第十一話:神の罠(The Divine Trap)
【免責事項】
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・事件などは、風刺を目的として創作されたものであり、実在のものとは一切関係ありません。
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ガザ地区、地下トンネル網の奥深く。
粗末な机の上に置かれた一台の古いノートパソコンが、ハマスの最高指導者イスマイル・ハリーリと、軍事部門のトップであるムハンマド・サイフの前に、信じがたいニュース映像を映し出していた。
『……ベン・グリオン空港で、アメリカのドランプ大統領が、アリエル首相に対し、深々と頭を下げ……』
カチッ。
サイフが、無言で動画を止めた。部屋を支配するのは、換気扇の唸る音と、二人の指導者の重い呼吸だけだ。
「……解説しろ」ハリーリが、乾いた声で言った。
集められた政治局の幹部たちは、誰も口を開けない。ある者は、これがイスラエルの流した偽情報だと疑い、ある者は、アメリカがついにイスラエルを見捨てたのだと期待に目を輝かせ、そして、ある者は、理解を超えた現象を前に、ただ呆然としていた。
口火を切ったのは、歴戦の司令官であるサイフだった。彼は、片目と両手足をイスラエルの空爆で失いながらも、その闘志は衰えることを知らない、ハマスの生ける伝説だ。
「罠だ」サイフは、断言した。
「罠、でありますか?」若い政治局員が、尋ねる。
「そうだ。これは、我々がこれまで経験したことのない、最も狡猾で、悪魔的な罠だ」
サイフは、机の上の地図を指した。
「考えてみろ。まず、奴は『オペレーション・ブラックキャット』なるものを発表した。人道と最新技術を盾にした、甘言だ。我々がそれを受け取れば民衆の支持を失い、拒否しても、我々の非情さが世界に喧伝される」
彼は、別の場所を指す。
「次に、敵の懐に単身で飛び込み、頭を下げて見せた。これで、アリエルは『剣を振り下ろせなくなった』。世界が見ている前で、頭を下げた相手を殴れるほど、奴も馬鹿ではない。イスラエルの大義名分は、完全に地に落ちた」
サイフは、集まった幹部たちを見渡した。
「そして、今、ボールは我々の足元にある。イスラエルは攻撃を止めた。世界は、我々がどう出るかを見ている。もし、我々がこの『平和のジェスチャー』を無視して、イスラエルにロケット弾を一発でも撃ち込めば、どうなる?」
誰もが、その答えを理解していた。
世界は、言うだろう。「イスラエルは、あれほどの屈辱を受け入れてまで、攻撃を停止した。それなのに、ハマスは和平を望まず、攻撃を再開した。やはり、ハマスこそがテロリストだ」と。
「……つまり」ハリーリが、呻くように言った。「我々は、戦うことも、戦わないこともできなくなった、と?」
「そうだ」サイフは、頷いた。「ドランプは、銃も、弾も、一発も使わずに、我々の両腕を縛り上げたのだ。剣を振り下ろせなくなったイスラエルと、剣を振り上げられなくなった我々。二匹の獣を、檻の中で睨み合わせたまま、動けなくした。これが奴の狙いだ」
なんと恐ろしい男だ、ロナルド・ドランプ。
暴力には暴力を。それが、この中東の唯一の掟だった。だが、あの男は、全く違う盤上のゲームを持ち込んできた。それは、暴力よりも甘く、そして死よりも残酷な「慈悲」と「屈辱」という名のゲームだ。
「では、我々はどうすれば……?」
「待つしかない」とサイフ。「奴の次の一手を。あの男がアリエルに約束したという、『オトシマエ』とやらが何なのかを。そして……」
彼は、初めてかすかな笑みを浮かべた。
「……あるいは、これは好機かもしれん」
「好機、と?」
「そうだ。敵が、混乱している。イスラエルも、そしておそらく、アメリカ国務省自身も、ドランプという『狂王』の考えを誰も理解できていない。混乱は、常に我々のような弱者に、チャンスをもたらす」
サイフは、部下に命じた。
「全部門に通達しろ。即時、全ての攻撃行動を停止せよ。そして、世界に向けて、声明を出せ」
「どのような声明を?」
「こうだ。『我々は、アメリカ大統領が見せた、前例のない平和への勇気を歓迎する。我々は、イスラエルが攻撃を停止したことを評価し、対話のテーブルにつく用意がある。我々が求めるのは、ただ一つ。罪なき民衆の、平和な暮らしである』と」
それは、ハマスがこれまで一度も口にしたことのない、あまりに穏健で、平和的な声明だった。
若い政治局員は、驚いて反論した。「しかし、それでは我々の闘争が……!」
「形だけだ、馬鹿者め」サイフは、一蹴した。「世界の同情を買うためのな。どうせ、イスラエルがこの対話に乗ってくるはずがない。だが、世界には『和平を望むハマスと、それを拒否するイスラエル』という構図が映る。これも、あの狂王が作った盤上だ。利用できるものは、何でも利用する」
そして、彼は付け加えた。
「それから、もう一つ。ガザ地区の民衆に伝えろ。アメリカから、パンとミルクが届く、と。飢えている者には、それを与えよ」
「よろしいので?」
「ああ。毒が入っているかもしれんから、十分に検査した上でな」サイフは、不気味に笑った。「だが、これは天からの贈り物かもしれん。あるいは……」
彼の目は、トンネルの暗闇の、さらに奥深くを見つめていた。
「アッラーが、我々の信仰心を試すために遣わされた、最大の罠かもしれん」
イスラエルを止めた「お辞儀」。
そして、ハマスに「対話」を語らせた「パン」。
佐藤拓也の、平和ボケしたサラリ-ーマン根性は、図らずも、中東で最も凝り固まった両者の「正義」を、同時に揺さぶり始めていた。世界は、かつてないほど奇妙な、束の間の静寂に包まれていく。




