9
地図を頼りにしていたのは少し前まで。……一向に海へと着く様子は見られない。
なぜか。それも単にいつきが悪い。
林に囲まれた長い曲線道をひたすら歩くよりも一直線に行けば短縮出来ると思い込み、途中見つけた細道へと足を踏み込んだことが原因だった。自分が今いる場所は道ですらないような森林に囲まれて、どうしてこんな場所に来てしまったのだろうと後悔が重く圧し掛かる。
途中途中で聞こえてくる野鳥の声、風に揺れて聞こえる草木のざわめき。
暗闇の中に一人。
心細い。
道とも呼べない険しい獣道に足が悲鳴を上げている。酷く喉も渇く。
「どうしてこんなところに出ちゃったのよぉ……」
そんな愚痴も何度目だろうか。意味がないとわかっていても口から出てしまう。
休みたい。どこかで腰を落ちつけて休みたい。
それだけが今の彼女を動かしていた。
足元もよく見えず、それでも木々の間から漏れる微かに降り注ぐ月明かりだけが頼り。時には何が潜んでいるのかもわからない茂みを越えて……これも悪い……ただ目の前へとひたすら歩く。ただ前へ、ただ前へ。
そうして野草を踏みしめ足を運び、木々を越えたところにぽっかりと空いた空き地が見えたことは彼女の心を安堵させるのには十分なものであった。
中心にはコンクリートで出来た縦に長い長方形の大きな建物が建っていた。窓は側面ごとに二つあり、正面に思われるところに入り口が一つ付いている。
恐る恐ると建物に近付く。一応、確認とばかりに扉のノブに手を掛けるが錆付いて動きそうにもなかった。もう何年も使われていないのだろう。
そのまま入り口の段差に腰を下ろした。少し、休憩をしよう。
溜まった重りを解き放つかのように足を伸ばす。
不意に走る痛み。
頼りない月明かりを頼りに足元を見る。赤黒い何かが付着し垂れていた。
ぎょっとして指先で触れるとそれは痛みを与えた。
……自分の血だ。
無数の切り傷が爪先から足を覆う様にして血で染まっていたのだ。
「うわぁ……」
ここまで来る間に切ってしまったのだろう。今までなんとも思わなかったのに、気が付いたら気が付いたでひりひりとした痛みがじわりと広がっていくかのに感じてしまう。生暖かい風が傷口をくすぐる度に冷やり……。
触れないよう、ゆっくりと、膝を抱える。
そのまま顔を隠して息をはいた。
考える。
これからを。この後を。
どうしよう。
思うたびに胸は締め付けられる。何もしなければ良かったのだろうか。思うたびに身体の震えが一つ増える。
痛い。誰かの助けを求めていた。
「……っ……くっ……ひっくっ……ひっくっ……」
堪えていた嗚咽が喉元を通ったら。涙も一滴流れたと思ったら。締めることも出来なくて。
「雪島ぁ……井上ぇ……田山ぁ……雪島ぁぁ……」
唯一頼りにしていた三人組を呼ぶも、それも届かない。
「井上ぇぇ……田山ぁぁ……」
また、同じく繰り返す。何度も何度も。その名を呼び続ける。
「ひっくっ……たすけっ…………おかあ……っ!」
そこで、時間が、止まった。
嗚咽も忘れてしまうほど。
何故自分がその言葉を口にしようとしたのだろうか。
それはもう捨てたものだ。違う、捨てられたのだ。
弱音を吐こうとも女帝に選出されてからその言葉だけは一度もない。それに、捨てられたと知ったあの日から自ら口にしないと誓った言葉ではないか。
「…………ははっ、ははは……」
思わず微笑すると、熱くなっていたものが冷えていった。
恐怖心が完全に消えたわけではない。それよりも口にした言葉への後悔の方が大きかった。
息を、深く吸い込み、吐き出した。
「………………よしっ!」
いつきは目を閉じた。
気を静め集中することで数分前の慌てていた自分を捨てる。
冷静に。何か方法はないだろうか。そう考えて、今の自分の目的は何かを考え直す。
帰り道を探す。違う。
別に迷子になりにここに来たわけではない。
海だ。海に行こうとしたのだ。
もう近くまで来ているはず。なら、ただ見えていないだけで、そこにあるはずなのだ。暗闇で今自分以外に在るもの探す。
風の音……木々のざわめき。
鳥のさえずり、こう聞くとニッポンよりも独特だが、別に恐怖を感じるものでもない。
自分の心臓の音がやけに聞こえる気がする。ふと足を動かした時に砂利のかすれる音。
虫の鳴き声、スズムシでもいるのだろうか。
細波。砂を引く寄せては返すこの――あった!
さらに耳を澄まして、その音を、波の音を探る。
一つに絞った音。その音は意識すればするほど大きくなっていくのを感じた。
あっちだ、行こう。
いつきは立ち上がり音の方向へと歩き始めた。足の痛みは、ない。
波の音は目と鼻の先にあるのだ。その方向へと距離を縮めていくに従って、求めた音は大きくなる。
後少し、もう少し、そして、ほら。
前方を遮っている垂れ下がったヤシの葉を追いやると、そこには、
「……海だ!」
目の前に広がる光景はいつきが求めていたものであった。
背後より延びる二つの月の光に照らされて銀色に輝く砂浜。
飲み込まれそうな黒い海。
弛む水面には二つ微かに重なり並ぶ白と青の双子。月。
海面が模写した月すら輝きを持ち、いつきに光を放っていた。
「きれい……」
息が止まりそうになる。
砂を運ぶ心地良い小波の音。月の輪郭を歪めては二度と同じ形を映そうとはしない鏡海。空から眺めたあのエメラルドグリーンが嘘の様に暗青に染まった海。空と海との水平線は交わってしまって、どこまでが海か、どこまでが空か。絶景も一転すると畏怖とも呼べるか。
それすらも今のいつきは受け入れられる。
自然と砂を蹴った。
脚が地を踏む。一歩踏みしめるたびに足元からいつきの心を代弁するかのように歓声が返ってきた。鳴き砂だ。でも、彼女は気が付かない。目の前の目標に向かって走るだけだった。
いつきは波打ち際の前まで駆けだした。浜と波の手前でポシャットを放り投げ、サンダルも後ろに蹴り捨てる。月明かりによって作り出された自分の影でさらに黒くなってしまった海へと恐る恐る足を差し込む。
少し冷たい塩水が傷口を洗う。脳天を貫くかの様な痛みが襲ってくる。波が足元の砂を奪い去る。悲鳴を堪えているうちにも更にまた波は押し寄せてくる。
「ひゃあ……」
いつきは決心を決めてそのまま足を進めた。自分の足が水に消え、徐々に海に飲み込まれていく。
膝下まで足は消えた。腰を曲げて海へ手を下ろしていった。
手は足に触れ、傷口をそっとなぞる。痛く、冷たい。けれど心地良い。
両手一杯に水を掬って一度はそのまま海へと零す。たらたらたら……。
また掬ってはそれを思いっきり空に撒き上げた。
空に舞い上がった雫は月の光に当たって輝き散らす。一瞬の出来事なのに、視覚はそれを一時停止して記憶に感動として焼きつける。
また空へ、また空へ。
何度も振り上げた。
「……あはっ、あはははははっ!」
はしゃいで続けた。何度も何度でも。
その度に姿を変えていくその光の美しさに飽きはこない。まるで夢の中にいるよう。空には零れてしまいそうな数多の星々、海には光る波紋に形を変える白と青の双月。自分だけの宝石。全てが彼女を幻想に引き込んでしまったのか。
ただひたすら歓喜の声を上げることしか知らないように。
……けれど夢の時間は浅夢の様にあっさりと終わりを向かえる。
『おい!』
それが彼女の目覚めの音。聞き間違えだろうか。人の声が聞こえた。
「な、なに……?」
砂浜に黒い影が立っていた。
もぞもぞと上半身が動くも何をしているかはわからない。影はいつきに向かって叫んでいた。けれど、何を言葉にしているのか理解できず、
「……っ!」
口を閉じ身構えるくらいしか出来ない。
『こっちに戻れ! 途中で深くなってるんだよっ! 溺れるぞ!』
影は更に声を荒げていつきへと叫ぶ。けれど、何を言っているのかわからない。
ぐるぐると回る頭の中、冷静という言葉は薄れ次第に色濃くなる恐怖。いつきはその影から逃げるかのように後ろへと一歩後ずさる。
本当は後ろを向いて進みたかった。けれど、影からは目を離せない。
次第にその影は人の形をしていることがわかった。そこで悟ればいいものの、動転した今のいつきには恐怖を引き起こさせることにしかならない。
「……え、あ、え……なに? なんなの? ゆうれい? おばけ?」
精一杯の勇気で声を振り絞って聞いた。
そこで影は叫ぶのやめて間を一つ取った。
『……ニッポン語?』
影はそう少女に向かって尋ねた。
けれど、それはいつきには聞きなれない言葉。少しばかり頭が冴えていたら影の言っていることはわかっただろう。けれど、今の彼女の耳にはただの雑音でしかなく、恐怖を深めるものでしかなかった。影は反応がないことに足を一歩前へ出す。
それが悪かった。
「……こないで!」
拒絶する。自分で放った叫びにスイッチを入れてしまった。
逃げよう。けれど、逃げようとするも身体は言うことをきかない。
何故、どうして、動けっ、動きなさいっ!
そう念じるも身体は言うことを聞かない。声を上げたい。それも叶わなくて。
どうしたらいい。
どうしたらいいか。
前へ? いや、いやいやいやっ! ないないないっ!
身体が後ろを向いた。
意思とは別に身体が動いた。ただ逃げたかった。今まで身体が動かなかったことが嘘のように前へと足を上げていく。
海へ。影とは別の方向へ。
『おい! やめろ!』
また影が叫んだ。ただの恐怖でしかない。
「……っ! くっ、来るなっ、来るなあああ!」
声が出た。身体も動く。それが自分の理性とは別だとしても。つっかえが取れたかのように悲鳴を上げる。視界も狭くなった今の彼女はどちらが海でどちらが陸かもわからない。
だから、声とは別の方向、前を向いて足を海水に取られながら前へ……。
「……えっ!」
急に足場が消え去った。
それと同時に身体は傾き、水の中へと飲み込まれていった。
回転する。口の中に、鼻の中に、広がる、塩気と、痛み。
何が起こったかもわからずにただ水に翻弄されていく。踵が何かを蹴る。けれど地は掴めない。そのままあらぬ方向へと蹴るも何もない。何かを掴もうと手を伸ばす。ない。何もない。ばたつかせる。身体が上がらない。苦しい。何故自分が苦しいのかもわからない。呼吸をしようとして喉に伝わっていく海水。
「がぱぁっ! あっ! がっ!」
一度だけ顔が出せた。それでも、喉に絡みついた海水が呼吸をするの邪魔してしまう。そして、また海へ。
助けて。誰か。助けて。助けて!
ただ助けを求めた。
やだっ、苦しいっ! 助けてっ、助けてよっ!
求めた。この苦しみから助けて欲しいと。
その思いが届いたのだろうか。彼女はがむしゃらに動かしていた腕を掴まれ引き上げられた。そのまま反射的にその掴まれた方へとしがみ付こうとする。しかし、出来ない。無理やり背中を剃らされ、自分の意思とは関係なく身体を海面から引き出された。
「がっはっ! はっひぃ……ごほっ、ごはっ!」
呼吸が出来た。しかし、それに気付けない。両腕両足を動かして地面を求めた。
「痛っ、痛いっ! 暴れるな! 呼吸はできる!」
耳元で男の悲鳴のようなものが聞こえるが、それすらも気にせずただ空気を求めた。
次第に呼吸が出来る事を悟り、自分の身体を引き寄せた暖かいものに四肢を絡めて呼吸に専念した。
「ひぃっひぃっ! ……はあっ、はあっ……はぁっ……はぁぁぁ……」
「もう大丈夫だ。そう、呼吸を落ち着けろ」
未だに喉も鼻の奥も痛い。自分の意識も把握出来ないが、ただその声に言われるまま呼吸をに精神を集中させていた。
ゆっくり、ゆっくりとゆっくりと。ふと、頭を横に倒すと丁度いい位置に置き場があり、楽な姿勢で呼吸をする。
「大丈夫?」
耳元にそう聞こえてきた。溺れそうになった身体は虚脱感がしか残っておらず、
「大丈夫じゃ……ない……わよ……っ! ……死ぬかと……思ったわ……」
いつきは息を荒げて返した。
「そう、じゃあ、まだこのまま?」
「……え……なに……」
その声に自分の状況を確認する。
どうやら誰かの肩に頭を乗せているようだ。でも、まだそれも気にならない。そのまま顔を上げる。
目の前に男の顔が映った。
少し近付けば鼻と鼻が触れるかというような近くで。
「えっ、えっ!」
やっと事態に気づく。いつきは周りを見渡した。
自分の身体と男の身体との今の状況。足を男の腰へと回して、両手は包み込むように男の背にしがみ付いている。男は空いている両の手はいつきが落ちないように彼女の腰と足へと置かれていた。
なんでこんな格好に!
「あわ、あわわわわ……」
「泡?」
顔が熱くなる。男のそんな言葉にも耳には届かない。
「ちょ、ちょっと何でこんな格好なのよ!」
「あ、暴れるなって! 今下ろす、下ろすから!」
いつきは男が手を離す前に自ら突き飛ばし……蹴り飛ばして自分から離れていった。
「あぎゃあっ! いいっ! いってええ……」
悲鳴を上げて男はしゃがんで蹲った。脇腹を押さえているようで、海面へと顔を突っ込みごぼごぼと泡を吹きだした。けれど、いつきもそんなことは気にしていられない。未だに荒い息を整えようと両手をついて呼吸をしている。
「……す、少しは手加減しろよっ!」
顔を上げて男は喚いた。
「あ、あんたが変な格好でも抱き……持ち上げているのが悪いのよっ! このヘンタイ!」
「へ、へんたい……!」
男はぷるぷると肩を震わせて、起き上がっていつきを睨み付けて、
「それが命の恩人に対しての言葉か! まずはお礼の一つも言ってみたらどうなんだ!」
「何よっ、誰も助けてくれなんて頼んでないわよっ! ばぁぁっかっ! ヘンタイのくせに! この私を誰だと思ってるの! だいたい命の恩人ってなに言って…………え?」
つい売り言葉に買い言葉と、先ほどの恐怖をぶつけるかのように口を開いてしまった。けれど、自分で口にしてやっとこのずぶ濡れな状況を。先ほどまでの海に揉まれていたことを。そして、目の前の男が自分を助けてくれたことを知って、
「いい加減に……」
「ごめんなさいっ!」
男の罵声を遮っていつきは頭を下げて男に謝罪した。
「ごめんなさい。その、混乱してそれであんな格好だったから気が動転して、それで……えっと、ニッポン人?」
もう一つ、今更になって気が付いた。
ネグル島に着いてから付人の三人以外では初めて聞く母国の言葉にいつきは瞬きを繰り返してその男を見つめた。
「……いや、ニッポン人じゃないよ」
男は苦い顔をしてそう答えると、しゃがんでいる少女へと手を差し伸べて立ち上がらせた。今までは影になって気が付かなかったが、今のいつきの位置からだと男の顔は月光に照らされはっきりと見える。
自分と同じくらいの年齢だろうか。中性的で、それでもやや大人びた顔立ち。海水に濡れた茶色の髪。そして、黒い瞳。
同じ東洋の……ニッポン人にしか見えない。
けれど、それを男は否定したのだ。それ以上は今は聞くこともでもなかったし、何も言えなかった。
二人は言葉もなく砂浜まで進んで腰を下ろした。
ゆっくりとまた海を見つめていつきは、
「その、ありがと……」
そう口にした。
「え、ああ……」
男はただそう答えるだけしか出来なかった。




