第四十話:悪手と残業 (Bad Moves and Overtime)
【免責事項】
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・事件などは、風刺を目的として創作されたものであり、実在のものとは一切関係ありません。
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PEOCは、異様な静寂に包まれていた。
それは、世界で最も緊張感のある、ネットカフェのようになっていた。
部屋の中央では、天才ハッカーのレオが、ふんぞり返って椅子に座り、コーヒーを啜っている。メインスクリーンには、チェス盤と、『Sorry, AFK. (ごめん、離席中)』という、ふざけたメッセージが表示されたままだ。
【20:00】
タイムズスクエアの爆弾騒ぎから、40分が経過していた。
PEOCには、FBIとニューヨーク市警による、ホットドッグ屋台の残骸の、鑑識結果が届き始めていた。
「……爆弾の起爆装置から、微量のDNAを検出!」
「使用されたプラスチック爆薬は、東欧製。ごく最近、製造されたものと見られます!」
情報が、次々と集まってくる。
だが、そのどれもが、敵「ライブラリアン」の正体に繋がる、決定的な手がかりではなかった。
『……いいだろう』
突然、PEOCのスピーカーから、ライブラリアンの、怒りを押し殺した声が響いた。
『君の雇った『子供』が、ゲームのルールを理解できないというのなら、こちらから、少し、ルールを教えてやる』
次の瞬間、スクリーン上のチェス盤が、動いた。
白のビショップが、c4へ。
白のクイーンが、h5へ。
二つの駒が、ほとんど同時に、黒のキングを守る、最も脆弱な一点……f7のポーンに、襲いかかった。
「……なっ!」
ミリー議長が、声を上げた。「これは……!『学者殺し(スコラーズ・メイト)』! チェス初心者を、わずか4手でハメる、最も屈辱的な、奇襲戦法……!」
『ゲームは、遊びではないのだよ、ミスター・プレジデント』
ライブラリアンは、冷たく、言い放った。
『次の手で、君のキングは、死ぬ。チェックメイトだ』
PEOCが、凍りついた。
たった、4手。
我々は、人類の運命を賭けたゲームで、子供騙しのような、初歩的なハメ手に、かかってしまったのだ。
全員の視線が、レオに突き刺さる。
俺は、心臓が縮み上がるのを感じた。
(まずい……!外注先が、とんでもないミスをやらかした……!どうする、このプロジェクト、もう終わりだ……!)
だが、レオは、慌てていなかった。
彼は、ゆっくりと、立ち上がると、スクリーンに映し出された、絶望的な盤面を、値踏みするように、眺めた。
そして、一言、呟いた。
「……なるほどな。悪手だ」
「悪手、だと?」ミリーが、聞き返した。「レオ君、我々は、負けるんだぞ!」
「ああ、負けるさ」レオは、平然と、言った。「このゲームはな」
彼は、こちらを振り返ると、まるで出来の悪い生徒に教えるように、説明を始めた。
「いいか、じいさんたち。チェスってのは、二手、三手先を読むゲームだ。こいつは、俺を挑発して、焦らせて、この盤面に、俺の意識を集中させようとした。だが、そのせいで、奴は、致命的なミスを犯した」
「ミス?」
「そうだ」レオは、PEOCの壁に並んだ、別のモニターを指さした。そこには、世界中の通信を傍受している、NSAの監視データが、滝のように流れていた。「こいつが、俺にメッセージを送ってきた、まさにその瞬間。奴のシステムに、ほんの一瞬だけ、負荷がかかった。そのせいで、普段は完璧に隠蔽されている、奴のサーバーの防御壁に、髪の毛一本ほどの、小さな亀裂が、入ったんだよ」
レオの目が、初めて、狩人のように、ギラリと光った。
「奴は、この盤上のゲームに勝ったつもりでいる。だが、その代償に、奴は、俺に、自分の『住所』のヒントを、くれてしまった。……どっちが、本当の『悪手』だったか。すぐに、教えてやるさ」
彼は、そう言うと、隣のオペレーターの席に座り、キーボードを、ひったくった。
そして、常人には、もはや視認不可能な速度で、コードを打ち込み始めた。
「……アシュリー」
俺は、静かに、指示を出した。
「……彼に、コーヒーを。今度は、一番濃いやつをな。それから、ドーナツも、箱で」
こうして、PEOCの片隅で、もう一つの、静かな戦争が始まった。
盤上のゲームは、終わった。
だが、盤外の、本当の戦いは、今、始まったばかりだった。
俺は、キーボードを叩くレオの背中を見ながら、思った。
(……よし。炎上したプロジェクトの、リカバリープランが動き出したな。今夜は、徹夜だ。残業、確定だ……)
サラリーマンの、長い夜は、まだ、明ける気配がなかった。
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最新話は本日の11時10分更新予定です。




