10
――ちょっとキーキどういうことよ!
受話器越しで轟くソフィーの金切り声はキーキの鼓膜に突き刺さる。少しばかり受話器を遠のかせた。
ソフィーが怒るのも無理はないだろう。こんな夜も深けた時間帯に服を貸して欲しいと言われたのだから。それも、下着を含めて、と。
少女を拾ったからと告げるのも忍ばれたからであるのだが、もっと言葉を足せばよかったと後悔するには遅すぎた。
――もしかして女装趣味に目覚めたの! あたしの服を貸してって、し、しかも下着までって……ハロウィンはまだまだ先の話よ! やっぱり女装癖なの! 現実と空想がごっちゃになってるのかしら! もう何考えてんのよ! ……も、もしかしてあたしの服を使ってイヤらしいことをするんじゃないでしょうね!
『何言ってんだよ! ちゃんと話を聞けって! も――、まったく……女の子を助けたんだよ。だから……』
キーキは簡潔に今までの出来事をソフィーに教えた。そして、鼓膜を守るためにすぐに受話器を離す。が、静寂。恐る恐る受話器を耳元に近づけると不意打ちとばかりにあっ! と一驚する声が聞こえた。
――もしかして、その子、いつきちゃんじゃない?
『……っう……知ってるのか?』
やっぱり! と嬉しそうにはしゃぐ声が聞こえてきた。
――わかったわ。今からそっちに向かう。ちょっと時間かかるかもしれないけど、変なことしちゃ駄目だからね。
「誰がするっ……か……」
すでに回線は切れていた後。むしゃくしゃと八つ当たりするかのようにキーキは受話器を元の位置に叩き付けた。
そのままソファーに寝転ぶ。
「なんでソフィーが知ってるんだよ……」
それはおよそ一時間前の話。
疲労した彼女から人ひとり分の間を取って座り海を眺める。二人の背後で、二つの月が砂浜を照らしていた。重なりあう青と白は振り向かなければ見えないが、それは海面に映り、揺れて浮かぶ。
先ほどまでずっと頭を伏せていた彼女も、今ではキーキと同じように揺れる月へと顔を向けていたが突如、いつきが息を吐きながら後ろへと倒れだした。
何かあったのだろうか。
キーキは慌てて近付き覗き込んだのだが、いつきは小さな悲鳴を上げながら両手でキーキの顔を押しのけた。
「痛っ、何すんだよ!」
「な、何って顔近づけてきたあなたが悪いんでしょ!」
「俺は別にいきなり倒れたから気を失ったのかと……」
本当かしら、なんて呟きながらいつきは顔を背けてしまった。
キーキはそんな彼女の態度に気を悪くしながらもまた月へと顔を向ける。
また訪れる無言。……居心地が悪い。
どうにかこの空気を変えたかったが、どう接していいかわからない。
何故ここにいるのか、どこから来たのか、一人だけなのか……他。
話の種は頭に浮かぶのに、考えすぎかもしれないが、今この場には合わないような気がした。
口を閉じているのは簡単だ。けれど、キーキは我慢ならず口を開くことを決めた。
「……あのな、さっきの訂正する」
「え、何を?」
「さっきの俺がニッポン人かどうかっての。あれ、俺は違うって答えたけど、本当はクォーターなんだ。俺のじいちゃんがニッポン人」
「そうなんだ。それにしてもニッポン人にしか見えないけど?」
見えない方がよかったよ、と呟く。
けれど、それはいつきには届かずに宙に消える。
自分で話を振っておいてまた口を閉じた。彼女は身体を起こして、キーキの横顔へと視線を送る。
……あえて気が付かない振りをした。
今の自分の表情は手に取るようにわかる。何かに苛付いているような悲しんでいるかのような複雑な表情。あまり話したくはなかったことだ。
なら、なぜ話したのだろうか。
それに未だに自分がここにいる理由。彼女を放っておけない? それもあるのだろう。けど、それだけではない。家に帰り辛いからか。
そうこうひとりで悩み考えていたのだが、それも前触れも無くいつきは立ち上がり、キーキの前へと立ったことで終わる。
一度、えへん、と咳払いを行い、
「私の名前はいつき。あなたは?」
そう自己紹介を求めた。
まだ出会ってばかりなのに、今までの彼女とは雰囲気が違うように感じられた。キーキは顔を上げて少女を見つめた。
息が止まりそうになった。
今までは気にする余裕がなかった為か、これが美しい少女であったことに今更気が付いたのだ。観光客が多く訪れるこの島でも多くの人を見てきたが、これまでの器量を持った子とは出会ったこともない。珍しい東洋のしかもニッポン人であることや自分の好みが完全に一致しただけではないか。けれど、それはないはず。
月の光が彼女を照らしていた。海水に濡れ光り輝く艶やかな黒い髪。水分を含んだ服が少女のまだ幼さなくも、主張を始めているなだらかな起伏に張り付き、うっすらと肌が透けて見えた。
幻想的であり、劣情を催させるかのよう。
月の光はその姿をさらに艶やかに映す。
自分の今の姿に少女は気が付いているのだろうか。
キーキだって年頃の男の子だ。
血が登り頬が熱くなるのを感じてそっと視線を落として答えた。
「俺はキ……ハジメだよ」
初対面であれば彼はキーキと名乗っている。なのに、何故かハジメと口にした。今はその名前を口にすることが正解だと思った。
「キハジメ?」
「……トツカ・キーキ・ハジメ。ハジメでいいよ」
「トツカにキーキとハジメ? 変わった名前ね。まあいいわ。そう、じゃあハジメ。あなたの家はここから近いの?」
「近いけど……それがどうかした?」
身体には目を向けないように少女へと顔を上げる。
いつきはにやりと笑っていた。
そして……、
今に至る。
「ねえ、ハジメー? これ着ればいいのー?」
浴室からいつきの声が飛んだ。
大声を出すなと言った矢先のこと。その掛け声にキーキは驚き、ソファーからずり落ちた。内心、悪態をつきながらもどうにか体勢を整え「そうだ」と一言返す。
壁に立掛けられた時計へと顔を向けると、日付が変わるにはまだ数刻ほど残っていた。しかし、出会ったときからいくらか時間が経ったからといって、少女の一人歩きには相応しくはない。ましてや、こんな夜遅くに家に呼ぶなんて持っての他……なのに、
お互いに濡れた身体で夜風に当たるのは身体に毒だから、ハジメの家に行こう。
そういつきが提案した。
気温は低いわけではないが、濡れたまま帰すことは躊躇われた。けれど、初対面の女の子を家に迎え入れるのはどうかと思い……ましてや、初対面の男の家に行くのもどうかと思うが……口にするが、いつきがくしゃみをして身を震わせたのを見ては止むを得まい。
そうして風呂に入らせている間にソフィーへと電話となったのだ。
「じいちゃんが寝ててよかった……」
祖父は厳格な人だった。
ニッポン人の気質なのかは知らないが、男女関係はきっぱりとしていろというのが祖父の心情らしい。昔からドラマや作り物の設定ですら、登場人物の男女間にだらしがなかったり、二股をかけてしまうような場面があると、くどくどと話しながら見ているのだ。そうした祖父の姿を見て育ったキーキだ。多少は寛大なものの同じような考え方が根付いていた。
だから、祖父にもしもこんな場面を見られたらと思うと……冷や汗が流れる。
これがもしもソフィーだったならば、祖父はあまり良い顔はしないが不問にするだろう。彼女とは子どもの頃からの付き合いがあるので一応キーキを含めて二人とも信頼されているようだ。それどこか孫娘のように可愛がっている節があるので、彼女については……もしかしたら、キーキの――としては良いなどと考えているのかもしれない。
いや、それはまた別の話だ。
そして、も、もしもあったとしてもそれこそトライアングル的な見えない糸が絡みつきそうで嫌だ。
話を戻す。
だから、もしもこんな場面を見られた場合、祖父はどんな行動を起こすか。想像出来そうで出来ない。
しかし、先ほどまで喧嘩をしていたのだ。
それを言い訳に反発したとか……家に入る前にふと頭に過ぎったその考えを、キーキは自分の両頬を手のひらで叩いていた。そんなことで誤魔化そうとした自分が許せなかったのだ。
ともかく、祖父に見つからないことに徹底しようと、慎重に鍵を開けてから家の灯が消されていることを確認して一息。できるだけ静かに、といつきに告げて風呂場に向かわせたのだ。
なのに……。
「ふう、やっぱりお風呂に浸かるのはいいわね。まあ、ホテルにはジャグジーがあったけど、あんなのお風呂じゃないわよ」
ほんのりと汗を浮かべていつきが姿を現した。サイズが合わないのかブカブカのシャツ一枚、そう一枚だけという姿に吹き出しそうになった。
「お、お前、下はどうしたんだよ!」
「熱くて着れそうにないわよ。ねえ、クーラーないの? もしくは扇風機とか。あ、あと冷たい飲み物が欲しい。出来るならお茶がいいわ。あ、ジュースは嫌よ。夜だからね。まあそうなるとお茶ね。冷たいお茶が欲しいわ」
さすがにこの態度にキーキは呆れ返った。むすっ、と頬を膨らませて返答する。
「うちはじっちゃんが嫌って冷房はない。空調機は天井を見ろ。……羽動いて無いだろ? この前寿命で壊れた。……お前、厚かましいやつだったんだな」
それを聞いて不満を漏らしながら、いつきは手で仰ぎつつソファーに座った。
胸元を開いては手で煽る仕草、シャツの裾から覘く足。組み交わされる足の付け根にふと目が行ってしまいそうに……。
キーキは頭を振って台所へと逃げた。
「ねえ、ここにひとりで住んでるの?」
「い、いや、俺とじいちゃんと母さんの三人。でも、今は母さんは外に出張中」
「お父さんは?」
「……五年前に蒸発した」
「ふーん、まあ色々あるからね」
――案外あっさりしてるんだな。
キーキはそんなことを思う。
食器棚からちょうどいいグラスを二つ取り出すと冷蔵庫から氷を両方に入れては麦茶をなみなみと注ぐ。そのままいつきの元へと戻ると、視線を合わせないようにして渡した。
いつきは一言感謝を告げてからグラスに口を付けて、半分まで一気に飲み干した。
「……はあっ! 麦茶! やっぱり風呂上りに麦茶は最高よね。うわあ、久しぶりだわ」
「お前、じいちゃんとおんなじこと言うのな。これが普通のニッポン人なのか?」
「さあ? でも、ニッポン人のほとんどは同じ感想を言うんじゃないかしら? 私はそう思ってるけどね」
いつきは残った半分を飲み干し、おかわりとキーキにグラスを渡した。
しぶしぶと受け取ってまた麦茶を注ぎに台所に向かおうとして玄関の扉が開く音が聞こえた。
『キーキ! おじゃまするわね!』
ソフィーの声だ。そんな大きな声で祖父が……いや、もういいやと諦める。
キーキはグラスをテーブルに置いてソフィーを迎えに出ようとする。
「……誰、家族の人?」
いつきは心配そうにキーキに尋ねた。
先ほどまで自分の家のようにくつろいでいた姿が嘘のようだ。妙に余所余所しくなる。
「友達。お前の服の代わり頼んだ」
そうキーキは伝えて玄関へ。
大きなカバンを片手にうきうきとした幼馴染の顔がそこにはあった。
『こんばんは、キーキ。いつきちゃんに変なことしてないわよね?』
『だから何もしてないって。今リビングにいるから早く服渡してやってくれよ』
『オッケーオッケー、あたしに任せなさい』
そう言うとソフィーはサンダルを乱暴に履き捨てて奥へと向かっていった。ふぅ、と息を吐き出してキーキはその場で肩をすかせた。
これで安心だろう。いろいろな意味で……。キーキも男の子なのだ。
だから、ソフィーが間に入ってくれることで抑止力として働いてくれることを祈りリビングへと戻ろうとしたのだが、
『ちょっとキーキ!』
ソフィーの罵声が飛んできた。
『なんだよ? なんもしてないって!』
そう、言葉を返しながらリビングへと駆けつけたのだが、そこにはソフィーがいつきを抱き締めてこちらを睨み付けていた。抱き閉められている本人は困惑しながらキーキとソフィーを交互に見比べている。
『してるじゃない! この嘘つき! 年頃の娘にシャツ一枚ってどういうことよ! あなた変態じゃないの! やっぱりあたしの服もそういうことに使おうとしたんでしょ! 最低っ!』
『だーかーらー違うって! それ俺のせいじゃないから! こいつが勝手にやったことだから!』
『嘘おっしゃい! あなた知っててこのシャツ一枚しか出さなかったんでしょ! わかるのよ、あなたの部屋に隠してる奴とかでね! そういうの好きそうよね!』
『なんで知ってんだよ! てか、勝手に漁るんじゃありません!』
いつきを間に挟んで二人は罵り合い始めた。した、してないの応対だったが、次第に昔行った悪戯についてもその話に加わっては彼を攻める。キーキも負けずと反論するが直ぐに別道にそらされ、さらに倍に倍にと押されてしまう。
口喧嘩でも分が悪いようだ。
ただ、そこで動いたのはいつきであった。最初は何か言い争っているくらいにしか認識していなかったいつきであったが、母国語ではない言葉の言い争いには我慢が切れたようだ。
「あー! もう、うるさーーい! 私にわかる言葉で話してよ!」
ソフィーの腕を払って、立ち上がろうとしたのだが。ふとしたはずみで足を滑らす。
「お!」
「え?」
『あ!』
いつきはそのまま体勢を崩して倒れそうに……なる直前でキーキに抱き止められた。
「はふっ!」
つんのめるかのようにキーキの胸元へと顔をぶつけながら抱き締めるような格好に。
「ぐひっ!」
キーキは胸……鳩尾と痛めている脇腹への衝撃で悲鳴を上げながらも反射的にいつきの身体に腕を回して。
……まるで傍から見たら抱き合っているかのようで。
「なんだもう……うるさいなあ。老人を労わってくれや」
と、リビングに現れたのは祖父。
三人は扉で半寝ぼけ状態の祖父の登場に顔を向けたままに硬直した。祖父は目の前の光景に目蓋をこすり眠気を払うのかのように頭を振る。
まず祖父は一つ目と首を動かした。
毎日キーキの面倒を見てくれている幼馴染のソフィー。目をかっ開いてこちらを見ている。異常なしとばかりに祖父は次へと視線を向けた。
次に間にいる『それ』から現実逃避するかのように目をくれずに彼女の前に立つ見知った顔を見つめた。毎日顔を合わせている孫のキーキ。顔は青褪めて口から嗚咽が漏れている。まあ、特に問題なしとばかりに目を閉じて頷いた。
そして最後に。……いや、実際には目に止めないようにしていたのだろう。キーキの胸に顔を埋めて抱き締められているいつきへと視線を向けた。
目に涙を溜め口元を手で押さえて――実は鼻をぶつけて押さえて――祖父を見ている。
「見知らぬ顔……いや、どこかで見たことがあるような?」
祖父はそう呟いていた。
けれど、その呟きすらも、再度少女の今の状況を見て祖父の脳裏に生まれた一瞬のドラマなぞ、キーキには分かるはずもない。
――幼馴染のソフィーちゃんと見知らぬ美少女にふたまたをかけた孫がどちらを取るかと迫られて結局ソフィーちゃんを取ると決めたがそれを拒んで美少女が我侭を言っている?
いやいや、と祖父は頭を振った後に、閉じた目頭を左手の親指と人差し指で揉んだ。
『おかしいのう。ソフィーちゃんや』
『は、はい!』
急に話を振られたソフィーは反射的に返事を返した。
『今、目の前に半裸のような姿の見知らぬ少女が半泣きでハジメと抱きあっているような気がするんじゃが……気のせいかの? 錯覚じゃよな?』
三人は答えずにただ祖父の目が開かれるその数秒を石のように固まったままとなった。
祖父はごほん、と咳払いをした。
その後、口を閉ざしたまま三人の横をすり抜けてテーブルにつき、一人急須を取り出しては茶の用意をする。湯飲みに注ぎ啜り始める。飲み終わったらまた注いで。
今が逃げ時とばかりに作り笑いを浮かべたソフィーは逃げるかのようにいつきの手を引いて部屋から出ていってしまった。
祖父を背に立ちつくし固まるキーキ。
「……なんじゃ、ハジメ。さっさとそこに座らんか」
その言葉に身体を震わせて恐る恐る後ろを振り向いた。
祖父は目を閉じながら音を立てて茶を啜る。その姿だけ見ればいつもの祖父だ。けれど、他人が家に上がっている時にはまず使わないニッポン語を使っている。こういう時は何かしらの感情を露にしているときだった。
キーキはゆっくりと祖父の対面側に座った。
無言で茶を勧められ、自分の湯飲みを取り出しては一杯注いでもらって口へ運ぶ。そのまま二人で茶を口に運ぶこと十数分。ようやく着替え終わったいつきの手を繋いでソフィーが戻ってきた。今度は身の丈にあったTシャツにホットパンツ。ソフィーは満足顔で姿を現したのだが、こちらの様子を見て口元を引き攣らせて笑う。
逆にいつきは目を回してふらふらになっていたが、どうにかこちらを見ても疲れた顔でそのままソフィーに付き添うままだ。
『ソフィーちゃん……そこの子も座ってくれ』
ソフィーは、はい……と返事をひとつ。キーキの隣に向かおうとしていたが、いつきにキーキの隣へと誘ってから祖父の隣に座った。二人が座ったのを見て祖父は新たに二人分のお茶を注いだ。ソフィーはどうにも祖父が入れるお茶が苦手で一口二口ちょびちょびと口を付けてテーブルに置く。いつきはふーふーと息を吹きかけて冷ましていた。
『それじゃあ、ちょっと説明してもらおうか。どうしてうちのハジメがそこのお譲ちゃんと抱き合ってたのとかのう?』
キーキは口に含んでいたお茶を噴き出し、ソフィーも動揺して湯飲みを落としそうになる。
祖父は二人の奇行に眉を多少歪ませる程度で、湯のみをテーブルへと置いたのだが、カタカタと湯飲みがテーブルとぶつかり音を放つ。
冷静に見えて動揺しているようだった。
仕方ない、とキーキは今までの緊張を崩すかのように溜め息を吐き出す。
そして、二人に今までの溺れていたところを助けたあたりから今に至るまで、何よりも祖父には先ほどまでの抱き合っていたについては丹念にソフィーと口を合わせて説明をした。
数分後。
『ふーん、そういうことだったんだ』
緊張が解れたのかソフィーは先ほどとは気の抜けた声を上げて頷いていた。
『つまり、事故だったと?』
祖父は茶を啜ってそう目の前に座る二人、キーキといつきに。そして、横に座るソフィーに尋ねた。
キーキとソフィーはコクコクと頷く。
祖父は険しい顔をしながらもどうにか納得はしてくれたよう。ほっと安心してキーキは隣へと顔を向けたが、その原因となったいつきの目蓋はしばしばと見開かれ船を漕いでいた。
そんないつきに祖父は一つ咳払いをして、
「じゃあ、お譲ちゃんはニッポンからきたのかね? 今のニッポンでよくもまあ来れたもんだな」
そう言語を変えて話を振った。
急に聞きなれた母国語で話を振られていつきはびくっと身体を震わせてから言う。
「あ、はい。私のわがままで来させてもらいました。丁度、女帝選出が休みに入っ……いえ、学校が休みになったので」
「……女帝?」
祖父はその言葉に顔をしかめた。
いつきはやってしまったとばかりに苦笑いをしながら訂正するが、祖父の耳には入らない。キーキはなんだろうと二人へと視線を動かし、言葉のわからないソフィーは三人を見比べるだけだ。
「そうか、道理で見たことがあると思った。まさか先ほどのニュースの直ぐにこれとは……タイムリーだな。まさか女帝候補とは、ふむ……」
祖父は険しい顔をして考え込み始めた。
キーキは女帝という言葉に頭の中で考えを走らせるも何も思いつかない。発端となったいつきへと顔を向けたのだが、彼女はまたも船を漕ぎ始め睡魔と闘っていた。仕方ないと思って祖父に顔を向けて訊こうととした時に、
『キーキ、おじいさん。一体何を話しているんですか?』
ソフィーの言葉で祖父は顔を上げてソフィーに、
『いや。なんでもないよ』
そう言った。
キーキも聞きたかったのだが、またの機会になりそうだと思って開けた口を閉じた。
「まあ、それにしても……家族が心配するだろう。早めに帰りなさい……ふむ?」
祖父はそういつきへと顔を向けたのだが、いつの間にかいつきは座りながら寝てしまっていた。
「どうしたものかのう」
祖父は頭を掻いて呟いた。
『ソフィーちゃんや、この子は何か持って無かったかの? パスポートやら宿泊所やらの案内とか、もしくは連絡先とか』
『はい、ポシェットを持っていましたが、中身は水着だけで……それ以外のものはありませんでしたね。財布もないみたい』
『仕方ない。今日は泊めるしかないか。なあ、ソフィーちゃん。今日はその子と一緒に泊まっていってくれんかのう。ハジメが良からぬことを仕出かすかもしれんしな。わしからもご家族の方には伝えておくから』
話の途中でキーキから怒声が飛ぶが祖父は知らぬ顔でソフィーに頭を下げた。
『あ、はあ……わかりました』
ソフィーは顔をほんのりと染めてそう答えた。
決まったようだ。キーキは見えないところで溜め息をつき、隣へと視線を向けて、
「のんきに寝やがって、たく……」
穏やかな寝顔に小突きたくなる。口を開けて寝ていると言うのにこの少女は相変わらずの華を持っている。なんとも複雑な心境だ。
ソフィーにじろじろと監視されながらいつきを背負い、客間へと運んでいく。この島では珍しい和室だ。和室は祖父の部屋とこの客間だけ。押入れから真新しい布団を二組取り出して並べていった。
敷いている最中、いつきの面倒を見ていたソフィーが、
『えへへ、ここで寝るなんて久しぶり。昔三人で一緒にお泊りしたね』
そう、笑みを浮かべて言う。
……昔のことだよ。
けれど、その言葉はキーキの心の内に仕舞い、
『そうだな』
顔を合わせずに答えた。
『それじゃあおやすみ』
『ああ』
そう返事を返して、キーキはその場を後にした。
自分の部屋へと戻ろうとして、廊下で祖父がソフィーの家へと電話していたようで、
『――ええ、はい、ご迷惑をおかけします。はい、はい。ええ。それでは夜遅くに失礼します』
ゆっくりと受話器を戻した。そして、もう一度受話器を取って別の場所に連絡をいれようとダイヤルを回す。
「どこに電話するの?」
キーキは祖父に尋ね、祖父は耳に受話器を当てながら話した。
「警察。……親御さんが心配してるかもしれん。せめて警察には伝えておかないと」
そこで、通話先と繋がり
『や……あ、夜分遅く失礼します』
と、言葉を繋いだ。
『今、女の子を保護していまして、はい。トツカです。……え、ポールくん? おお、久しぶり。うんうん……しかし、話には聞いてはいたが、警官かあ。昔はうちの息子と一緒に悪戯ばっかりしていたあの泣き虫坊主がなあ。……年寄りは昔話が好きなんじゃよ。はは、いやあ立派になったもんだ。……うん、いいんだ。元気にしてるよ。とにかく、まあそのなんだ。今は、ちょっと女の子を保護しててな。……うん、もしも連絡が合った場合はうちの住所を伝えてくれ。そう……』
邪魔をしてはいけないと思い、キーキは祖父に手を上げて階段を登ろうとした。
「ハジメ!」
そう、受話器を放してキーキを呼び止め、
「絶対にあの子に妙な気を起こしたりするなよ? いいか、絶対だ!」
そう、言った。
眉を吊り上げ、ぎょろりとした眼圧は祖父が本当に怒っているときだけにしか見せない表情。
キーキはたじろぎながら、
「ちょっとまてよ! 冗談にしてもそれは質が悪いぞ! じいちゃんどうしたんだよ?」
そう言われて祖父は表情を崩した。
「……そう、だな。ははっ、わしも混乱しているようだ。すまん」
そのまま祖父は受話器を耳に当てて会話を再開した。
何かよくわからないが腑に落ちない。
キーキはそのまま自室へと戻っていった。
海沿いに立つ一軒の家から明かりが全て消えた。
後には波のさざめきと動植物たちの声が微かに入れ混じるだけ。そんな寝息を立てる物静かなその島の端からずっと離れ、中心に向かったその場所は大違い。
夜でも活気のある島一番の繁華街。
色取り取りのネオンの光がその一帯を照らし暴れる。
光だけではなく音までもが狂うこの場所は、喧騒に包まれ酒に酔う大人たちの笑い声やら罵声やら。店内で漏れだした陽気な音楽は店同士でせめぎ合うかのように重なりぶつかり合う。
その道を通った観光客がその乱痴気騒ぎに顔をしかめるほどにその場所は騒々しい。
けれど、それがこの街の日常。雑音ですらも陽気に酒を進ませる促進剤。
そして、ここにもその街の熱にうなされている男女の三人がいた。
周りの店に負けないほどに派手なネオンをぶら下げた飲食店の端に陣取った三人のテーブルには空になった皿を含めて料理が転々と並び、同じく空になったジョッキやグラスがいくつも置かれていた。
「ううぇ……姐さん、もう飲めません……」
井上は顔を真っ青にしてトイレへと駆け込んだ。
「あっはははは! なに? もっと飲みなさいよ! まったく男が廃るよ!」
雪島はそう言ってジョッキに注がれた真っ黒いビールを飲み込んだ。それを見て田山が止めに入る。
「雪島さんちょっと飲みすぎじゃないですか? 明日の業務に支障が出ますよ?」
「無理! こんなに美味しい料理に酒が止まるかってーの! どうせ旅はまだまだあるんだから、一日くらいどうしたって大丈夫っしょ! いいわよいいわよ!」
そう言うと近くにいたウェイターを呼んで流暢な発音で新しいメニューを頼んでいく。
「何より経費で落ちるのよ! 流石にモノは無理だけど、こういった飲食物は許される! なら、食べて飲んではしゃぐしかないじゃない!」
がははは、と笑いつくす雪島。
「まあ、そうなんですけどね」
田山も苦笑しながら飲みかけのグラスを一気に喉に流し込んだ。
三人の宴はまだ終わりそうに無い。夜も更けていった。




