18
甲板へと上がった後、太陽光の眩しさと熱気にキーキは気だるさを覚えた。
潜水による疲労なのかはわからなかった。
いつきは汗を洗い流したがっていたが、水は命綱となる可能性もある。せめて髪だけでもとバケツ一杯分の水をもらって甲板でゆっくりと流していた。
おわりは先ほどの沈んだ様子も見せず、キーキからカートリッジを受け取ると今では見慣れた笑顔で迎えられた。だが、それもハジメにはぎこちないものにしか感じられなかった。
それからも船は移動して次の目的地へ。移動中と後にも十分な休憩を取った後に潜ってカートリッジを探索する。それを三度ほど繰り返して、最初のを含めて三つ入手することができた。
結構幸先がいいのではないか。最後のダイビングを終わらせて、減圧症の心配、健康診断を含めて解散となった。
おわりがカートリッジを弄っている間に身体検査で問題がないことを確認してからのキーキはというと、やることもなく自室で待機していた。……が、気がつけばベッドの上で目を覚ました。
窓の外では夕日が沈み、海面が真っ赤に染まっていた。
島で生活していた時も同じような夕日。
変わらない。月にいてもそれだけは代わらない。
……酷く、気持ちが沈んでいるのがわかった。
あの島へと帰りたい。
郷愁だろうか。まだ月に着て一日だというのに?
日が沈むにつれて胸の中でざわめきが大きくなる。
もしかしたらこの星で一生を向かえるかもしれないことを。このままでは島どころか地球にすら帰れないかもしれないことを。
……ただ、それとも違うものが胸を締め付ける。
月潜り。
幼い頃からの夢。それが叶ったことを今になって知る。
月の海で泳げたのだ。さらに月に潜るだけではなく宝探しの真似事だって出来た。
満足だ。余韻に浸ってもいい。
「なんでだよ……喜べよ……」
後に残るものは何も無かった。
ざわつく胸に一つの穴が開いていた。何処に繋がっているのかもわからない真っ黒な穴。
今朝は充実感が身体中を駆け巡り、軽くなるかのような感覚にあんなにも喜んでいたと言うのに今では何かが消えてしまったかのようだ。
果たして、今自分には何が残っているのだろう。
……月への思い。片思いにも似た感傷。
幼い頃から月には惹かれていた。ここに来る前にも後にも変わらず惹かれていた。
今、それだけが残ってしまった。
入り口が開いた。反射的に上半身を起こすとおわりが顔を覗かせていた。
「ごめん、驚いた? ちょっと話いいかな」
ハジメは頷き腰を上げる。そして、無言のままに彼女の後に着き、最初におわりと出会った広場……ブリーフィングルームに辿り着いた。
飲み物を聞かれ緑茶を頼む。おわりは面白いものを見たかのように目を丸めると、クスリと笑いながら用意を始め、キーキはソファーに座ってその後姿を見つめていた。
お盆に乗せた急須と二つのマグカップを持っておわりはキーキの隣に座る。対面にも席は空いているのに、おわりは肩を寄り添うように並び座った。
ゆっくりとマグカップにお茶を注いでキーキの目の前に置いた。感謝を述べてキーキは口をつけた。それを見てからおわりも自分のに注いで冷ましながらちょびちょびと飲み始めた。
ふう……と一息入れるとキーキが口を開いた。
「カートリッジの方はどうだった?」
おわりは緑色の波紋を見つめながら答えた。
「駄目だった。もうプラグの部分にガタがきてて使い物にもならなかった。環境が悪かったからって思いたいけど、外装以前に中身が無くなってた……」
「そうか……」
またお茶を口に含む。
そして、二人は口を閉じた。
無言がその場を流れていたがキーキはひとり心地良さを感じていた。
先ほどまでは一人で悩んでいたと言うのに、茶を啜り言葉を交わしているだけで空白だった心を包まれているかのようだ。
けれど、隣に座るおわりは……触れ合う肩から振動が伝わってくる。
嗚咽を漏らしそれと重なって肩が揺れた。
「帰れない……帰れないかもしれない……」
「まだはじめたばかりだろ。これから探して行けばいいじゃないか」
キーキはおわりの頭をくしゃくしゃと雑に、黒い髪が乱れるのも気にせずに撫でた。けれど、彼女の瞳からは涙が手元へと雫が落ちる。
「ごめん……ごめんなさい……」
「気にするな。俺は月に来れて嬉しかったよ。それに、このままここで生活するのもありかなって思ってる。だって、帰ったら俺らじいちゃんにこっぴどく叱られるんだぜ。はは、でも食料はどうするかなあ」
なんて、おわりを励まそうと軽口を叩いたが。
嘘だった。
月に来れたのは嬉しい。けれど、帰れないのは嫌だった。
先ほどまで自分自身が悩んでいたこと。それはおわりも一緒だった。きっといつきだって。そして、二人よりも幼く、船の全てを担っている彼女にとってその負担は遥かに重い物だ。
だから、年長としての義務があるとキーキは思った。
「ごめん……。僕があの時にちゃんと戻ってれば……通信を切らなければ……」
「じいちゃん恐かったしな。あれは仕方ないな」
ただ、苦笑しておわりを胸に抱き寄せた。
ぽろぽろと、堰を切ったかのように涙が溢れだす。おわりはキーキに抱きつくとその場で大声を出して泣き始めた。
張り詰めていた糸が完全に切れたのだろう。
ただ、彼女の小さな背に腕を回し、頭を撫でることしか出来ず、ただただ、今まで抱えていたもの全て混ぜ吐き出して叫ぶ姿に頷いてあげることしか出来ない。
……お父さん、お母さん、おばあちゃん。
そんな言葉が聞こえてきた。
……独りにしないで。寂しいよ。なんでニッポンが壊れちゃったの。
ネグル島から何千キロと離れたニッポンでの出来事。キーキにとってそれはもう過去の話でしかなかった。今回だってこうして二人と出合わなければ思い出せないほど、馴染みなんてものは無い。
多くの人が自分とは無関係な悲劇なんて直ぐに忘れてしまう。けれども、その当事者となったおわりを未だに苛め、苦しんでいた。
詳しい話は聞いていない。
話すこともなくここまで辿り着てしまったのだから。
二日前までおわりの存在すら知らなかったのだ。
けれど、こうして二人と出会い、そして、知ってしまった。
……無関係ではなくなってしまった。
今この胸で震える背中を強く抱き締めた。
他人ではなく肉親。キーキにしてみたら妹のようなものだ。
出会った時間など関係ない。ただ、今は地球へと帰ることよりもこの小さな身体を守ってやることのほうが何倍と大きなものに感じていた。
延々と木霊した彼女の泣声も次第に収まるころには、おわりはキーキの膝へと頭を乗せて目を閉じて微笑んでいた。キーキはその間もずっと髪を撫で続けた。
その手におわりの手が添えられ、口が開く。
「あのね。聞いてくれる?」
「うん」
「その、もう一つ謝りたかったんだ」
「なに?」
「あのマリンスノーのこと……」
「ああ、あれか」
あの時はぞっとしたが、《今》となっては気にすることでもない。けれど、おわりの話を遮るつもりはない。
「話には聞いていたの。海の中で不思議な白い結晶が発見されて調べた見たら人のたんぱく質だって……でも、信じられなくて。それで、それを思い出した時に独りだったのが嫌で。本当は誰かと一緒にいたくて。でも、そんなこと言えなくて。だから、僕はそのことを……いつきちゃんじゃなくてハジメならって思って……」
「大丈夫だ。俺は気にしてないよ」
「ごめん、ありがとう」
そう言っておわりはキーキの手を取り、自分の頬に添えてその暖かさに安堵した。
「ちょっと、寝させてね。起きたらもとに戻るから。今までだって一人で生きてきたんだから……」
「別に戻らなくてもいい。おわりが辛いなら助けてやるよ」
聞いていないかも知れない。それでも終わりに聞かせたかった。
「俺はお前の家族だからな」
きゅ、と添えられた手を握られた。
伝わったと思う。
直ぐに寝息が聞こえてきた。
そこで、やっと顔を上げて息をついた。
もう弱音は吐けなくなった。
今までは見られなかったのは幸いだった。自分が苦悩している姿なんて見せたら不安を与えることになってしまう。だから、これからはおわりを不安にさせるような態度は取らないようにしないといけない。もちろん、いつきにだって見せる気はない。
危険が迫ったとしても身体を張ってでも二人を守る。
そうキーキは決心した。
「よしっ!」
活を口にすると、
「おわっ……たったたっ……」
タタラを踏むかのようにいつきが入り口から顔を見せた。どうやら自動センサーに引っかかったようだ。
いつきはバツの悪そうな顔をすると、
「ごめん、聞いてた……」
そう言って頭を下げた。
キーキは頭を横に振って、
「謝るのは俺にじゃない。おわりにしてあげて。これはおわりが抱えた問題だよ」
そう答えた。
――それに、
キーキは思った。
――きっと、おわりもいつきにも聞いてもらいたいと思うから。
いつきはうん、と頷くとキーキの隣に座っておわりの頬を撫でた。くすぐったそうにおわりが微笑んだ。その様子を見ていつきもくすりと笑った。
そして、キーキに顔を向けて呟いた。
「……その、私の話も聞いてくれる?」
それは五年前の初夏。月野いつきはどこにでもいる十歳の少女だった。
家は貧しくもなければ逆に裕福な方だ。都市圏への交通が便利というだけの何の特徴もないが平和な街に住み、ごく普通の家庭に父と……母の三人で絵に画いたような幸せな日々を過ごしていた。
「毎日学校から帰ってきては私の帰りを待つ、お母……《母》に今日一日起こった事を報告しては褒められ頭を撫でてもらうことが好きだった。夜は仕事を終えて帰ってきたお父さんを玄関まで迎えて抱き締めてもらうのが好きだった」
両親二人と共に過ごし笑ってたまに怒られて泣いて。
休日は三人で買い物に出向いたり、母の趣味である家庭菜園を手伝ったり、遠出をして遊びに行ったり。
どこにでもある普通の幸せに包まれていた。
「その頃は悲しいことなんて宿題を忘れて先生に怒られたり、ちょっとしたことで友達と喧嘩した時、我侭を言って母に叱られた後くらいしか無かった」
本当に幸せな日々だった。本当に。
けれど、それも一瞬で消え去った。
ニッポン列島大震災。
夕闇と共に姿を見せた悪災は全てを飲み込んだ。
当初はテロだなんだと出所もわからないデマに踊らされるほどにニッポンは混乱を極めていた。昨日が来ると思っていた人たちの多くのが、本当に多くの人が命を絶たれた。
「その日、私は家族と一緒に出かけてた。良い意味でも悪い意味でも忘れることなんて出来ない思い出」
大震災の日、月野一家は高速道路を使ってちょっと遠めのドライブへと乗り出していた。
「名前は忘れちゃったけど、景色のいい山だった。休日だったこともあって沢山の人が集まってて、頂上までは登らず中腹に車を置いて、その後は歩いて登って景色を眺めるだけ。三人で写真も取ったしアイスクリームを買ってもらった。私はお父さんと《母》に一口上げたり楽しかったなあ」
家族最後の団欒。幸せを歌っていた最後の日。
そう、最後の日。楽しい時間もそこまでだった。休暇渋滞に巻き込まれていた三人を悪夢が襲いかかった。
「私は寝ちゃって、その時のことはわからない。私が目を覚ましたのは病室だった」
いつきが意識を取り戻したのは大震災から数日後のこと。
一番に目に映ったのは頭に包帯を巻き、首から手を吊った母の涙を流しながらの笑顔だった。けれど、その時は耐え切れない鈍痛が胸を走り、泣き叫ぶだけしか出来なかった。
胸に金属片が刺さっていたらしい。幸いにも臓器には届かなかったものの、その傷の深さは致命傷になりかねないものだった。
今もいつきの胸にその傷あとが残っている。
「遠めからだと殆ど見えないけど、多分この傷は一生引き継いで行く」
何故自分の胸にそんなものが刺さっていたのか、どうしてこんなことになったのか。大人たちはいつきに教えはしなかったが、日に日にやつれていく母の表情と日夜病室の外から聞こえてくる人、人、人のすすり泣く絶望に子ども長柄にとてつもない大きな事故に巻き込まれたものだと悟った。
自分も重症だと言うのに母は毎日面会に着てくれた。
目を覚ますとそこにはいつも母の笑顔があった。それからは何をするとでもなく一緒にいてくれた。面会時間を過ぎてもいつきが駄々をこねて病室に泊まってくれた。けれど、母の怪我が治るにつれてごめんね、と断られてしまうことが多くなり、同じころから母の口数は減っていた。
「私が退院を目前にしてもお父さんは顔を出してくれなかった。お父さんはどこ? って、聞いても《母》は笑って仕事だから来れないんだって言っていた。だけど、やっぱり会いたくて何度も我侭を言って私はお父さんに会いたいってせがんだんだ」
その時の母はまるで我侭をどう諭したらいいかわからない、困ったように笑っていた。きっともうすぐ会えるから、と。それからそのことに触れるともうすぐ会える、もうすぐ会えるとそれ以外は口を閉ざしてしまう。
結局、退院の日にも父の姿を見ることはなかった。
二人で手を繋ぎながら帰り、でも、そこは我が家ではなく、部屋を切り取ったかのような小さな家……仮設住宅へと辿り着いた。
今日からここが我が家になると聞かされてまた駄々をこねた。けれども、何を言っても母は口を閉ざしてしまって、いつきはむくれながらにここに住むこととなった。
それからも、父は会いに来てくれなかった。
最初は嫌だったのに一日、二日、三日……一週間を過ぎた頃にはその生活に慣れていた。
その間は二人で半壊した小学校の校庭へと向かって配給物資をもらう日々が始まった。時には知らない大人たちがいがみ合い喧嘩を始めて遅れてしまうことや、配給が届かない日もあった。また、これはいつきが中学に入った後に耳にしたことだが、配給地に届く前に略奪が行われたこともあるらしい。ただ、耳にせずとも人々の荒れ模様は肌で感じ取り、半年は外に出ること自体に恐怖を感じていた。
そんな生活もどうにか落ち着きを取り戻したころに学校が再開されることになった。けれど、その学校は今まで通学していた学校とは別の場所で再開され、仲のよかった友達は皆散り散りになってしまった。
今でもその子たちがどこにいるのかは知らない。遠くへ行ってしまったのか、それとも本当に遠くへいってしまったのかもしれない。
その頃のいつきにそんなことがわかるはずもなく、ただ学校に行けることが嬉しく、新しい友達にも胸を弾ませ、徐々に慣れていった。
「そんなふうに私の生活が一通り落ち着くのと比例するかのように《母》の帰りは遅くなった。……働いてたみたい」
毎日朝早くから朝ごはんを用意し、いつきを起こしたら直ぐに出かけてしまう。晩ごはんは配給品から母に言われた通りに食べる。日々苦しい生活だったけど、母と一緒なら幸せだった。
父がいればもっとよかったが。
「でも、私は幼くてまだどこかでそれを甘く見ていたんだなって思う」
それから一年間の生活は日に日に過酷になっていった。
女二人で生きていくには母は文字通り身を削って働き続けていた。その分いつきはひとりになることが多かった。
母は変わったかのように働き、休日はほぼ一日中布団に包まって寝ている。
ある日、ふざけて母を起こしたら、今までに見たことがないような鬼の形相で怒られ、はじめて手を上げられた。
頬に走る痛み。叩いた後に母は正気を取り戻したかのようにいつきを抱き締めて精一杯に謝ってきてくれたが、呆然としながら母にはもう余裕がないことは知った。
また季節が巡った。
海外からの献身的な支援でニッポンはどうにか経ち直しを見せはじめていた。その頃、二人も住居を変えて前よりはいい部屋へと移ることになった。
何よりも嬉しかったのはごはんを毎日食べられるようになったことだった。いつきはまた新しい環境に馴染みながらも育っていった……。




