20
「今日はわるいけど、僕は純月蝕の調査をするからダイビングは中止ね」
次の日の朝、朝食を取っていた時のことだ。
嫌々ビスケットを口に含みながらキーキはその言葉を最近どこかで聞いたような気がして頭を傾ける。
そうだ、物理の先生が言っていた言葉だ。
「あの、月と月が重なって出来る現象?」
「そう、それ。僕は純月蝕の調査をするために月へと着たんだよ! 例え生き死にがかかっていようと流石にこれだけは譲れない。昨日二人が潜っている間、僕が指示だけしてたと思う? もう準備は万端さ! 気候変動に水質チェック、破調探索からここから覗く地球の位置。実を言うとこの研究がしたいがために僕は教授に頼んで月の入星許可をもらったんだから!」
息巻くおわりに昨日の面影は見当たらない。
強がっているのかもしれないが、今はそんなことでも彼女が元気を取り戻してくれるならばいいとキーキは思った。
「ふーん、まあ。息抜き程度にはいいかもしれないわね。私たちにも何か手伝えることはある?」
いつきもカップに注がれた紅茶をテーブルに置くと呟いた。
「うん、じゃあ甲板に出て地球の録画を頼める? カメラはあるからただ向きがかわらないようにしてくれればいいよ。ちょっと面白い体験になると思うよ。純月蝕になると太陽が地球で隠れて日食と同じ感じで見れると思う。あ、太陽の見すぎには気を付けてね」
おわりはにっこりと笑った。
それから朝食を終えた三人は行動を開始した。
いつきとキーキは甲板に。おわりはブリッジで各自純月食の観測の準備を始める。
空には大きく燦燦とあたりを照らす太陽。もうすぐ大きな空に浮かぶ地球に輪郭が重なろうとしていた。
太陽の光を受けてうっすらと光を帯び、影を持つ地球。これからこの一面を薄暗い夜へと変えるだろう。
『ひぎゃ!』
「ん……どうかしたか?」
耳につけたインカムから響くおわりの悲鳴にキーキは問いかけた。
『ひゃああっ、大丈夫。うん、大丈夫。続けて』
そう言われてキーキは空へと頭を向けて作業を続ける。
いつきは足に吸盤のついた三脚を甲板に固定している。キーキはその脚立に乗ったカメラの位置の調節。耳元から伝わるおわりからの指示を聞きならが設定をしていた。
キーキに比べて一つ早く終わったいつきは手のひらで庇を作りながら太陽と地球の様子をちょくちょくと見ていた。
「うーん、目がしばしばする」
いつきは両目を擦りつけた。
「あまり肉眼で見るなよ。まだ時間はあるんだ。長時間見ていたら目だっておかしくなる。……よし、ほら、こっちは終わったからこれ使え」
そういうと遮光レンズをはめ込んだ眼鏡をいつきに渡す。せめてサングラスがあればよかったがそれもおわりが自分で用意したひとり分だけだった。今まではキーキがカメラ角度の確認使用していたために、いつきには手持ち無沙汰で肉眼で見るしかなかった。
「うわあ、太陽が小さい……」
眼鏡をかけていつきはそう感想を漏らす。これで二人がやれることは全て終わった。後は遠隔操作でおわりがやってくれるだろう。
「聞こえるかおわり? こっちは終わったぞ」
『はーい、こちらも確認できた。後は太陽と地球を自動で追跡してくれるよ。……いやあ、最初は通常の撮影モードにしてたから室内が真っ白にピカピカ! もう、目の前のパネルが見えないくらいだったよ! 本当に失敗しちゃったね、あははっ!』
ぷっとキーキも噴き出し、耐え切れずに笑い出す。
いつもなら気にせずに軽い相づちで済ましていただろうが、今回はそれが妙につぼに嵌まってしまった。それも先ほどの可愛らしい叫び声が頭の中で再生されてしまったこともある。何度もおわりの悲鳴を真似て口にしてそれですら笑ってしまった。
いつきがどうかしたのかと訊ねてきたが、訳は後で話そうとキーキは思った。
『もう、そこまで笑うなんて酷いじゃないか。僕だって好きで出したわけじゃないやい。も――っ! とにかく、太陽は見てていいけど熱中症には気を付けてね! 本当は日焼けだって恐いんだから』
「ははっ、了解」
おわりとの通話も終えて、仲間外れにされたと思っているいつきへと事情を話した。
いつきはそれのどこが面白いの? と頭を傾げていたが、その様子ですらキーキは笑ってしまう。いつきは訳がわからないとばかりに肩をすくめた。
今はそれだけのやり取りがたまらなく嬉しくて幸せをキーキは感じでいた。
一通り笑い満足して、キーキはおもむろに甲板の柵へと近寄って目の前に広がる海原を見渡す。昨日見た海と何一つ変わらない。
けれど、キーキは昨日の海と違うような気がしていた。違和感ではない。ただ、言葉にするには難しい安心感を覚える。
「なあ、いつき」
「んー?」
「俺たちさ、帰れると思うんだ」
「……そうね。私もそう願ってるわ」
気の抜けた返事。それは今まで夢中になっていた遊びから現実に引きかえされたような口調だった。
空を見ていたいつきの眉が若干下がったように見えた。
「いや、願望じゃない。何か確信じみたものを感じるんだ。きっと、俺たちは帰れる。そう……」
いつきは何も言わずに空を見上げていた。けれど、話は聞いてくれている。
「月が二つ夜空に浮かんでいるのが当然のように」
「……なにそれ?」
太陽は地球に重なり始めた。
あと一時間もすれば太陽は地球の後ろに全てを隠すだろう。その時こそが純月蝕となる。
……そして、今この月もまたその純月蝕への準備を開始しはじめていた。
そのことに気がついたのは誰が最初かと言われれば三者三様。
誰とも言えない。
海の上での大きな振動。つなみでもなく船が小刻みに揺れはじめたことも彼らがそれに気がついたことの末端でしかない。
キーキは海を見ていたことで。
いつきは空を見上げていたことで。
おわりは船の計器を見ていたことで。
「え?」
とはキーキ。
「え!」
とはいつき。
「え……」
とはおわり。
誰と構わず声を上げてその異変を訴えた。
「なにこの異常な磁場……」
ひとりは揺れる船内で計測器の数値が異常なまで膨れ上がっていることを見て呟く。
「ねえ、空にカーテンが架かってるわよ!」
ひとりは脚立にしがみ付きながら空の青に白い光の帯が幾重にも連なって揺れているそれを見て歓声を上げた。
「海底で亀裂が……」
そして最後のひとりが海底の異変に気付き口から漏らした。
波立つ海面。そして、海水がまるで意志を持ったかのように船にまるで生きているかのようにへばり付き揺れを起こす。そのために船は立っていられないほどの振動にいつきはその場にへたり込み、キーキも身を乗り出さないようにしゃがんで柵に捕まっていた。
『二人とも危険だから船の中に入って!』
耳に響くおわりの言葉をいつきに伝えるとキーキはその場を這いながら船へと入る。
船中は外以上に震えていた。壁沿いに這い進み、ブリーフィングルームに入って椅子の上に座ってやりすごす。
船の揺れは時が立つにつれて酷くなっていった。
タールのように粘着性を持った海は船を掴んで離さない。そのまま亀裂の中へと追いやろうとしていた。
この月で何かが起こり始めている。
これは何かの前触れだろうか。
水位は下がっていく。海に沈んだ街が顔を出し始める。
しかし、船は大地には降り立たず、キーキの見た亀裂へと向かっていく。
太陽は地球の背へと顔を隠し始め、あたりは白夜のように白澄んでいた。
船は月の中へと潜っていった。
月の内部では揺れも海面に浮かぶ時と同じくらいに穏やかだ。未だに空の亀裂からは海水が飛沫を撒き散らしているが、三人は船橋から外部カメラを使って船の周りを探っていた。
今は地下に溜まった海水の上に船が浮かんでいるのだろう。カメラからの映像で辺りの背景を見るものの、亀裂から指し込んだ薄い光だけが差し込む薄暗い世界であった。
「すごい、月に潜っちゃったよ!」
「月にこんな空洞があったんだな……」
円蓋となった空を見上げてキーキは呟く。
「これでさらに絶望的になっちゃったね。今のこの船じゃ浮上することなんて無理だよ」
そうおわりは冷静に現状を見て二人に告げた。
「……えっと、とにかく外に出てみる?」
程なくして、天井の亀裂から降り注いでいた海水は止んだ。
外は映像で見た通りの世界だった。
深く漆黒の海はどこまでも続き、空から注ぐ白光で微かに水面が煌いている。月に到着した時ですら物静かだったと言うのに今この場は船の動力音と、空から滴る水滴がやけに耳障りに聞こえるほど静まり返っていた。
「これは怖くなるな」
キーキはそう呟いた。だが、言葉とは違い頬が緩んでいる。
周りが静まったこの世界では、自分の声が良く響き渡る気がした。
「こんな体験してるのって私たちくらいだよね!」
いつきは高鳴る鼓動を抑え切れないのかいつもよりも大声を上げた。
「確かに。僕たちは今、人類が何千年とかけてきた歴史の中で未知の現象に遭遇していると考えると恐怖と入り混じって高揚すら覚えるね」
おわりもまるで武者震いのように肩を振るわせてその全ての黒を見渡していた。
真っ先に行動を起こしたのはいつきだった。我慢できずに柵に身を乗り出して両手を口元に添えて息を大きく吸い、
「やっほおおおおおおおおおおおおっ!」
そう叫んだ。
気分は山頂を制覇した新米登山家だ。山彦を求めるかのように目を閉じて耳を傾ける。流石に木霊は返ってはこない。てへへと笑って二人へと振り返るが、おわりも笑って同じように叫んだ。
「やっほおおおおおおおおお!」
島でしか過ごしたことが無いキーキは二人が何をやっているのかはさっぱりわからなかったが、ここでやらないのはどうにも仲間外れにされたようで癪だ。
「や、やっほおおおおおおおおおおおおおっ!」
やはり返ってこない。
三人は顔を合わせると誰と構わず噴き出し声を上げて笑った。
今自分たちが置かれている立場を忘れて今はただ、そんなやり取りが嬉しくて声を出して笑った。
今まで以上に絶望的だというのに。
それを無理にでも忘れるかのように三人は笑いあった。
……と、そこでおわりはふと停止して笑うことをやめた。
それを見た二人はどうかしたのかとおわりへと声をかけようとして、彼女は口もとに指を置く。
「しっ、何か聞こえないか?」
二人は口を閉じてあたりに耳を傾けた。
彼女が聞こえたものとは波の音だろうか。亀裂からの落下物だろうか。
違う。
……ぃ。
聞こえた。確かに今、聞こえた。
二人は口を閉じて頷いた。しかし、反響音や幻聴ではないだろうか。三人はまた黙ってその音を探る。
「……―い?」
また聞こえた。しかも、人の声だ。
二人は黙ったままに首を何度も下に振る。こんなところに人が? まさか、今まで出会わなかっただけで、他の場所で探索していたおわりのような研究者たちが今回のこれに飲み込まれてしまったのかもしれない。
「おーい」
次第に大きくなる声、男性のようだ。渋みすら感じる声はどうやら船の下から聞こえてくる。
「そこに誰かいるのかい?」
三人は甲板から身を乗り出してその声の持ち主を見つけた。
……大人の男性。口元に薄らと頬皺が浮かぶもまだまだ若く見える。その男の様子にふたりとひとりで反応は違えど三人は呆気に取られていた。
男が海の上を歩いているのだ。
いや、歩いていると言うよりは立っていると言うべきか。
いつきとおわりは声を出すのも忘れて男を凝視していた。
しかし、反対にキーキは何度も目を擦り目の前の男を見直す。
そんなはずはない。
けれど、キーキの中でそれを否定することはできず口に出してその男に問いかけた。
「……父さん?」
横にいる二人は直ぐ様キーキを見た。男もキーキの顔をまじまじと見つめて、
「……ん、ハジメか?」
また二人はその男へと視線を向ける。
「「えええええええええええええええええええええ?」」
先ほどの山彦とは違い、二人の絶叫は幾重にも響き渡った。




