第四話:ハンコと最終責任者
【免責事項】
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・事件などは、風刺を目的として創作されたものであり、実在のものとは一切関係ありません。
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翌朝。俺、佐藤拓也は、人生で最も豪華で、そして最も絶望的な執務室にいた。
円形の壁、星条旗、そして、あの有名な「レゾリュート・デスク」。そう、ここはホワイトハウスのオーバル・オフィス、大統領執務室だ。昨日、シークレットサービスに半ば引きずられるようにして連れてこられた俺は、メロディア夫人(めちゃくちゃ美人だったが、一言も話す気になれなかった)との気まずい夕食を終え、悪夢にうなされながら夜を明かした。
そして今、俺の目の前には、昨日の「宿題」が山と積まれていた。
「……これが、A4一枚のまとめかね?」
俺の呟きに、新しく紹介されたらしい、いかにも切れ者といった風情の若い女性補佐官――アシュリーとか言ったか――が、完璧な笑顔で答えた。
「はい、閣下。ご指示通り、各省庁が昨夜徹夜で作成した『イラン情勢に関するエグゼクティブ・サマリー』です」
嘘だろ。
俺の目の前にあるのは、電話帳のように分厚いバインダーの山だ。CIA作成のものは表紙に「TOP SECRET」と赤いスタンプが押してあるし、国防総省のものは専門用語の略語だらけで、もはや暗号にしか見えない。日本の会社なら「要点が一目で分からない報告書はゴミだ!」と課長がブチ切れるレベルだ。
「違う、そうじゃない」俺は頭を抱えた。「俺が言ったのは、もっとこう……A3の紙にパワーポイントを印刷したような、ビジュアル重視のやつだ。問題点、原因、対策、今後のスケジュールを箇条書きにして、担当者の名前も入れて……」
「担当者……でありますか?」アシュリーは、不思議そうに首を傾げた。
「そうだ。そして一番重要なものがないじゃないか」
「と、申しますと?」
「『ハンコ』だよ、ハンコ! 決裁欄はどこだね!」
俺は机の上をバンと叩いた。そうだ、日本の組織運営の根幹、ハンコだ。この報告書は一体誰が責任を持つんだ? CIA長官か? ミリー議長か?承認ルートはどうなっている? 俺は、この書類のどこにハンコを押せば、責任の所在が明らかになるんだ?
「……ハンコ?」
アシュリーは、今まで聞いたこともない単語に、眉をひそめた。「HANKO…? 申し訳ありません閣下、それは何かのコードネームでしょうか。それとも、新しい暗号資産か何かで…?」
違う!そうじゃないんだ!
俺は、引き出しという引き出しを片っ端から開けて叫んだ。「俺のハンコを知らないか! 赤いインクで押す、俺の印鑑だ! チタン製で、先月ローンで買ったばかりなんだぞ!」
その瞬間、部屋の隅に立っていたシークレットサービスの男のイヤホンに、緊張の走る声が響いたのを、俺は聞き逃さなかった。『至急!“ハンコ”を確保せよ! 大統領が言及された、正体不明の兵器の可能性がある! 赤い……“赤いインク”だ!』
違う、そうじゃないって言ってるだろ!
もはや、まともなコミュニケーションは不可能だった。俺が日本のサラリーマンとして当たり前だと思っていた常識は、この国では何一つ通用しない。彼らにとって俺は、突然意味不明な単語を叫び始めた、奇行の目立つおじいちゃんだ。
呆然とする俺の視線が、ふと、机の上に置かれた小さなプレートに止まった。そこには、こう刻まれていた。
"The Buck Stops Here."
「……アシュリー」
「はい、閣下」
「これは、どういう意味だ?」
「『責任は、ここで止まる』という意味の慣用句です。トルーマン大統領が掲げて以来、大統領執務の精神を示す言葉とされています。最終的な責任は、全て大統領である貴方が負う。誰かに転嫁することはできない、という意味です」
……責任を、転嫁できない?
俺は、血の気が引くのを感じた。日本の会社組織とは、いわば巨大な責任転嫁システムだ。稟議書に何人ものハンコを押すのは、その責任を限りなく薄く、拡散させるための儀式だ。最終的に社長がハンコを押す頃には、その責任は霧のように希薄になっている。俺も、そうやって数々の面倒事を乗り切ってきた。
だが、ここには、稟議書も、承認ルートも、そして俺のローンで買ったチタン製のハンコもない。
あるのは、俺という「最後のハンコ」だけ。そして、その印鑑は、インクの代わりに、世界の運命という、あまりに重いものを背負わされている。
コン、コン。
執務室の扉がノックされ、ハリソン首席補佐官が入ってきた。
「閣下、お時間です。シチュエーション・ルームへ」
俺は、絶望的な気分でバインダーの山を見つめた。もうどうにでもなれ。
俺は、一番上にあった、最も薄っぺらいバインダーをひっつかんだ。表紙には「国務省」とだけ書いてある。
「よし」俺は、決意を固めた(フリをした)。「俺の考えは、決まった。これだ。このプランで行く」
俺がバインダーを高く掲げると、アシュリーが、信じられないものを見るような目で、その表紙を凝視していた。
「か、閣下……?」彼女の声は、かすかに震えていた。「それは……昨日、国務省のインターンが研修レポートとして提出した、『中東における食文化を通じた国際交流の可能性についての考察』ですが…」
俺は、満面の笑みで答えた。ドランプなら、きっとそうする。
「そうだ。これこそが、平和への道だ。イランの問題は、ケバブで解決する。異論は、認めん」




