第三十二話:始末書と犯人探し (The Incident Report)
【免責事項】
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・事件などは、風刺を目的として創作されたものであり、実在のものとは一切関係ありません。
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「……核の発射ボタンが入った、あのアタッシュケースのことだ」
ミリー議長のその一言は、俺のサラリーマンとしての脳が許容できる、あらゆる危機管理マニュアルの想定を、遥かに超えていた。
フットボール。核のボタン。
会社の金庫から百万円が盗まれた、とかそういうレベルの話じゃない。人類の、運命が、盗まれた。
PEOC(大統領危機管理センター)の内部は、静かなパニックに包まれていた。オペレーターたちが血走った目でコンソールを叩き、壁一面のモニターには、ホワイトハウス内部の、銃撃戦で寸断された監視カメラの映像が、点滅している。
「……DEFCON(防衛準備態勢)を、レベル2に引き上げろ!」ミリー議長が、獣のような声で吠えた。「ペンタゴンに連絡!全米の核サイロ及び、戦略原潜は、臨戦態勢に入れ!」
「副大統領の避難は!?」ハリソン首席補佐官が叫ぶ。
「すでに確保!アンドルーズ空軍基地へ向かっています!」
専門家たちが、専門用語を怒鳴り合っている。だが、俺の耳には、もう何も入ってこない。
頭の中は、真っ白だった。
どうするんだ。どうすればいいんだ。
俺がいた会社で、こんなことが起きたらどうなる? いや、起きるわけがない。だが、もし、もし起きたとしたら?
そうだ。
会社で、何か重大なインシデントが発生した時、俺たちが最初にやることは、一つしかない。
それは、「責任の所在を、明確にすること」だ。
誰が、いつ、どこで、何をしたのか。
誰の管理不行き届きなのか。
そして、誰が、この件に関する「始末書」を書くのか。
そうだ、始末書だ。
この、人類史上最悪の不祥事の顛末を、A4一枚にまとめて、関係各所にハンコをもらって、神……いや、誰に提出すればいいんだ?
俺は、混乱する頭で、目の前のミリー議長に向かって、口を開いた。
それは、完全に、中間管理職としての、魂の叫びだった。
「……ミリー議長」
「はっ!閣下、ご指示を!」
「その……フットボールだが……」
「はっ!」
「……今日の、担当者は、誰だったんだ?」
「…………は?」
ミリー議長の、百戦錬磨の顔が、完全に固まった。
俺は、構わずに続けた。会社のフロアで、部下のミスを問い詰める時の、あの口調で。
「フットボールの管理責任者は、誰だ? 持ち運びの際の、承認ルートはどうなっている? そもそも、管理台帳へのサインは、ちゃんと行われていたのかね?」
シン、と、PEOCから音が消えた。
銃声も、怒号も、警報音すら、一瞬だけ、遠のいたように感じられた。
オペレーターも、ハリソンも、アシュリーも、そして、俺の背後に控える執事のジェームズまでもが、信じられないものを見るような目で、俺を凝視している。
まずい。
また、何か、ズレたことを言ったらしい。
だが、その沈黙を破ったのは、意外にも、ジェームズの、静かな、しかし、確信に満ちた声だった。
「……なるほど」
彼は、俺の背後で、深く頷いた。
「……さすがは、大統領閣下。この極限状況にあって、我々が忘れていた、最も重要な点を、ご指摘くださるとは」
え?
ジェームズは、ミリー議長に向き直った。
「ミリー議長。閣下は、こう仰っているのです。『敵は、ただのテロリストではない。このホワイトハウスの内部に、敵に協力した裏切り者がいるはずだ』と」
「……なに?」
「考えてもごらんなさい」ジェームズは、続ける。「完璧なサイバー攻撃。シークレットサービスの動きを完全に予測した、物理的な襲撃。そして、大統領がPEOCへ移動する、その寸分のタイミングを狙った、フットボールの強奪。これは、内部の人間による、詳細な情報提供なくして、絶対に不可能です」
彼は、俺の方を振り返り、再び、深くお辞儀をした。
「閣下は、パニックに陥る我々を鎮め、冷静に、問題の本質……すなわち、『犯人探し』へと、我々を導いてくださっているのです。素晴らしい、ご慧眼です」
違う。違うんだ、ジェームズ。俺はただ、誰に始末書を書かせるか、考えていただけなんだ。
だが、ジェームズの完璧すぎる「解説」によって、PEOCの空気は、再び張り詰めた。パニックから、冷たい、相互不信へと。
「……裏切り者、だと?」
ミリー議長は、周囲の部下たちを、疑いの目で睨み始めた。
その時だった。
PEOCのメインスピーカーから、雑音と共に、何者かの声が響き渡った。ホワイトハウスの内部通信システムを、完全に掌握した、敵からのメッセージだった。
それは、機械で変声された、冷たい、感情のない声だった。
『……ミスター・プレジデント。聞こえているかな?』
全員が、スピーカーを凝視する。
『ゲームを、始めようじゃないか。君が愛する、アメリカ国民の命を賭けた、ゲームをだ』
『まずは、小手調べだ。フットボールは、我々が預かった。だが、安心したまえ。核ミサイルの発射には、君の認証コードが必要だ』
『……今から、60分以内に、そのコードを、我々に教えたまえ』
声は、続けた。
『もし、教えなければ……』
メインスクリーンに、一つの映像が映し出された。
それは、ニューヨーク、タイムズスクエアの、雑踏のライブ映像だった。
『……この広場のどこかに仕掛けた、ダーティーボム(汚い爆弾)が、爆発する。さあ、選んでくれたまえ、ミスター・プレジ-デント』
核戦争の始まりか。
それとも、ニューヨークの消滅か。
究極の、二者択一。
俺は、その場に、へたり込みそうになるのを、必死でこらえていた。
もう、始末書とか、そういうレベルの話じゃない。
これは、完全に、俺の手に余る。
助けてくれ、部長……!
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最新話は本日の20時10分更新予定です。




