第六十一話:平穏の対価 (The Price of Peace)
【免責事項】
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・事件などは、風刺を目的として創作されたものであり、実在のものとは一切関係ありません。
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そのニュース速報は、俺がオーバル・オフィスで、アシュリーが手配してくれた最新号の「週刊島耕作」を読んでいる、まさにその時に、飛び込んできた。
『――緊急速報です。ロシア国防省は、先ほど、ウクライナとの国境付近で、大規模な軍事演習を開始したと発表しました。集結している兵力は、10万人にのぼると見られ……』
CNNの、緊迫した声のアナウンサーが、何かを言っている。
だが、俺の耳には、もう、何も入ってこない。
ウクライナ。10万人。軍事演習。
「……閣下」
ハリソン首席補佐官が、血の気の引いた顔で、俺の前に立っていた。
「クレムリンより、緊急のホットラインです。ウラジーミルという名の男が、あなたと、直接、話をしたい、と」
「……繋いでくれ」
俺は、かろうじて、そう答えた。
『……やあ、ミスター・プレジデント』
受話器の向こうから、聞こえてきたのは、凍てつくような、静かで、しかし、底知れない圧力を感じさせる、男の声だった。
『君の、ホワイトハウスでは、最近、書類仕事が、流行っていると聞いた。忙しいところ、すまんな』
「……何の、つもりだ」
『何のことはない。ただの、『根回し(ねまわし)』だよ』
男は、完璧な日本語で、そう言った。
『君が、中東で見せた、あの、素晴らしい日本の外交術を、私も、少し、学んでみたのだ。……重要な交渉の前には、まず、力を見せつけ、相手の出方を見る。違うかね?』
「……何が、望みだ」
『簡単なことだ』男は、言った。『我々は、ウクライナの、非軍事化を、求める。それが、実現するまで、我々の『演習』は、終わらん。……さて、ミスター・プレジデント。君は、どう動く? また、得意の、『お辞儀』でも、するかね?』
電話が、切れた。
オーバル・オフィスは、死のような、静寂に包まれた。
「……くそっ!」
ミリー議長が、壁を殴りつけた。「奴ら、我々の、稟議システムを、完全に見透かしている! 我々が、国内のハンコ回覧に手間取っている間に、事を起こすつもりだ!」
「閣下、ご決断を!」ハリソンが、叫ぶ。「ウクライナへ、即時、軍事支援を! NATO(北大西洋条約機構)の、緊急会議を、招集するべきです!」
だが、俺は、動けなかった。
軍事支援? NATO会議?
そんなことをすれば、稟議書は、一体、何枚、必要になるんだ?
関係部署は? 承認ルートは?
今から稟議を回覧したら、承認が下りる頃には、ウクライナという国は、もう、地上から、消えているかもしれない。
俺が、このホワイトハウスに、持ち込んでしまった、「完璧な官僚主義」。
それは、平時には、組織の暴走を防ぐ、理想的なシステムだった。
だが、危機の前では、あまりに、無力だった。
意思決定の、スピードが、遅すぎる。
俺の、理想の「何もしない」サラリーマンライフは、敵にとっては、絶好の、攻撃の機会でしかなかったのだ。
「……司書君」
俺は、オーバル・オフィスの隅で、静かに、紅茶を飲んでいた、新しい経営企画室長に、尋ねた。
「……君なら、どうする?」
「司書」は、カップを置くと、静かに、答えた。
その目は、冷徹なコンサルタントの目だった。
「……簡単なことです、ミスター・プレジデント。今回の問題の、ボトルネック(障害)は、ただ一つ。『稟議システムによる、意思決定の、遅延』です」
彼女は、立ち上がると、俺の前に進み出た。
「ならば、その、ボトルネックを、解消すればいい」
彼女は、俺の、レゾリュート・デスクの上に、一枚の、まっさらな、稟議書を置いた。
そして、俺に、ペンを、差し出した。
「……ここに、サインを」
「……これは、何だ?」
「『大統領への、全権委任状』です」
彼女は、静かに、しかし、はっきりと、言った。
「私が、あなたに代わり、全ての、意思決定を、行います。軍の指揮権、外交交渉権、そして……」
彼女は、俺の目を、まっすぐに見つめた。
「……必要とあらば、『フットボール』の使用権も、含めて」
「あなたにしていただくことは、ただ一つ」
彼女は、微笑んだ。
「この、一枚の紙に、あなたの、『承認のハンコ(サイン)』を、いただくだけです」
俺は、震える手で、ペンを、受け取った。
これが、彼女の、本当の、狙いだったのか。
俺を、完璧な「お飾り」にし、この国を、完全に、掌握する。
だが、俺に、選択肢は、あるのか?
俺の、平和ボケした、サラリーマンの頭では、もう、この、世界規模の、危機を、乗り切ることは、できない。
俺は、ペンを、握りしめた。
そして、震える字で、その、白紙の委任状に、自分の名前を、書こうとした。
ロナルド・J・ドランプ。
その瞬間、オーバル・オフィスの扉が、勢いよく、開かれた。
そこに立っていたのは、執事の、ジェームズだった。
彼の、いつもは穏やかな顔は、珍しく、厳しい光を、宿していた。
「……おやめください、閣下」
彼は、静かに、言った。
「その書類に、サインをしては、いけません」
「……何故だ、ジェームズ君」
「その椅子は」ジェームズは、俺が座る、レゾリュート・デスクを指さした。「誰かに、権力を『委任』するための、椅子では、ありません。……たとえ、どんなに、重くとも」
彼は、俺の前に進み出ると、一枚の、古い、羊皮紙の巻物を、机の上に、広げた。
「……最後の手段を、使う時が、来たようです。ミスター・プレジデント」
「これは……?」
「アメリカ合衆国、建国の父たちが、未来の、最悪の危機のために、遺した……最後の、稟議書です」
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最新話は明日の7時10分更新予定です。




