと小さな身体には不似合いな音が関節から鳴り響くが、あまり期待は出来ないようだ。
「ふぅ……今何時だろう。こう暗くちゃ時間の感覚なんて崩れるからなあ」
おわりは近くに倒れている置き時計を掴み取り、顔に近づける。
短針は二と三の間を示していた。
「うん、おやつにしよう!」
彼女は立ち上がり、鈍く重い腕を廻しながら格納庫の隅に天井から突き伸びている階段へと向かっていった。渦を巻いた螺旋階段で、おわりは楽しむかのように一歩一歩飛び跳ねながら上がる。
途中、手すりの間からこの格納庫の半分を占領しているモノを一目見てにっこりと笑った。
階段を上がって辿り着いた先には短くも薄暗い通路が続き、その突き当たりには隙間から光を漏らす扉がある。
おわりは近寄りノブを回すと、廃材やホコリの被ったダンボールが置かれた倉庫へと出た。入り口と思われる場所には積まれたダンボールや木箱が占拠して内開きの扉の開閉を邪魔している。この場所に辿り着いてからはその本来の入り口は使ってはいない。あまり力仕事は出来るような体格ではないし、木箱を片したとしてもその扉が開くかもわからないからだ。
だから、彼女は初めてこの建物に入った時と同じく鍵の壊れた窓から外に出ていく。
よっ、と声を上げながら窓枠から飛び越えた。
外は建物を中心に坊主となった空き地となり、その空き地を囲うように森林が続いていた。自己主張の激しい太陽が建物一帯を焼き尽くしているのに、先の鬱蒼と茂る森林には顔が利かないようだ。もう昼過ぎだというのに森奥は薄暗く静まり返る。時折、野鳥がまるで自身を誇示するかのように野太い鳴き声を上げる。
一言で言えば不気味。
入ることに躊躇ってしまいそうになる木々の群れなのに、おわりは気にかけもせず足を踏み入れさくさくと雑草を踏み歩く。少しばかり歩くと潮の満ち引きが耳に届いてきた。その音を聞いておわりは更に機嫌を良くし鼻歌を鳴らして歩を早めた。
波音が徐々に大きく近付く。そして、前面の木々の間から一際眩しい光が漏れ、その先へと進むと砂浜へと出た。
真っ白な砂。青か黄緑か透明度の高い海が見えた。
おわりは微笑を浮かべてその砂浜へと躍り出た。
砂を何度も踏みしめて鼻から肺一杯に空気を詰め込んで……潮の香りにうっと咳き込む。
目を滲ませるも息を整え、辺りを見渡し少し遠めに構えた一軒の民家が目に入った。
けれど、直ぐに目を逸らし、またも目の前に広がる広大な海へと目を向ける。
水平線と空の狭間を見つめ、そのまま空へと移動する。
カモメの群れが空を飛んでいた。
「……夢の中でも会った時、君はさっき月に行ってみたいって言ってたね。悪いけど一足お先に僕は行くよ」
風がおわりの黒い髪を掴み流す。
「僕は月に行くんだ」
おわりは一軒家へと歩きだした。カモメたちはそんな彼女の呟きを気にするでもなく、おわりとは反対へ、町の方へと空高く飛翔する。
場所は変わって高度八千メートル上空。
月野いつきは一等座席の広々とした座席で眠りこけていた。幼さの残った顔が背け、黒く艶のある長髪が彼女の頬を擽る。忌々しそうに振り払うも、それだけでは彼女は目を覚ますことない。
そこへ後方の二等座席から黒のパンツスーツで決めた女が姿を見せた。微笑を浮かばせ女は眠る彼女へとゆっくりと近付き肩を優しく揺する。
「いつき様、そろそろご到着いたします。お目覚めください」
最初はそよ風のように女はいつきを優しく揺り起こす。だが……いつきは目覚めない。
女はやや声を上げて同じ言葉に先ほどより強めて揺すった。
起きない。
次第に。
次第に。
次第に。
もう五段階。
いつきの頭はぐわんぐわんと揺れていた。それでもいつきと呼ばれた少女は目覚めなかった。女は笑顔を絶やさずとも、表情には怒気を漂わせていた。
ふと、片手を上げると、
ぺしんぺしんぺしんっ。
女はいつきの頬をはたき、やっと彼女は目を覚ました。
「……うう。痛い」
鏡で見れば赤くなっているだろう。頬を擦りながらいつきは涙目で女に目を向ける。
「雪島どうしたの? 何かあった? 頬が痛いんだけど」
夢島はひとつ咳払いをし、笑顔のまま何も無かったかのように首を横に振って、
「いつき様、間もなく到着いたします。シートベルトの着用をお願いします」
そう伝えた。
「ん」
いつきはそう呟くと身体の疲れを取るように伸びをして、目を何度も瞬く。
そして、
「……わかった。雪島も下がれ」
先ほどとは打って変わり引き締まった表情に声質を落として、雪島へと命令を下す。
「……はい、かしこまりました」
雪島は一礼をして元来た道を戻った。
その様子を横目で見る。ある程度間を取ってから、恐る恐る後ろを振り返った。
……誰もいない。
「ふぅーーー」
肩の力を抜いて、深く息を吐いた。
「居眠りだなんてみっともない姿を晒しちゃったなあ。でも、何もすることないのが悪いのよ」
備え付けられたオーディオシステムには手を伸ばしたこともある。けれど、使っていたのは乗ってから一時間ほど。それ以降は耳障りにしかならなかった。
「それにしても……」
いつきは周りの席を見渡して呟く。
「エコノミーでも良かったのに……」
今一人いつきは一等座席に座っている。
……自分の身分はわかっている。だから、そんなことを言っても決して聞き入れてくれるはずも無いが、雪島たちが周りにいるのだから雪島たちと同じく二等座席でも良かったのではないだろうか。
しかし、いつきと席を共にするなど滅相もない、らしい。
「本当にもったいないなあ……」
この移動費だけで今のニッポン国民二人ほどの年収が消えてなくなるだろう。
「外に行きたい……なんて我侭言わなかったほうが良かったのかな」
普段なら遠出となりそうなものはいつも雪島が許可しなかった。だが、今回の海外旅行についてだけは雪島もぜひともそうした方がいいと賛成してくれた。
その時のちょっとした思い付きであったが、それがとんとん拍子で進んで今日に至る。
「でも、こんな贅沢や自由な時間はもうないよね」
……授かればの話だけど、と付け加えて苦笑する。
……目的地はもう目と鼻の先だっだ。
視線を外へと移すと眼下には薄緑の海に大小と十数の島が姿を表した。
どの島も熱帯林に溢れ白い砂浜で囲われている。大きな島では民家がぽつぽつと顔を出している。どの島で降りるのだろうか。そんな期待を胸に飛行機は諸島の上空を過ぎ去っていった。
そう、彼女が上空からの光景に歓声を上げているとき、二等座席へと戻った雪島は先ほどとは打って変わって顔を歪ませて、一人悪態を付いていた。
「たくっ、なんであたしがあんなガキのお守りで同伴しないといけないのよ。しかも三人って何? もっと多くてもいいじゃない!」
周りの乗り合わせた客から白い目で見られても気にしない。逆にその目を気にしているのは左右に座る彼女の部下たちであった。
「ゆ、雪島さん! そんなこと言っていつきき様に聞かれたら大変ですよ!」
窓際の席に座っている田山は雪島をなだめるように小声で囁く。
「そうですよ、姐さん。今までこつこつと積み上げてきた信頼なんて簡単に崩れるものですから」
田山とは反対に座っている井上もそう囁いた。そして、続ける。
「それに今回の旅行にしたって賛成したの姐さんじゃないですか。いつもなら面倒だからって否定するのに」
そんな井上の言葉に急にもじもじとして雪島は口を開いた。
「だってあたし……海外旅行なんて初めてだから……つい……」
二人はその言葉に口をあんぐりと開けた。
確かに、今のニッポンを考えれば海外旅行は絶望的に値の張るものであった。が、およそ、数ヶ月分の生活費を回せば……行けないようなことではない。しかし、数ヶ月分だ。殆どの国民は考えるだけで実行などまずしないだろう。
雪島は両手を組んで話を続けた。
「ああ、夢にまで見たオーシャンビュー……。雑誌やテレビでしか見たことないエメラルドドグリーン……。夕日をバックに恋人とはしゃぐ、あ・た・しっ。一度は体験したかったこと……」
妄想が口から漏れる。口から涎がたらり。二人からそれを指摘されて、はっとハンカチで拭う。そして、もじもじと指遊びをしながら口を開く。
「だって、もっと警備だって大人数で行うものだと思ってたし。あわよくばお暇をもらえて、一人で遊べるものだと思ってたんだもん!」
それなのにそれなのに、と雪島は呟いて落ち込んでしまった。
「雪島さん……」
「あ、姐さん……」
二人は哀れみの目で彼女に送る。二人にだってその気持ちはわからなくはない。身辺警護という身分でも、羽を伸ばせるだろうと期待はあった。
「だ、大丈夫ですって!もうすぐいつき様がきっとやってくれますから!」
「そうですって! そうなれば俺たちのその後は安泰ですから」
「そ、そうよね。そういたら給料も増えてこんな海外旅行なんて何回もいけるわよね!」
「そうですとも! 俺たちエリートコースまっしぐらですって!」
井上は無理にでも調子を合わせて雪島の調子に合わせていった。
二人は周りの客への配慮も忘れて浮かれていたが一人、田山だけは窓から外を見つめて二人に聞こえない程度に囁いた。
「でも、いつき様。本当に『女帝』になれるのかなあ……」
田山の呟きと共に飛行機は着陸のために旋回を開始する。
その様子を三人と離れたいつきも見続けていた。
眼下で流れていた島の中で一番大きな島。整備された街並みに豪勢なホテル。他の島は無造作に生い茂っていた森林も庭師にでも調えられたかのようにその街に溶け込んでいた。
飛行機は島の中心からやや離れた飛行場の上空を旋回し、舗装された滑走路へと機体は体勢を整えはじめる。
「あ!」
その島の住宅地付近を白い鳥たちが飛び回っていた。小さくてどんな鳥かはわからない。
やがて、飛行機は滑走路へと滑降していく。斜めになった機内での軽い浮遊感を感じてそのまま大地へと着陸する……その時、
――機内の電灯は全て消えた。
悲鳴の巻き上がる中、飛行機は止まることを忘れたのかのように滑走路を滑りだした。
鳥たちは無関係とばかりに空を羽ばたいていた。