第七十二話:(幕間劇)最初の一日 (The First Day)
今回から第二部までの3話は、前日譚、後日譚です。
【免責事項】
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・事件などは風刺を目的として創作されたものであり実在のものとは一切関係ありません。
-----------
あれは、十数年前の春のことだった。桜の花びらがアスファルトの熱で乾いて張り付いていた四月の一日。俺、佐藤拓也は、その日、社会人になった。
配属されたのは巨大な総合商社の花形部署、営業第一部。フロアは活気と電話のコール音、そしてかすかなストレスの匂いに満ちていた。「君が佐藤君か。よろしくな」。人の良さそうな課長が俺を席に案内してくれた。(……ここなら、やっていけるかもしれない)俺は安堵のため息をついた。
ただ一つ、一番奥の角にあるガラス張りの部長室だけが、ブラインドを固く閉ざし、異様な雰囲気を放っていた。先輩が声を潜めて言った。
「あの部屋にだけは近づくな。あの人は、『鬼』だ」
その時だった。フロアの内線電話がけたたましく鳴り響いた。電話に出た課長の顔がみるみるうちに青ざめていく。
「……な、なんだと……!?」
「……最重要クライアントの『大門重工』が……契約を全面破棄!? 理由? ……『御社のやり方は、非効率で、古臭すぎる』……?」
フロアが凍りついた。会社の根幹を揺るがす絶望的な知らせだ。課長は「どうすれば……競合の『双菱商事』は、新技術の提案と、かなりの値引きをしたらしい……」とうろたえるだけだった。
そのパニックの中、静かに部長室のドアが開いた。「伝説の営業部長」が姿を現した。彼は、青ざめる課長を一瞥すると、怒鳴りも慌てもせず、こう言った。
「……全員、会議室だ。今すぐにだ」
営業第一部の全員、二十数名が、重い空気の中、大会議室に集められた。部長はホワイトボードの前に仁王立ちになると言った。
「状況は、聞いた。競合(双菱)は、小賢しい『データ』で、社長の目を、眩ませた。……結構だ。ならば、我々は、『人間』で、勝負するまでだ」
彼はマーカーを手に取ると、二つのチーム名を書き出した。『情報班』と『誠意班』だ。
「課長と、ベテラン勢は、『情報班』だ!」部長は命じた。「3時間以内だ。大門重工の、社長、副社長、専務、常務の、その家族、愛人、行きつけの、スナックのママに至るまで。彼らの、あらゆる情報を、洗い出せ。もちろん趣味、持病、出身校、大学の先輩、後輩、派閥、競合(双菱)の、担当者と、いつ、どこで、何をしたのか。手段は、問わん。『根性』で、集めろ!」
課長たちは顔面蒼白になりながらも、「は、はい!」と部屋を飛び出していった。それはもはや市場調査ではなかった。諜報活動、あるいは恐喝の準備だった。
そして部長は、俺たち新入社員と若手ばかりの「誠意班」に向き直った。
「……そして、お前たち。お前たちは、俺と一緒に来てもらう。……大門重工に我々の、『誠意』を見せに行くぞ」
---
【同日・大門重工 本社ビル前】
俺は、何が何だか分からなかった。なぜ俺は、真昼間の大企業のエントランス前で、他の若手社員たちと横一列に並ばされ、大声で覚えさせられたばかりの大門重工の社歌を歌わされているんだ……?
「声が、小さい!」部長が先頭で誰よりも大声で叫ぶ。「我々の『情熱』と『誠意』を見せてやれ!」
通行人たちがジロジロと見ている。あまりにバカバカしく、あまりに恥ずかしい。しかし俺たちは歌い続けた。
やがてビルの自動ドアが開き、大門重工の社長が鬼のような形相で現れた。
「……いい加減にしろ、部長! 君は、何という、時代錯誤な、真似を、しているんだ! これこそが、君の、会社が、『古臭い』と、言われる所以だぞ! 帰れ!」
その場の空気は絶望に包まれた。もう終わりだ。
だが部長は動じなかった。彼は汗だくの顔を上げると、社長に深々と頭を下げた。
「……社長。我々の、熱意だけは、ご理解、いただけたかと、存じます」
そして彼は凄い笑顔で、こう付け加えた。
「……それでは今夜7時。いつもの銀座の『松葉』で、お待ちしております。……社長の、お好きな、『魔王』の、プレミアボトルが一本手に入りましてね」
激怒している社長が「行くわけがないだろう!」と答える。すると振り返った部長が、俺たちに向かって言った。
「おい、お前ら。誠意が足りんぞ!歌え!!」
俺たちは言われた通り歌う。精一杯大きな声で。「富士のように、そびえ立つ、我らが大門じゅぅこー♪」みんな喉から血が出ていたが、俺たちは歌った。それしか考えられなかったのだ。
その様子に社長が慌てる。その頃には野次馬が群がってきていた。
「分かった!話だけは聞いてやる!だから今すぐ帰ってくれ!」
「ありがとうございます!最高の席をご用意させていただきます!」
部長が間髪を入れずそう言うと、俺たちに命じた。
「よし、ぼやぼやするな、撤収だ!貴様ら全員 会社に戻って、『反省文』を、書け!」
---
【同日夜・銀座 高級料亭『松葉』】
俺は座敷の隅で、カセットデッキの再生ボタンを押す係を命じられていた。(なぜ接待に、新入社員の俺が……!?)
個室の上座には渋々やってきた大門重工の社長、その隣には部長に無理やり連れてこられた(おそらく、弱みを握られている)副社長と専務。
部長は上機嫌で酒を注ぎながら、『情報班』が集めてきた「ネタ」を披露し始めた。
「……いやあ、社長。お孫さんが、最近『パリキュア』に、ハマっておられる、とか。……素晴らしい漫画ですな。私も感動いたしました」
「……な、何!?」社長の顔色が変わる。
そう言いながら部長は、部下に買ってこさせたフィギュアを見せる。
「弊社の部下に、このメーカーに知り合いがいまして。こちらはまだ未発売の人形なのですが、社長のお孫さんの話をしましたら、特別にと」
「えっ、あぉ……これは、しかし……」
「いえ、ご迷惑をおかけしたお詫びのしるしで。もちろん私もこれでどうにかなることとは、まぁったく!思っていませんが、せめて社長の可愛いお孫さんの喜ぶ顔を見るお手伝いをしたい!それだけで」
「あ、ぁあそうですか……。これは申し訳ない」
それまで厳しい顔をしていた社長の顔が、孫の笑顔を思い浮かべたのだろう、グッと怒りのボルテージが下がるのが分かった。
「それから、副社長。お嬢様の結婚相手をお探しだとか。こちら、私が、懇意にしている、『双菱商事』の、若手の、ホープの履歴書です。……どうぞ、お納めください」
「……ええっ!?」副社長が絶句した。(……っか競合の社員の履歴書を勝手に持ってくるなよ!)
「専務には、こちらを。大ファン……虎党でいらっしゃいますよね?」彼が取り出したのは、阪神タイガースの伝説の名選手のサイン入りバットだった。
「ぉおお!これはっ、……いいのかね?」
「もちろんです!こういう物は、持つべき人に持ってもらってこそです!専務以外の誰が持つのか……、誰もありぃえぇないっ! 専務こそ選ばれし者!伝説の四番バッターです!」(俺はもう、あんたがが何を言ってるんだか分かんねぇよ!)
それはもはや接待ではなかった。完璧にリサーチされた情報戦。相手の『人間的な、弱み』に的確に付け入る必勝の攻略法だった。仕上げに部長は、『情報班』が突き止めた、双菱の見積もりの、「5年後に、3倍になる(かもしれない)、ランニングコスト」のデータを叩きつけた。
数時間後。大門重工の社長は上機嫌で「魔王」を飲み干し、部長と肩を組んで、俺が頭上で抱えたラジカセで再生した北島三郎の『まつり』を大声で歌っていた。
「……負けたよ、部長! 君は、悪魔だ! 契約は、もちろん、君の会社と、倍で結び直そうじゃないか!」
---
深夜3時。会社に戻るタクシーの中。部長は上機嫌だった。だが課長(情報班)と俺(誠意班)は完全に疲弊しきっていた。精神がすり潰される地獄のような一日だった。
部長はそんな俺に向かって言った。
「……見たか、佐藤。ビジネスというのはな、小手先の理屈や数字でやるんじゃない。『情』と『根性』いや『ど根性』、そして『情報』で、相手の心を掴み取るものだ。……魂に刻んでおけ」
俺はそのセリフを虚ろな意識のなかで聞いていた。
それでも分かった。この男は怪物だ。人間の感情をビジネスの駒として完璧に支配することを餌にしている、怪物なのだと。
この日から俺のサラリーマン人生の目標はただ一つになった。
「絶対にこの男を敵に回さないように生きる」
それが俺の長く、そして地味なサラリーマン人生の本当の始まりの日だった。
ありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマーク・評価などいただけますと幸いです。
最新話は明日の11時10分更新予定です。




