第二十八話:SWOT分析と清掃用具 (Corporate Combat)
【免責事項】
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・事件などは、風刺を目的として創作されたものであり、実在のものとは一切関係ありません。
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目の前の暗闇から、武装した人影が、ゆっくりと近づいてくる。
俺の脳は、完全にフリーズしていた。死。その一文字が、明滅する非常灯の赤い光に照らされて、脳裏にちらつく。
戦う? 無理だ。俺の戦闘スキルは、学生時代にやった剣道初段(しかも、ほぼ忘れかけている)だけだ。
交渉? 相手が誰かも分からない。それに、彼らが俺の「誠意」を理解してくれるとは思えない。
逃げる? どこへ? ここは、敵地のど真ん中だ。
パニックに陥った俺の頭の中で、長年のサラリーマン生活で染み付いた、ある思考のフレームワークが、勝手に起動した。
SWOT分析だ。
自社の強み(Strength)、弱み(Weakness)、機会(Opportunity)、脅威(Threat)を分析し、最適な戦略を導き出す、あの忌々しいビジネスツール。
【現状分析】
強み (S): 俺は、アメリカ大統領の身体に入っている。つまり、人質としての価値は、おそらく世界一高い。
弱み (W): 俺自身の戦闘能力はゼロ。地理にも不案内。そして、今、猛烈にお腹が痛い。
機会 (O): 相手の目的は、俺の殺害ではなく、誘拐の可能性が高い。つまり、即死は免れるかもしれない。
脅威 (T): 見つかったら、ほぼ確実に捕まる。あるいは、抵抗して殺される。
結論:隠れろ。
とにかく、身を隠せる場所を探すんだ。日本の会社で、面倒な上司から逃れるために、トイレの個室に篭城した時のように!
俺は、すぐ近くにあった、名札のついていない小さな扉に、音を立てずに飛び込んだ。
そこは、どうやら清掃用具室のようだった。狭い空間に、モップやバケツ、そして業務用ワックスのツンとした匂いが充満している。俺は、扉を静かに閉め、息を殺した。
廊下から、ブーツの足音が聞こえてくる。複数人だ。彼らの会話が、扉の隙間から漏れ聞こえてきた。それは、英語ではなかった。ロシア語か、あるいは、東欧のどこかの言葉のようだった。
心臓が、喉から飛び出しそうだった。頼む。通り過ぎてくれ。
俺は、狭い物置の中で、必死に神に祈った。俺は仏教徒だが、際どい場面では、神にも祈る。これも、サラリーマンの処世術の一つだ。
足音は、一度、俺の隠れている扉の前で止まった。
俺は、完全に呼吸を止めた。
数秒の沈黙。それは、永遠のように長く感じられた。
やがて、足音は、ゆっくりと遠ざかっていった。
……助かった。
俺は、その場にへたり込んだ。だが、安堵したのも束の間、すぐに次の問題に直面した。
このまま、ここで助けを待つのか? いや、ダメだ。彼らが戻ってくるかもしれない。俺は、この状況を打開するための「武器」を手に入れなければならない。
俺は、清掃用具室の中を見渡した。
銃も、ナイフも、ない。当たり前だ。
だが、見方を変えれば、ここにある全てが、武器になりうる。俺は、会社のコンプライアンス研修で習った、「身の回りにあるものを護身用に活用する方法」を思い出していた。(あれは、主に、しつこい営業マンを撃退するためのものだったが)
まず、手に取ったのは、床を磨くための、重い電動ポリッシャーだ。
(……よし。これは、リーチの長さを活かした、打撃系の武器になる。遠心力を使えば、かなりの破壊力が期待できるだろう)
次に、目に付いたのは、窓ガラス用の強力な洗浄液が入った、スプレーボトルだ。
(……これを、相手の顔面に噴射すれば、一時的に視界を奪えるはずだ。一種の、閃光手榴弾のような使い方ができる)
そして、足元には、ワックスで濡れた床への注意を促す、黄色い看板(Wet Floor Sign)が。
(……完璧だ。これを廊下に設置すれば、追っ手の足を滑らせ、転倒を誘発できる。巧妙な、罠だ)
俺は、電動ポリッシャーを槍のように構え、洗浄液のスプレーをホルスターのように腰に差し、黄色い看板を小脇に抱えた。
気分は、さながら、ホームセンターで装備を整えた、終末世界のサバイバーだ。
よし。これなら、戦える。
俺が、新たな決意を固め、扉にそっと手をかけた、その時だった。
ガチャリ。
突然、外から、ドアノブが回された。
しまった! 鍵をかけるのを忘れていた!
ゆっくりと、扉が開く。
そこに立っていたのは、黒い戦闘服に身を包み、暗視ゴーグルを装着し、最新鋭のアサルトライフルを構えた、屈強な兵士だった。
そして、その兵士の目に映ったのは、信じがたい光景だった。
薄暗い物置の中で、アメリカ合衆国大統領が、床磨き機を槍のように構え、腰に洗剤のスプレーをぶら下げ、黄色い「注意」看板を盾のように抱えながら、臨戦態勢を取っている。
兵士は、あまりの超現実的な光景に、一瞬、思考が停止した。
俺は、その隙を見逃さなかった。
ビジネスとは、先手必勝だ。
俺は、叫んだ。
「……待て! 話し合おうじゃないか! 君たちの要求を聞こう! 我々は、きっと、Win-Winの関係を築けるはずだ!」
それは、あまりに場違いな、ビジネス交渉の第一声だった。
兵士は、ライフルの引き金に指をかけたまま、完全に、固まっていた。
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最新話は本日の11時10分更新予定です。




