15.命の恩人
シルムは心配そうにレゼフィーヌの顔を覗きこんだ。
「大丈夫? 川の水でも飲んでしまったのかな」
「いえ、少しは飲んだかもしれませんが、そんなに大量ではないので」
レゼフィーヌがそっぽを向きながら早口に答えると、シルムは不思議そうに目を丸くした。
「レゼ、どうして敬語なの?」
「どうしてって――」
シルムは王太子だ。自分と同じ身分の相手ではない。
レゼフィーヌはそう言おうとしたのだけれど、シルムは屈託のない笑顔で笑う。
「前みたいに砕けた口調でいいよ。呼び名も殿下じゃなくてシルムでいいし」
「でも、私とあなたでは立場が違うし――」
レゼフィーヌが言いかけた瞬間、大きな音を立てて茂みの中からアレクが現れた。
「その通り。一国の王太子と魔女では身分が違いすぎます」
「おお、アレク。いたのか」
シルムがあっけらかんとした顔で言う。
「『いたのか』じゃないですよ! 服を乾かすから焚火をする時の薪を集めてこいと言ったのは殿下でしょう。全くもう」
アレクは集めてきた木の枝を音を立てて地面に落とした。
「ああ、悪い悪い。そうだったね」
シルムが全く悪びれていないような顔で手をひらひらさせる。
その顔を見てアレクが詰め寄る。
「……まさか、薪を集めてこいと言うのは方便で、実はレゼフィーヌ嬢と二人きりになりたかっただけなのでは」
シルムはすました顔で肩をすくめた。
「嫌だなあ、そんなわけないじゃないか」
「本当ですか?」
アレクの眉間の皺がますます深くなる。
レゼフィーヌが二人の様子を呆然と見ていると、雨粒がポツリと腕に落ちてきた。
「雨だわ」
レゼフィーヌは空を見上げ、雲の動きを見た。
湿度をはらんだ大きな雨雲が迫ってきているが、風の流れはまだそこまで早くない。雨が本降りになるまではまだ時間がありそうだ。
シルムとアレクも天を見上げる。
「本当だ」
「どこかで雨宿りしないと」
慌てる二人に、レゼフィーヌは城のほうを指さした。
「とりあえず二人ともうちに来たらどう? このローブも洗濯して返さなきゃといけないし。細かい話はそこですればいいわ」
レゼフィーヌの提案に、アレクの顔が青くなる。
「ま、魔女の家に!?」
アレクの反応とは逆に、シルムは顔をぱあっと輝かせた。
「いいの? ありがとう」
レゼフィーヌはフンと鼻で笑う。
「別に、命を助けられたし濡れたら困るから招くだけよ。ローブが乾いたらすぐに帰ってもらうわ」
「うん、それでもありがたいよ。レゼの家に行けるだなんて」
感動するシルムの腕をアレクは強く引っ張った。
「シ、シルム殿下、やっぱりやめましょうよ。魔女の城なんて、悪い魔女に食べられたらどうするんですか」
「嫌ならアレクは一人で帰ればいいさ。愛しい女性に家に招かれたんだぞ? どうして断る必要があるんだい」
「ですが――」
懸命に止めようとするアレクをよそに、レゼフィーヌの後をついてどんどん歩いていくシルム。
「ま、待ってくださいよ」
結局アレクもシルムを追って歩いていくこととなり、ほどなくして三人はいばらの城にたどり着いた。
「ここよ」
シルムとアレクがレゼフィーヌの張った黒いいばらの結界を見て目を丸くする。
「すごいな、どこから入るんだい?」
「こっちよ。今、結界を解除するから」
レゼフィーヌが指を振ると、いばらは門が開くように左右に分かれ、城までの道ができた。
「これ、本物のいばらなの?」
「そう。魔法で操っているの。人間は滅多に来ないけど、野生動物や魔物が畑の野菜を狙って来たりするのよね」
「畑……野菜……そうなんだ」
シルムがキョトンと目を丸くする。
城で野菜を育てる侯爵令嬢なんてそうそういない。ひょっとして幻滅しただろうかとレゼフィーヌはシルムの顔を見た。
「がっかりした?」
「ううん。君らしいね。変わってなくてよかった」
レゼフィーヌの予想に反し、シルムは心底おかしそうに笑った。
レゼフィーヌはいばらに手をかざし、結界を解除する呪文を唱えた。
「――解」
いばらが門のように左右に開く。
「さ、入って」
「わあ、すごいね。これ全部魔法で動かしてるんだ。どういう仕組みになっているのかな」
物珍しそうにキョロキョロと辺りを見回すシルム。
レゼフィーヌは黙って城のドアを開けると、奥で薬草の調合をしていたエマ婦人に声をかけた。
「エマおばさま、帰ったわよ」
エマ婦人が薬瓶を取る手を止め顔を上げる。
「お帰りなさい。……あら、お客様?」
「ええと、この方はシルムと言って私が川に落ちたところを助けてくださったの。こちらはその従者のアレクさん」
レゼフィーヌが端的に説明すると、エマ婦人は笑顔で手招きした。
「そう、命の恩人ね。どうぞ、ゆっくりしていってね」
「はい、ありがとうございます」
「お気遣い感謝いたします」
シルムとアレクが頭を下げる。
レゼフィーヌたちは濡れた服を着替えると、改まって話をすることになった。
四人で丸いテーブルを囲み、全員分のお茶とクッキーが配られる。
レゼフィーヌが息を飲み、シルムの顔を見つめていると、シルムくるりとエマ婦人の方へ向き直った。
「エマ婦人、僕はセレスト国第一王子のシルムと申します。突然ですが……お嬢さんを僕に下さいっ!!」
シルムはそう言うなり、勢いよくエマ婦人に頭を下げる。
レゼフィーヌは思いもしなかった展開に、思わず椅子からずっこけそうになった。
「……はあ!? ちょっと待ちなさいよ。私はあんたと結婚なんてしないってば!」
語気を強くするレゼフィーヌ。
「そうですよ」
渋い顔をしたアレクも割って入る。
「我々の目的はあくまでも魔法学園の講師を探すことで、嫁探しではありません」
「似たようなものじゃないか」
「全然違います!」
シルムとアレクが言い争いをしていると、エマ婦人は神妙な顔でうなずいた。
「ふうん、良いんじゃないの? レゼ、あなた、この人と結婚したらどうだい」
「えっ」
あまりに軽い物言いに、レゼフィーヌはびっくりしてエマ婦人の顔を見た。
「エマおばさまったら、何を言っているの?」
エマ婦人は少女のように顔を赤らめ、熱っぽく語る。
「だって、命の恩人の王子様に求婚されるだなんて、まるで少女向けの恋愛小説みたいじゃないか。ああ、なんて素敵なんだろう。こんな機会は滅多にないよ!」
(……そういえば、エマおばさまって無類の恋愛小説好きだったわね)
レゼフィーヌはリビングに並ぶピンクの背表紙の小説の数々を見つめ、大きなため息をついた。