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キーキは夢を見ていた。
――えー、ですから、この蒼月から採れた鉱石、ルナタントは特殊な波長を当てることでその鉱石からプラスにもマイナスにも出来る重力場を生み出すことがわかったのです。
それは五年前、まだキーキが十二歳の頃。突発性の発熱でうなされていた時のことだ。苦悶に歪められた顔。まだ少年だった自分を見上げているという不思議な体験、故にこれが夢だとは理解できた。
――小石程度の大きさでもルナタントを固定した一般自動車、重量にしておよそ二トンの車も軽々と浮遊させ、軽いノートの切れ端には十キロもの負荷を掛けられました。
横たわるキーキの隣には母、バーバラが不眠不休で看病をしていた。濡れたタオルで汗を拭ってくれた時の感覚は微かながらに覚えている。そして、そう……そこへ様子を見に祖父であるコーイチと、今はもう居ない父、オギノが顔を出した。そう、この時キーキも朧げながらに意識があった。
――ただ、現在では採掘所でもある双月のうち、蒼月は皆も知ってのとおり、四二年前に水没してしまっています。採取することは難しく、今は再利用によって賄っています。
三人がどんな会話をしていたかまでは覚えていない。母が困り顔で溜め息を漏らし、祖父も険しい顔をしていて、父も苦々しく顔を歪ませていた。
それから、父が一人部屋を出ていった。
……いや、違う。家を出ていったと二人から聞かされた。何をしにいったかは知らない。だが、それから数時間ほどしてキーキの体調は回復に向かっていった。次の日にはもう外に飛び出してしまいたいくらいの快調振りだったほどに。
――また、単純所有は限られ、宇宙船と公認された大型の飛行機といった燃料を多量に消費する運送車両にだけルナタントの使用が許されています。しかし、ここだけの話、軍事利用としても使用され、まあ……軍車両の殆どはルナタントを動力にしていますね。
父は帰ってこなかった。
――ああっと、ごめん。ちょーっと脱線し過ぎました。じゃあ、閑話休題。えっとそれで今日の課題として白月と蒼月との面積の比較について計算式を含めて提出してください。
きっと月にでも行っちゃったのよ。
バーバラは苦笑していたが、一人になった時に彼の名を口にして泣いていたのをキーキは知っている。だから、月に行くにはどうしたらいいか、とコーイチに聞いてみても、馬鹿なことを言うな、と一蹴。けれど、父の失踪がきっかけになったのかは彼にもわからないが、キーキの中で月への好奇心が強まったのは確かだ。
――そんな騒ぎ立てても無くなりません。双月の面積なんて調べれば直ぐに見つかります。
それ以前からも月には憧れがあった。一番付き合いも長く仲が良かった親友とも毎日と月の話ばかりをしていた時期もある。しかし、海外のある事故で彼の母親を亡くしてしまってからは仲違いしてしまった。もう月への憧れはキーキだけのもの。
けれど、例えひとりだとしても、キーキは……。
――こらこら、ほら、今からボードに書くことはメモして! ……はい、今は水没しているからといって、行けないなんてことはありません。いつかまた人類は月へと足を運べるようになる日が必ず来ます。その日は近い将来であることは間違いなく……
「俺は月に行くんだ!」
……そう叫びながらキーキは立ち上がった。
その拍子に彼が腰をかけていた椅子は倒れ、けたたましい音を鳴らした。
彼の叫びは教室の時を止めてしまった。ホワイトボードを擦る教諭のペンも、そのホワイトボードに書かれた文字をノートに写す手も、机の下で携帯ゲームを押していた指も。全てが止まった。
何かがおかしい。
窓の外には何羽もの白い鳥が空に身をまかせて漂う。鳴き声を上げて仲間へと合図を送っているのだろうか。とても気持ちがよさそうだ。しかし、そのやけに鳴き声が透き通るかのように耳に届く。今は授業中だからこそ、耳をそちらに向けて無いと聞き逃してしまうはずだから……と、周りを見渡した。十数人の見開かれた視線と重なった。
「えー……君の名前は?」
……教壇に立つ教諭が尋ねてきて、やっと理解した。
「は、はい! ハジ……っ! キーキ・トツカです! その弁明させていただくと、若気の至りと申しますか! 月に行くのは自分の夢で思わず夢心地で、えー……だから、すみません!」
何故ここまで口走ってしまったのだろうか。キーキは早口で謝罪をして倒れた椅子を起こして座りなおした。
同じくしてクラス中でどっと笑いが溢れかえった。
キーキは気恥ずかしさで熱くなった頬を隠すかのように机に顔を埋めて唸り声を上げてしまう。こんなことは初めてだった。授業中に居眠りならよくやらかしていたが、まさか寝言を口にするとは――ましてや立ち上がるなどとは!!
夢のせいだとキーキは自分を呪った。
幼いころの夢。
しかも、悪夢でもある。父の失踪した時の夢などと。
クラスメイトの反応は様々で、ある生徒はキーキを指差し腹を抱えていた。舟をこいでいた同士はつられて背筋を伸ばした。気の毒なのは真剣に受けていた女の子で、笑いを堪えながらも授業に復帰しようとするが震えた手では文字を書けそうにはない。
どうやら完全に生徒の緊張の糸が切れてしまったようだ。
そこへホワイトボードの前で呆け突っ立っていた男性教諭が溜め息を一つ。手のひらを三度ほど叩いて注目を集めると、
「いいかい、トツカくん。君のすてきな思い出や大きな夢を発表してくれるのは構わないが次からは挙手してからお願いするよ。そして、今は道徳の時間ではなく物理の時間だということからも記憶からも目覚めてくれると嬉しいな」
そう教諭が注意をするも、更に生徒たちを沸かして、今度は全員が笑い出していた。
「はーい、静かに。……とりあえず、トツカくんのおかげでみんな気は引き締まったかな。じゃあ、気を直して授業を再開するよ」
こほんと一つ咳払い。
「――では、みんなは日蝕を知っているだろう。太陽に月が重なり部分的にもしくは全体的に隠してしまうそれだ。また、太陽光を浴びた地球の影が月にかかり月が欠けたように見える月蝕もある。……常識だね。そこで、だ」
と、男性教諭はホワイトボードに文字を書き流していく。その文章の終わりに疑問符がついたところで先ほどの喧騒は嘘のように静まり、提出日が書き終わるころには悲鳴が上がった。
「まあ、簡単なことだと思うけど、さっき出した課題とあわせてこの問題も解いてきてくれ。なあに、さっきと同じく図書室で探せば何冊も見つかる筈さ」
それでもクラスからは不満が響き渡る。もちろんその原因となった彼へもその対象だ。キーキは机に伏せたままで片手を上げてひらひらと振った。教諭は苦笑し、気にせずに話を続けた。
「まあまあ、これが結構面白いもんだよ。時間はあるんだからやっておくこと。と、自分で話を振っておいてなんだけどさ、月蝕にはあまり知られていないけど、純月蝕って言葉がある。夜空に浮かぶ二つの月が綺麗に重なって綺麗に一つになった時のことを純月蝕って言うんだ。この数十年で夜間観測はされていないんだけど、なんとこの島の五日後に見れるらしいよ。僕はもう心ときめいていてね。本当に楽しみなんだ!」
そう、彼は目をキラキラと輝かせながら熱弁を続けるも、大半の生徒の耳には届いてはいない。未だに課題を増やされたことの方が大事であり不満の様だ。教諭は静まらせようとするも、生徒の喧騒にかき消されてしまう。もう、どうにもならないようだ。
そこで、もう一つ増やそうと脅そうとして、授業終了の合図である鐘が鳴り響いた。
男性教諭は壁に立て掛けられた時計を見直し、残念そうに溜め息をついた。
「仕方ない。じゃあ、今日はここまで。トツカくん、君が冒険していた時の僕の話は他のクラスメイトから教えてもらい、次までの予習としておくんだよ」
そう言い残して男性教諭は教室から去っていった。
そこから皆は思い思いに席を立ちはじめ、その中でもキーキと仲のいい友人たちは未だに伏せていた彼へと近付き、課題を増やされたことに対しての不満や、授業中での発言をからかいはじめた。キーキは憎まれ口を開くも皆はただ笑うだけで、いつしかキーキも交えて笑い始める。
和気藹々とその談笑は次の鐘が鳴るまで続いていった。
ただ、そこから離れた場所で一人、彼だけが奥歯を噛み締めてキーキを睨み付けていた。その鋭い眼光は課題が増えたという理由だけでは説明できない怒気を宿す。噛み外し脳天を突くかのような音が奥歯から鳴り響いた。




