夏の終わりに・・・
こっんと小さな音が聞こえると、
「・・さぁ、お嬢様。そろそろ参りましょう」と言う声とともに、白塗りのわたしの手が宙に浮いた。
ひっ、冷たい!
わたしの手を掴むものは一滴の血も通っていないのか、そう思ったらサーッと全身に鳥肌が立った。
***
「いま、なんて?」
大木を背に座り込んでまどろんでいた羽矢人は思わぬことに驚いたのか、態勢を立て直しながらこっちを向いた。
「だから、わたしをもらってって・・」
「もらう?」
「うん・・。わたしを羽矢人のものにしてほしい」
羽矢人は絶句し、森の中はすべての音が消えてしまったように静かになる。それに気付いたからか、なにか言わないとと焦ったからか、
「あ・・、いやいやいや。って、いやだって言ってるんじゃないよ、もちろん、俺は夏那に会いたいから何時間もかかるこんな山奥にだって来てるし、夏那のことが好きだ」
夏那がにっこり笑う。天使だと言われたら天使、妖精と言われたら妖精、神様や仏様と言われても信じてしまうくらい無垢な少女の顔だった。
「でも、こんなところでそんな顔してせまられたら、俺だって男だし、参ったな・・。このままじゃ俺の中の箍が外れそうだ」
「箍が外れる?」
「いや、だからさ、嬉しいんだよ。夏那も俺のことが好きだから言ってるんだって。だけど17歳になったばかりじゃない。俺のものにしてくれなんて、そんな言葉が夏那の口から普通の会話みたいに出てくるなんて正直驚いちゃって。こういうことはもっと冷静に考えてから」
ーそれでは遅いー
喉元まで出た言葉を彼女はぐっと飲み込む。
再び森が無音になった。
夏那の住んでいる村は、岡山県と島根県との県境の山脈にあった。
九つ並ぶ山々にはそれぞれ神様が棲まわれていると謂われているけれど、九つ目の夏那の住む山の主は未だ不明なのだそうだ。
夏那はどこにでもいる少女のように話しはするけれど、この世の中のほとんどのことを知らなかった。両親も兄弟もいるそうだし、村にはほかにもかなりの人が住んでいるというが、詳しい話しはしないし、羽矢人を村に招待するどころか、自分に会ったことも村のことも誰にも言わないでと彼女は懇願した。
村単位の大量数の人間が、社会との関係を一切絶って、電気もガスも通っていない状態で、すべて自給自足の生活をしているって?
しぶる夏那が仕方なく話した言葉をようやくまとめた結果がこれだったけれど、正直想像も付かなかった。
実際、俺は夏那の存在に気付いたわけだし、どんなに隠そうとしたって綻びは必ずどこかに生じるものなのに、村の成り立ちは気が遠くなるほど古いなんて、こんな話し誰が聞いても信じられないだろう。
ドローンが空を飛ぶような現代に至って、太古からいまに渡っても村をすっぽり隠している事なんて本当に出来るんだろうか。それとも、俺は彼女に騙されてるのか。
だとしても、何のために。
羽矢人のものに・・。
でも、わたしはこの時その意味をまったく知らなかった。
ただ、人のものになれば嫁ぐのを免れると美夏ちゃんの両親がこっそり話していたのを偶然聞いたのだ。
美夏ちゃんはわたしとひとつ違いの近くに住む少女で、それは来年美夏ちゃんが17歳になるのを不憫に思った両親の会話だったのだけれど、いままでシシャに連れていかれなかった少女はひとりもいなかった。
そして、美夏ちゃんの母親にこの話しをしたと思われる家族はしばらくしていなくなった。嫁いでいった娘を案じた母親が、好きな者と一緒にさせたかったと溢しただけなのに、まるで溶けて土に返ったみたいに一家は消滅した。しかし、騒ぐ者はいない。
子供の頃から、両親に言い聞かされてきたことがある。
なにを見てもなにを聞いても疑問を抱いてはならない、ましてやそれをだれにかに問うてはならない。
そうすれば、わたしたちは淡々と穏やかな毎日を送れるのだから・・。
朝起きて家族揃って食事をし、畑を耕し、男は狩猟に行き、女は綿から糸を紡ぎ、自分たちの衣服を作る。
湖から流れ落ちて来る水は年中豊富で、作物も実り、気候も温暖なここの生活に足りないものはなかった。それは、この地を護って下さっている主さまのお陰と皆口々に言う。
だから、それが当たり前に生きてきた村人たちは、だれひとり村から出たことはないし、その教え通りにしていればなにが起きたとしても、わたしたちの日々の生活は変わりはしない。それは、これからもそうだと思っていた。
あの日、羽矢人に会うまでは・・。
どうして彼が森に迷い込めたのか。
偶然のいたずらとしか言いようがないけれど、釣りの道具を抱えて川辺をうろうろしていた羽矢人を見た時には、村人以外の不思議な格好をした彼に驚いて夏那は固まってしまった。それは、羽矢人も同じで、夏那を見つけた途端その場に固まり彼女を凝視したと思ったら、「う、うわぁ!!」と尻もちをついた。
その様子を見て無邪気に笑う夏那に警戒心が解けたのか、「なんだよ、お前!」と言い返したのがふたりの出会いだった。
村人以外の者との接触。良いことではないと瞬時に感じた夏那だったけれど、見たこともないものを沢山持っている羽矢人がする話しは、いままで聞いたこともないものばかりで、その好奇心には勝てなかった。
その日を境に、夏那は迷うことなく羽矢人がここまで来られるように森のあちこちに目印を付けた。
羽矢人は、スマホや腕時計、方位磁石、釣り竿にクーラーboxとあらゆるものを見せて説明をしたり、コンビニで買ったサンドイツチやペットボトルのお茶を出して夏那に勧めた。
もちろん、川で釣った魚も夏那に持って帰らせてくれた。
彼女は、もしかしたら彼が大人たちが言っている主さまの仮のお姿じゃないかとさえ思ったが、誰にも言わなかった。
このまま過ごしていけたなら・・。ただそう思いながら。
そして、春が過ぎ夏が来て夏那は17歳になった。
「夏那、もうじき夏が終わる。そしたら、お迎えが来るそうだ。わかってるね」
父は淡々と、穏やかにそう告げた。
「・・お父さん。わたしどこに行くの?」
正直な気持ちだった。が、父の表情は一変し、「お前はわたしたちに死ねと言うのか!」と怒鳴った。初めて怒った父は他人のようだった。
母も兄たちもなにも言わない。羽矢人に会いたいと思った。
春になれば春、夏になれば夏の、秋も冬にもそれぞれ行事がある。
それと同様に、夏の終わりには村で17歳になった少女のところに黒紋付姿のシシャが真夜中に舟で迎えに来る。そして、少女は白無垢姿で嫁いでいく。
その代わりのように一家には嫁がやってくる。それがこの村の昔からのしきたりで、いまも変わらない。
女に生まれたからには、これは決まり事だからと両親に言われて育ってきたけれど、羽矢人と会ったことで彼女には自分の中に疑問という消しても消しても湧き上がってくる感情が芽生えてしまった。
どこに行くの、どうしていくの、どうして17歳なの、どうしてなの・・。
だれかのものになれば嫁がなくていいって、ほんと?
だから羽矢人に言ってみたのに・・。
湖へと向かう川岸には手漕ぎの舟が一艘停まり、ほんのり灯った小さな提灯の明かりと笠をかぶった船頭が櫓を手に待っているようだった。シシャは黒い頭巾で微かに目元が見えるだけで、夏那の手を引いて歩いて行く。
定めだから仕方がないけれど、せめて、もう一度羽矢人に会いたかったな。
おかしな物を次々袋から出して、おかしな話しもたくさんして屈託なく笑う彼は、どこから来た何者だったのだろう。
あなたは、本当に主さまではないの・・。
夏那とシシャが舟に乗り込むと、舟は闇に吸い込まれるように音もなく水辺を上流へと進み出す。
「おねえさん・・」
茂みのほうから声がした。美夏だった。月光のせいか、彼女の顔が青ざめて見える。本当の妹のように愛おしい子。
「来てくれたの? ありがとう」と会釈しようとした時だった。バサバサという音とともにもう一つの頭が飛び出してきた。
「夏那!!」
「え・・」
「夏那、行くな!」
「美夏ちゃん、あなた・・」
美夏の顔は引きつっている。
「戻って来い、お前は俺のものだから!」
そう言うと、川辺に飛び出し夏那のいる舟に向かって走り出した。
予想もしなかった光景に驚いているのは夏那だけではなく、一番驚いたのはシシャだった。頭巾から見えるその目は見開かれ零れ落ちんばかりで、闇に包まれているにもかかわらず、突然の侵入者に対して怒りに震えているのが伝わる。
あぁ、わたしはなんてことを・・。
ただ、ありがとうと伝えたかっただけ。
だから、美夏ちゃんに羽矢人宛の手紙をいつも会う場所の木に置いてきてほしいと頼んだのだ。
約束の日に来た彼が読んでくれるように。それなのに。
「夏那!!」
必死で走ってくる羽矢人の姿に、思わず立ち上がろうとした夏那のせいで、舟はバランスを崩して大きく左右に揺れ、櫓から手が滑った船頭が川へと落ちると、さらに舟は激しく動いた。
「羽矢人!」
もう自分を押えられない。
羽矢人に向かって手を伸ばす夏那に、「お前を逃がすわけにはいかないんだよォ!!」と咄嗟に着物を掴んだシシャだったが、打掛だけがスルっと脱げシシャは思い切り後ろへ転がった。
勢いのまま夏那は川へと飛び込んだが、浅瀬の川と思っていたその見た目とは違い、まるで底なし沼に落ちてしまったように深く、どす黒い水という衣で包まれたかのように身動きも出来ず沈んでいく。
こんなに深いなんて。い、息が出来ない・・。
力が抜け意識も遠のいていく中、だれかに身体を掴まれ彼女はゆらゆら揺れる光に向かって浮き上がっていくのを感じた。
羽矢人? シシャ? 船頭? それとも・・。
***
「美夏ちゃん!!!」
自分の声に驚いて起き上がる。
「大丈夫?」
隣りで寝ていた羽矢人が、ベッドサイドのランプを点けると心配そうに覗き込んだ。
「また美夏ちゃんの夢を見たんだね」
「夢・・」
羽矢人に助けられたわたしは、初めて山の下の世界を知った。
生まれて初めて見るものばかりだし、もちろんもう家族も家もなにもない。だけど、事実を説明をしても到底理解は無理だろうとわかっていたから、羽矢人は記憶を失ってなにひとつ覚えていないようだと関係機関に届け、戸籍を得てくれた。
彼はお寺の息子で、それが普通の家庭でないことも良かったのか、夏那が釣りに行って行方がわからなくなっていた羽矢人を助けてくれた命の恩人だからと思ったからなのか、両親は夏那をあたたかく受け入れてくれた。
あれから九年になる。
あの夜、水面から顔を出した途端目に入ってきたのは美夏の顔だった。青白く不安そうな顔が徐々にゆがんで砂のように崩れていった。それが、彼女を見た最後で、あれから何度森へ入っても、夏那にも村への入り口は見つけられなかった。そして、羽矢人はわたしを抱えて泳ぐ時、黒い影に襲われ左腕の骨が見えるほどの傷を負った。崖から落ちたと病院では説明したものの、獣にでも噛み砕かれたような傷はいまも大きく残り、本人は左手で良かったというけれど、不自由さは残ったままだ。あの影は一体なんだったのか。
ー何を見てもなにを聞いても疑問を抱いてはならない。そうすれば、わたしたちは淡々と穏やかな毎日を送れるのだからー
父の言葉が蘇る。
ごめんなさい、あのまま嫁いでいればだれも不幸にならなかったはず。
隣りの幼子が寝返りを打った。すーっと鳥肌が立つ。
この子が17歳になるとき、シシャはここにも訪れるのだろうか・・・。
(了)