19
一つ二つと年を重ねていくに従っていつきは二つのことを知った。
ニッポン大震災は、北はホッカイドウから南はキュウシュウを巻き込み、その余波はニッポンに留まらず、周囲の国にも津波による大打撃を与えたらしい。そして、ニッポン国民は半分ほどがあの時に死亡、もしくは行方不明となっていること。
そして、一番衝撃的で、それでいて納得できたこと。
父はあの時にすでに死んでいることを知った。……薄々は感付いていた。
あの優しい父が姿を見せない理由。きっと何か理由が合って顔を出せないのだ。そう信じていたかった。信じたくはなかった。はじめて現実を知った時、はいそうですかと頷くには時間がかかった。
「……即死だったみたい。やっと顔を上げることが出来て冷静になった時に私は神様に感謝した。お父さんを苦しめずに死なせてくれたこと。そして、お父さんに対して酷いとは思うんだけどその時のことを、私に亡骸を見せないでくれたこと。きっと、見られるものじゃなかったと思う」
あの夜、いつきと母だけが生き残った。そして、父は助からなかった。
言ってしまえば簡単なことだった。
けれど、母は言わなかった。
でもきっと、母は言いたかっただろう。お前の父はもういないんだ。そうしたらいつきが何度も父について聞こうとはしなかっただろう。
「でも、私は思うんだ。私が《母》にお父さんの所在を尋ねることで、《母》の中でお父さんがもしかしたらまだいるんじゃないかって思うことが出来たんじゃないかって」
ただ、そう思う他になかった。
「それからの《母》は身体を壊しながらも私を育ててくれた。私は早く中学校を卒業して働き……《母》の手助けをしようと考えていた」
けれど、十四歳中学三年の春。いつきの運命が変わった。
四年前に暫定政府として批判を受けながらもここまで立て直した政府陣がニッポンの活性化を狙って考え付いた《おまつり》を計画する。
大震災によって絶たれた席を埋めようという……。
女帝。
それが空席の名だった。
女帝なんて神々しさは名前だけで、本来はニッポンの第二の象徴……いわばテレビに出てくるようなアイドル的存在として地域やニッポンの活性化に力を貸すといったものだった。
不謹慎だという声もあったが、今の傷付き支えを失ったニッポンの大半はそれを望む声が広まっていった。
そして、全国で女帝選出試験が開始された。
国が十五年に一度全国民の中から一人の少女を選びだし十五年間その座に君臨してもらう制度。まだニッポンが平和だったころ、いつきも現役で活躍する女帝をテレビ越しで見たことがある。とても美しい女性だった。
しかし、今回の選出試験、いつき自身には関係ないと思っていた……のに、母の凄まじい後押しもあっていつきは嫌々ながらに参加することになった。
本来、女帝選出試験は現女帝の任期終了に合わせて二年越しで行われる。けれども、その女帝も四年前の大災害に巻き込まれてしまった。急きょ行われたこともあり、それは半年ほど短い一年半でのものとなった。
……全国に数百何万といる候補者たち。享受されるのはたった一人。
残れるとは思いもしない。だが、鬼気迫る母は良くも悪くもこの数年で一番「活気」に満ちていたのだ。こんなことでも彼女のためになれるなら、と……きっと少しでも勝ち残ったら母の笑顔が見れるなら、と。いつきは本来以上の力を出して試験に取り組み、一つ、また一つと勝ち上がっていった。
神さまが味方してくれたのかはわからない。ただ、今までにない運といつき自身の能力により順々に勝ち残り、今では最終候補の八人にまで残るまでに至った。
……その間に母の微笑みは一度たりとも見ることはなかったが。
後少しで女帝になれる。その年の初冬にいつきはから来年の四月までの数ヶ月に女帝としての勉強をはじめることになった。勉強といっても女帝の歴史や試験によって不参加での学業と、本質は女帝としての礼儀を教え込む事にあるが。
母と別れを向かえる日。厳つい黒塗りの車と三人の政府関係者……雪島たちに迎えられていた。
「絶対になってくるのよ! いい! 女帝になって帰ってくるのよ!」
もっと別れを惜しみたかったのに、母に背を推され車の後部座席に押し付けられた。
扉は閉まる。
後部座席から振り向き母を見続けていたら母は雪島から真っ白な封筒を渡されていた。そして、雪島が車に乗り運転手である田山が走らせる。
数ヶ月だとしても母との別れを惜しみ、延々と母を見続ける。一度もこちらを見てもらえない。
母はもらった封筒を開けると中から黒いカードを取り出していた。
そのカードをもらった時の母の表情は歪ながらもいつきがこの数年待ち焦がれていたものだった。
ほほえみ。
その笑顔は娘にではなく母の手に持つカードへと注がれてる。その視線は最後まで過ぎ去ろうとする自分の娘へと向かうことはなかった。
後に聞いた話だ。あのカードには毎回最終候補者の保護者に渡されるもの……お金らしい。
昔ならば公務員の給与一年分ほど。でも、今のニッポンではきっとその価値は十年分にはなっているだろう。このことは公にされていないが国民のほとんどは知っているそうだ。
そう母との別れが終わりいつきは女帝候補としての日々が始まる。
その日からいつきの生活は大災害が起こる前以前よりも華やかなものとなった。
あの質素な生活からは信じられない豪勢な食事に真新しく清潔な服を着る日々がはじまり……地獄の日々の始まりでもあった。
朝早くから食事マナーを習い内容のよくわからない勉強を始め、強制される礼儀作法。生活の全てを管理され自由な時間は床につく時くらいだった。
「陰湿ないじめも受けた。一応言っておくけど、私はやってないよ……」
候補のうち誰かが、もしくは全員か。
見えないところで邪魔しあい、物を隠し、食事にすら異物を混入させる。まわりがまわりを信じられなくなった。
女帝を決めるのは国民であってこんなことしても意味がない。けれど、きっとそれもわかっているのだろう。その結果は後にもっと思わぬところで成果を上げた。
いつだったか、他の候補者の一人が嫌みったらしく他の候補者に向かって言った。
――私たちは売られたんだ。
――そんなことはない。私は国のために名乗り挙げたんだ。家族だって私を売るために行ったわけではない。
そう言い返す人を尻目にいつきは何も言えずにいた。
いつきの中では母のためだという思いが強かったから。けれど、この女帝選出は母が決めたことだ。女帝になれる可能性は倍率的にいえばゼロに近いことだって知っているはず。だからそんな可能性に賭ける母を想像出来ない。
私は運がよかったのだ。運が良くて選ばれてここにいる。
そう思っていた。
それは確かだろう。けれど、その日から売られたという疑問がいつきのことを縛り付けることになった。
母は私を売るために女帝へと出させたのか。……違う。
なんども呟いた。
「私は母に手紙を書いた。はっきりと聞くことは恐い。だから、そのことは伏せて今の生活や仲間のこと。仲良くやっていると元気でいると嘘を混ぜて」
しかし、手紙は帰ってきた。住所不在によりそのままで戻ってきた。
何度も何度も送り、何度も何度も戻ってくる。
……母はいつきの支えだった。でも、その支えがないとしてしまったら。消えてしまったら。
信じる人が、信じるものがなくなったいつきに今の生活は彼女を極限にまで追い込むほどになっていた。
もう辞退しよう。ここまできたのに? 辛い。帰りたい。でも、自分に残っているものは? 帰る場所はあるの? ない。ある。ない。ある。ない。ない、ないないないないない。ないから、もう女帝しか残っていない。でも、女帝になれなかったら?
……だから。
結局、いつきは自分の中での葛藤に数日悩み苦しみ過ごした後、辞退することを決め……それは思わぬ形で延期されることとなった。
決心して言おうと決めたその日の朝、食事に向かっていた時、別の席に座っていた候補者が先に辞退を発表したのだ。
涙を流し、舌も回らず、言葉にならない声を発し、唯一正確に言えた言葉はただただ。やめます、と。
ついに心を壊したのだ。
その日はもう大人たちが大慌てとなる日だった。
反対の声がある中で辞退者を出したことが世間に知れ渡れば政府としての責任や、女帝の名に傷がつくことを恐れていたのだ。
結局、その日から候補者たちは引き離されることになった。辞退を宣言した少女を説得するため。三月も半ばを迎えようとしていた時期だった。
いじめはこれを狙っていたのかはわからない、だが、もしもそうならば目論見は十分に成功している。候補者が潰れてくれればその分自分が女帝を授かれる可能性が高まる。
報を聞いて戸惑う素振りを《敵》は見せた。……そう歪に見えたのはいつきもまた疲れていたからだろうか。少なくとも、いつきの代わりに辞退を宣言した少女は犠牲になった。
候補者たちは個人指導と題して休養を取ることになった。
脱落しかけている一人を除いて六人と最後に顔を合わせた時はまるで犠牲になった少女とのことを無かったかのように笑って別れた。
名目上は「女帝としての課外活動」。
いつきにとってはただの国外逃亡。
それが今回、キーキたちと出会った理由。
そう、いつきは昔のことを思い出しながらキーキに語っていった。。
彼の口元が歪んでいるのがわかる。
「きっと、おわりだってあの大災害に巻き込まれてたくさんの傷を受けたと思う。お父さん、お母さん、おばあちゃん。私は……母がいたけど、おわりにはいなかったのかもしれない。そして、私が辛い時期を過ごしながらも、女帝候補になったみたいに、おわりにはもっと辛い時期と先が……あっ」
口にして理解した。知っていたのに知らないふりをしていた。目に入っても見ようとしなかった。
自分よりも過酷な現状にいる人がいることを。
口にしてやっとそれを受け入れてしまい、胸のうちに黒い何かがあふれ出すのを感じる。でも、そのまま胸に秘めていたくない。
だから、嫌われるかもしれないと思っても、
「……いやだ。自分は不幸だって思い込んでいたのに、もしかしたらおわりのほうが不幸だったかもしれないことに焦りを覚えた。不幸自慢なんて馬鹿みたい。なのにそれなのに、こんなこと言っちゃった。ハジメ、ごめん。私は……」
いつきは握りこぶしを作り下を向いて口を閉じる。
肩が震え次第に床に雫が落ちた。一や二と。
自らの腕でそれを拭うと一言ごめんと呟き、その場から立ち去ろうとして、
「……俺は何も知らなかった。五年前のことは終わってから友達とすげーとか見てみたいとか言ってた。なんでソフィーがあの時不謹慎だって言ったのか今わかった」
逃げようとしていたいつきの手をキーキが握って引き止める。
いつきは振り払おうとするもキーキは放さない。それだけ彼の手は力強かった。
「……父さんは五年前にいなくなっちゃったけどさ、じいちゃんがいて母さんがいてソフィーとメルドがいて……。これが自然なことだって思ってた」
キーキに軽く引かれて隣に腰を落とすように座ってしまう。逃げようとするもその手は放さない。
「俺はずっと幸せだった。おわりやいつきに比べられないほどに幸せだった。そんな部外者である俺に二人は話してくれたんだ。……謝るなよ。俺は気にしない。こっちのほうが申し訳なくなる」
「でも、だって……」
それ以上は言葉を紡げなかった。奥歯を噛み締めて溢れてくる涙を止めようと目蓋を瞑る。
「なあ」
「……なに?」
「今でも母さんのこと嫌いなのか?」
「母は……わからない……だけど、嫌い……だと思う。だけど、帰れないかもしれないって思ったら……会いたい。おか、お……母さんに……おかあ……さん、に……会いたいよ……っ!」
今すぐにでも母に抱き締めてもらいたかった。あの優しい手で頭を撫でてほしかった。あの優しい笑顔を向けて欲しかった。会いたい。お母さんに会いたい。
喉元から声が漏れていく。
とめどなく溢れる悲鳴にも似た泣き声。ただ、膝に眠るおわりと同じように髪をすくように撫でてくれるキーキの優しさが嬉しく辛く、赦されるかのよう。キーキは無意識かもしれない。子どもをあやすかのようになだめているだけかもしれない。
でも、それが心地よく暖かい。でも、それを言葉には出来なくて、いつきはキーキの首へと腕を回して抱き締める。
今はただキーキの温もりが心を和らげてくれると信じて。
「ねえ、ハジメ……」
そうキーキの耳元で囁く。
その声に身震いを起こした彼が面白くて一つ笑ってしまう。
「ん?」
「ハジメって髪の毛触るの好きだよね」
「そんなつもりはないけど」
「だって、さっきから私の髪やおわりの髪未だに触ってるじゃない」
「……いやならやめるけど?」
「ううん、続けて」
顔は合わせずにただそれだけを告げる。
気持ちがいい。
今はもういない父のような無骨な手のひらではなかったが、やさしいその指が髪をなで下ろしている時、自分の心の悲しみが少しずつ瓦解していく気がしてくる。
今、こうして念願の夢が半分叶っている。母にしてほしいことが半分だけ叶っていた。
……意地悪を思い付いた。
おわりが起きるまでキーキの手を止めさせはしないのだ。




