不思議な水族館 思い出は泡の中
学校の授業で使おうと思って書いたんですけど使わなかったので供養します
気泡の音だけがこの非現実的な空間の輪郭を作り出していた。
ここでしか聞くことのない音。
胸の高まりを感じ、息を呑むような、人間をちっぽけだと感じさせてくれる存在。
ここにいるときに感じる独特の浮遊感が大好きだった。
閉館間際の水族館は、すべてが水の底に沈んでしまったように静かだった。
消えかけの非常灯だけが淡い青色の世界の唯一の色かのように感じられる。
どうやら僕以外の人間はここにいないようだ。
水は青く、深く、暗い。
僕はふらりとその水槽に近づいていってしまう。
その中に、もっと闇い、見ているだけで吸い込まれてしまいそうな――
魚なのかは分からない。
呼吸のために蠢くひれがそれの生を実感させる。
「……久しぶり」
——返事なんてあるはずがなかった。
僕は、この心にポッカリと空いた穴を満たすかのように水槽に手を伸ばす。
冷たい。
でも、なんだか体の芯から温まるような不思議な感覚がした。
その生き物は進路を変え、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
偶然かもしれない、それでも――
「久しぶり!!」
そんなわけない。
それでも返事が帰ってきたかのような気がした。
「覚えてるわけ、ないよな」
僕の底から溢れ出したため息が、ガラスを曇らせる。
昔――まだこの水族館が昼間の喧騒に満ちていた頃のことだった。
この水槽の前には、いつも二人で立っていた。
「ねえ、この子、いつも一人だよね。」
君はこれのいる水槽の前で僕に呟いた。
「なんで一人ぼっちなんだろ、なんだか寂しそうだね。」
「この子はね、悪いことをしたから一人ぼっちなんだよ。」
「そんなの可哀想だよ!!」
「可哀想かなあ。」
僕にとって君の気持ちはどうしても理解しがたかった。
「けど私はこの子にとってはそれが幸せなのかもしれないなって思う。」
薄れかけてきた記憶の中の君。
その声も、言葉も、捻り出そうとしてももはや完全には思い出せない。
記憶はモヤを纏い、どんどん色褪せていく。
それでもこの水槽の中の何かだけはずっと色褪せなかった。
君とまた会いたい、その一心で僕は縋るようにここに来るしかなかった。
僕は、もう一度ガラスに手を押し当てる。
「なあ」
声は小さく、水に溶けることもなく、ただ空気に消える。
「最後にここ来た時のこと、覚えてるか?」
当然、答えはない。
けれど、その生き物は、ちょうど手のひらの向こう側で止まった。
ガラス一枚を挟んで、視線が重なる。
黒い瞳が、じっとこちらを見ている。
その瞬間、セピア色だった思い出に色が溢れ出す。
あの日も、閉館間際だった。
人がほとんどいない水族館で、君はこの水槽をずっと見ていた。
「もしさ、」
「もしも、私がいなくなっても、この世界は何も変わらないんだろうね。」
冗談めかして笑った横顔が、やけに静かで。
「そんなわけないだろ」
そう言い返したはずなのに。
彼女は僕をおいて走り去った。
そして――
それが、最後だった。
何年経とうと塞がらない傷。それはもう二度と埋めることができないと僕は知っていた、知っていたはずだった。
「……変わってるよっ!!!!!!!」
つい大きな声が出てしまう。
「僕が変わった。」
指先が、わずかに震える。
「ここに来るたび、思い出すんだ。あの日のことも、君の言葉も!!」
溢れ出した思いが止まることはなかった。
水の中の生き物は、ただそこにいる。
それは何も語らなかった。
それでも今のこれはとても幸せそうだった。
今なら彼女の言いたかったことが分かる。
これは、この水槽以外の何からも縛られることはなかった。
これこそが真の自由なのかもしれない、そう思ってしまった。
「君の選択は間違っていなかったのかもしれないな。」
閉館時間は刻一刻と近づいてきている。
それでも僕はここから動くつもりはなかった。
19時59分20秒。
もう閉館までに水族館から出ることはできない。
「僕は最初からこの結末を望んでいたのかもしれないね。」
19時59分30秒。
「君と過ごせるのもあと30秒か、そう考えるとさみしいね。」
僕はいつまでも君がここにいるって信じたくなかった、信じられなかった。それでも今ならその事実を受け入れることができた。
59分40秒。
君は返事をできない。僕もこれ以上何かを話すつもりはなかった。
何も話さなくてもこの時間はとても心地よかった。
59分50秒。
「ありがとう、僕は君になる。」
これから一生一人ぼっちだ、別の誰かが来るまで。それでも最後に君の気持ちを理解することができて良かった。
「5、4、3、2、1、0。」
水族館には人は一人たりともいない。
それは今までよりずっと幸せそうに泳ぎ続けていた。




