第三話:稟議書と根回しと孫子の兵法
【免責事項】
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・事件などは、風刺を目的として創作されたものであり、実在のものとは一切関係ありません。
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扉が開く。
映画で見た光景が、そこにあった。薄暗い照明、壁一面に並んだスクリーン、そして、葉巻の代わりに緊迫した空気を吸い込んでいるような、いかつい軍人や背広の男たち。中央の巨大なマホガニーのテーブルには、ノートパソコンがずらりと並び、各国の指導者の顔写真や、意味不明なグラフが映し出されている。
全員が、俺の登場と同時に立ち上がった。椅子を引く音が、やけに大きく響く。
『大統領』
その場の全員から注がれる、期待と尊敬と、わずかな恐怖が入り混じった視線。それは、佐藤拓也が32年の人生で浴びたことのない、あまりに濃密なプレッシャーだった。ヤバい。胃が痛い。今すぐ胃薬を飲んで、布団をかぶって寝たい。
俺は、ドランプならどうするかを必死に考えた。そうだ、尊大に、自信満々に。
俺はテーブルの一番奥、革張りの一番立派な椅子に、ドスンと音を立てて腰を下ろした。そして、腕を組み、鋭い目つき(のつもり)で全員を見渡して言った。
「よし。始めようじゃないか。俺を、待たせていたようだな」
雰囲気は出ているはずだ。だが、内心は、初めての重役会議でプレゼンする新入社員のように、膝が笑っていた。
「はっ、閣下」いかにも軍人然とした、胸板の厚い男が進み出た。「統合参謀本部議長、マーク・ミリーです」
知らん。誰だよ。でも、一番偉いやつだということだけは分かった。ミリーと名乗った男は、スクリーンの一つを指し示した。そこには、真っ黒な海を航行する巨大なタンカーと、その上空を飛ぶハエのような黒い点の映像が映っていた。
「現状を報告します。イラン革命防衛隊の無人偵察機が、現在もわが国のタンカー『リバティ・ベル』の上空を旋回中。距離500フィート。タンカー側からの無線での警告に対し、応答はありません。現場の駆逐艦『USSウィンストン・チャーチル』の艦長は、これ以上の接近は明白な挑発行為とみなし、警告射撃、あるいは拿捕の許可を求めています」
ミリー議長は、俺をまっすぐに見て続けた。
「オプションは三つ。第一に、現状維持。監視を継続する。第二に、警告射撃の許可。第三に、電子戦システムによるドローンの拿捕、あるいは撃墜です。ご決断を、ミスター・プレジデント」
シン、と部屋が静まり返る。全員の視線が、再び俺一人に突き刺さった。
監視?射撃?撃墜?
駄目だ、単語の意味は分かっても、どれを選んだら世界がどうなるのか、全く想像がつかない。第一、俺はさっきまで日本のサラリーマンだったんだぞ。俺にできる決断なんて、今日の昼飯をカツ丼にするか、生姜焼き定食にするかくらいだ。
どうする、佐藤拓也。どうするんだ。
パニックに陥った俺の脳裏に、長年のサラリーマン生活で染み付いた、ある光景が蘇った。それは、絶対に失敗が許されないプロジェクトの最終承認会議で、責任を取りたくない部長がいつも口にする、あの魔法の言葉だった。
俺は、ゆっくりと口を開いた。
「……ミリー議長。いくつか、確認したい」
「はっ、何なりと」
「まず、この件に関するリスクとリターンを、各オプションごとにまとめた資料はあるのかね?」
「…資料、でありますか?」
「そうだ。SWOT分析でも、PDCAサイクルでも何でもいい。とにかく、この決断がわが国にもたらすメリット、デメリット、機会、脅威を、A4一枚にまとめて提出してほしい。できれば、グラフもつけて。分かりやすく」
部屋が、ざわついた。ミリー議長の眉が、かすかにピクリと動く。「閣下、それは…」
「それから!」俺は、畳み掛けた。「そもそも、だ。なぜ我々が『決断』せねばならんのだ?これは現場の問題だ。現場の駆逐艦艦長に、一定の裁量権を与えているのだろう?ボトムアップの意見も聞かずに、トップダウンで全てを決めるのは、旧時代のやり方だ。組織が、硬直化するぞ」
「しかし、閣下…」
「だいたい、この会議の参加者は誰が決めたんだ!」俺は、もはや完全にいつもの部長モードだった。「国防総省とCIAだけか?国務省は?商務省は?経済的な影響を考慮しないのか?関係各所への『根回し』は済んでいるのかね、ハリソン首席補-官!」
俺に話を振られたハリソンは、完全に虚を突かれた顔で固まっている。
「いいか、諸君。性急な決断は、常に悪い結果を招く。これはビジネスも、国家運営も同じだ」俺は、自信満々に言い放った。「今日のところは、一旦この件は『ペンディング』だ。持ち帰って、再検討する。各部門は、先ほど私が指示した資料を、明日の朝までに用意するように。会議は、明日改めて行う。以上だ!」
俺は、会議を一方的に打ち切る部長のように、力強くテーブルを叩いて立ち上がった。
部屋は、水を打ったように静まり返っていた。軍人たちも、CIA長官らしき男も、全員が呆然とした顔で俺を見ている。
終わった。完全に終わった。アメリカ大統領が、国家の危機を前に「ペンディング」だの「根回し」だの言ったんだ。明日には、弾劾裁判が始まってもおかしくない。
だが、その沈黙を破ったのは、意外にもミリー議長の感嘆のため息だった。
「……なるほど」彼は、何かを深く納得したように頷いた。「さすがは、大統領閣下。我々の視野の狭さをお見通しでしたか」
「……は?」
「我々は、軍事的なオプションにばかり気を取られていた。しかし、閣下は瞬時にこの問題が持つ、経済的、外交的な側面を看破された。そして、あえて即断を避けることで、敵にこちらの動きを読ませず、かつ、現場の判断力を試しておられる。まさに、孫子の兵法…『兵は詭道なり』。お見事です」
ミリー議長が敬礼すると、他の参加者たちも次々に「お見事です、閣下」「我々の考えが及びませんでした」と称賛の声を上げ始めた。
どうやら俺は、日本企業ではお馴染みの「責任回避のための先延ばし戦術」を、アメリカの最高指導者たちが「神算鬼謀の高等戦術」だと盛大に勘違いしてくれたおかげで、クビが繋がったらしい。
俺は、心の中で叫んだ。
嘘だろ、アメリカ。
かくして、佐藤拓也(in ロナルド・ドランプ)の、世界を相手にしたハッタリと勘違いの綱渡りは、まだ始まったばかりだった。




