第十話:お辞儀(The Bow)
【免責事項】
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・事件などは、風刺を目的として創作されたものであり、実在のものとは一切関係ありません。
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イスラエル、ベン・グリオン国際空港。
エアフォースワンのタラップを降りた俺の目に映ったのは、歓迎の赤絨毯ではなく、戦場の最前線のような殺伐とした光景だった。ずらりと並んだ装甲車。スナイパーが潜む建物の屋上。そして、俺を出迎えたのは、笑顔の儀仗隊ではなく、一切の感情を消し去ったベンジャミン・アリエル首相、その人だった。
彼の後ろには、モサド長官や国防相など、昨日電話越しに感じた怒りのオーラをそのまま身にまとったイスラエルの最高幹部たちが控えている。彼らの視線は、俺というより、俺がアシュリー補佐官に持たせている、桐の箱に注がれていた。
空港の一室で、俺とアリエルはテーブルを挟んで対峙した。ミリー議長やハリソン首席補佐官は、固唾を飲んで壁際に立っている。通訳はいるが、アリエルは完璧な英語で、沈黙という名の圧力をかけてくる。
どうする、佐藤拓也。ここが正念場だ。
俺は、震える手で桐の箱をテーブルの中央に押し出した。
「……アリエル首相」俺は切り出した。「まず、これを」
アリエルは、箱を一瞥しただけで、視線を俺に戻した。
「これは何だ、ミスター・プレジデント。和平案か? それとも、最後通牒か?」
「いや、羊羹だ」
「……ようかん?」
アリエルの眉が、かすかに動いた。
俺は、営業部長に叩き込まれた通り、手土産の説明を始めた。
「日本の、伝統的な菓子だ。豆を、たくさんの砂糖と一緒に、時間をかけて煮詰めて、固める。非常に甘く、そして、作るのに手間暇がかかるんだ」
その瞬間、アリエルの隣に立つモサド長官の目が鋭く光ったのを、俺は見逃さなかった。
エルサレムの首相府では、昨夜から緊急の分析チームが結成されていた。彼らが導き出した、ドランプの謎の暗号「ワビイシ」「メイワクリョウ」に関する、一つの仮説。それは、日本の古代の思想「侘び寂び(Wabi-sabi)」と「名誉(Meiyo)」ではないか、というものだった。そして今、目の前の大統領は「YOKAN」なるものを差し出し、その説明をしている。
アリエルの脳内で、モサドの分析が結びついていく。
『豆(Mame)』……些細な、しかし重要な要素。つまり、民間人の犠牲か。
『砂糖(Sato)』……甘い言葉。つまり、外交的ジェスチャー。
『時間をかけて煮詰める』……長期的な戦略。
『固める』……揺るぎない決意。
つまり、この「YOKAN」とは、「民間人の犠牲という些細な問題は、甘い外交的ジェスチャーで覆い隠すが、その裏には、時間をかけて練り上げた、我々に対する揺るぎない要求が固められている」という、とてつもなく手の込んだ脅迫のメタファーなのだ!
「……それで、君の『オトシマエ』とやらは、この菓子一つか?」アリエルは、冷ややかに言った。
「違う!」
俺は、椅子から立ち上がった。
そして、日本のサラリーマンが、人生を賭けた謝罪の場面で見せる、究極の礼法を実行した。
背筋を伸ばし、両手をまっすぐズボンの横に添え、腰から体を折り曲げる。深く、深く。90度。
最敬礼。
時間が、止まった。
部屋にいた全員が、息を飲む。アメリカ合衆国大統領が、自由世界のリーダーが、地の果ての小国の首相に、土下座せんばかりの勢いで頭を下げている。こんな光景は、人類の歴史上、誰も見たことがなかった。
アリエルは、椅子に座ったまま、完全に凍りついていた。
なんだ、これは。何かの儀式か? 降伏の合図か? それとも、俺を油断させて、背後からシークレットサービスに撃たせるつもりか? 彼の百戦錬磨の頭脳が、生まれて初めて、思考停止に陥った。
俺は、頭を上げた。そして、涙目で言った。
「本当に、ごめん」
その一言は、通訳を介さずとも、その場にいた全員の心に届いた。
あまりに純粋で、あまりに場違いで、あまりに「人間的」な響きを持っていたからだ。
アリエルは、混乱していた。
剣を振り上げてみれば、相手は腹を見せてきた。脅しをかけてみれば、相手は泣きそうな顔で謝ってきた。この男は、一体何なんだ。彼の行動は、チェスの盤上で、いきなり将棋の駒を動かすようなものだ。ルールが、通用しない。
「……立て」アリエルは、かろうじて声を絞り出した。「立て、ミスター・プレジデント。我々は、同盟国だ」
彼がそう言うしかなかったのは、政治的計算からではなかった。
目の前で深々と頭を下げた男を、これ以上辱めることは、指導者として、いや、一人の人間としての矜持が許さなかった。
ガザ侵攻は、その瞬間、事実上、止まった。
48時間以内にハマスを殲滅するという「鉄の剣」作戦は、無期限の「保留」となった。
アリエル首相が、国民と世界に向けてそう発表した時、その理由をこう述べた。
「アメリカ合衆国大統領は、我々がこれまで経験したことのない、全く新しい次元の外交的アプローチを提示した。その『誠意』の真意を、我々は慎重に分析する必要がある」
世界中のメディアは、「お辞儀外交(The Bow Diplomacy)」と名付けられたこの一連の出来事を、世紀の珍事として報じた。
その夜。
エルサレムの極秘地下施設では、モサドのトップアナリストたちが、とらやの羊羹を数ミリ単位でスライスしながら、成分分析を行っていた。
「……成分は、アズキ、砂糖、カンテン……。毒物は検出されません」
「盗聴器は?」
「ありません」
「では、この黒くて甘い塊は……一体、何なんだ……!?」
一方、ワシントンへ帰るエアフォースワンの中。
俺は、ミリー議長から、人生で最大級の賛辞を浴びていた。
「閣下、お見事でした。たった一度のお辞儀で、一個師団の兵力に勝る効果を……。まさに、柔よく剛を制す。これぞ、非対称戦の極みですな!」
俺は、疲労疲憊の頭で、ただ一つ、日本のことわざを思い出していた。
「正直は、最大の戦略である」
……いや、違うな。
「正直すぎると、逆に一番ヤバい奴だと思われる」
これが、俺が学んだ、新しいグローバルスタンダードだった。




