11.王太子と従者
美しい声と薔薇の残り香だけを残し、いつの間にかレゼフィーヌの姿は消えて無くなっていた。恐らく何か魔法を使ったのだろう。
シルムは考える。
さすがは王都にまで高名が轟いているいばらの森の魔女――『いばら姫』。一筋縄ではいかなそうだ。
シルムはその場にしゃがみこんだ。
「レゼ……」
なんて美しく気高く誇り高い薔薇の良な女性に成長したんだろう。一刻も早く彼女と結婚しなくては!
シルムがレゼフィーヌの蒼い瞳と薔薇の香りの余韻に浸っていると、どこからか声がした。
「シルム殿下、シルム殿下!」
「おお、アレク」
シルムが顔を上げると、ガサリと音がして茂みの中から黒髪で長身の男――アレクが現れた。
「シルム王子、こんなところにいたのですか」
草木をかき分け、アレクが血相を変えてシルム王子の元へ駆け寄る。
「すみません、ぬかるみの泥に足を取られてしまい思うように動けませんでした」
全身葉っぱと泥まみれになり、肩で息をするアレクは伯爵家の三男で、本名はアレクシス。
シルムより四歳年上の二十二歳で、シルム直属の騎士で近衛隊長という、シルムを一番近くで警護する部下だ。
シルムのことなら自分が一番よく知っていると自負している。そんなアレクだからこそ、シルムの顔を一目見るなり異常に気付いた。
シルムの様子がいつもと違う。頬はわずかに赤く染まり、瞳も熱を帯びて潤んでいる。
「あの刺すような瞳……冷たい態度……たまらないなあ」
などと訳の分からないことをブツブツ呟いている。
――これはどうしたことだろう。
アレクは主君の異常事態にその大きな身を震わせる。
と同時に、その場に残った薔薇の残り香に気付いた。この香りは女性の香水? ここに誰かいたのだろうか。
ひょっとして、魔女に呪いでもかけられたのか!?
「レゼ……もう一度会いたいよ。どうしたら僕のお嫁さんになってくれるんだい?」
顔を覆い、その場にしゃがみこむシルム。
その様子は明らかにいつもの様子と違っていた。
アレクの知るシルムは、いつも気高く毅然としていて、王家の名にふさわしい貴公子なのに、これは一体どうしたことか。
「シ……シルム殿下、どうなさったのですか!? お気を確かに! シルム殿下……シルム殿下ー!!」
シルムの体を支えながらアレクは途方に暮れた。
――これは呪いの魔女に会いに行かねばならない。
魔女に会って、呪いを解いてもらい、元のシルム王子に戻してもらわなくては!
***
「それじゃあ、とりあえず乾杯!」
村唯一の酒場兼食堂で、シルムは笑顔で巨大なグラスを掲げた。
一方、アレクはというと、真面目くさった顔で頭を抱え、主君に苦言を呈した。
「殿下、とりあえず乾杯と言われましても、今までの話のどこに乾杯する要素があったのですか?」
「えっ、なぜ乾杯するのか分からないって?」
大きなグリーンの瞳を見開き、不思議そうな顔をするシルム。
アレクは大きなため息をついた。
「ええ。いばら姫には講師の件を断られたのでしょう。どうしてそんなに嬉しそうなのですか?」
「ふっふっふ、それはだね、僕と愛しい人が思いがけず再会したからだよ」
シルムがいつになく上機嫌で語る。
アレクは半信半疑で尋ねた。
「幼馴染の侯爵令嬢でしたっけ。確かなのですか。もう七年も会っていないのでしょう? 偽物の可能性は?」
アレクの疑問に、シルムはぴしゃりと言ってのける。
「間違いないよ。あの輝くばかりの波打つ金髪、猫みたいに大きな蒼い瞳。幼いころと全く変わっていない」
シルムはうっとりと宙を見上げ、先ほど会ったレゼフィーヌの姿を、声を、香りを頭の中で反芻する。
そんなシルムの様子を見て、アレクは眉間に深く皺を寄せた。
アレクはシルムに騎士として仕えて五年になるが、こんな様子の主君を見るのは初めてだった。
シルムは少し素直すぎる――というか抜けたところはあるものの、公務に対しては真面目だった。
今まで女性と浮名を流したり女性問題に悩まされたりするところも見たことがない。
アレクはじっとシルムの顔を見つめた。
髪は月の光を閉じ込めたかのような美しい銀髪。瞳は木漏れ日のように優しく煌めくグリーン。整った鼻筋に穏やかな口元。長身の体は均整がとれ、気品と優雅さをたたえている。
ただ微笑みを浮かべて歩くだけで女性たちのが群がり熱い視線が注がれる、そんな貴公子だ。
それなのにどうしてそこまでレゼフィーヌにこだわるのか、アレクには理解できなかった。
確かに一瞬しか顔は見ていないがレゼフィーヌはその辺の貴族の娘よりずっと美人に見えた。
アリシア侯爵家と言えば名門貴族で、結婚相手として不足というわけではない。
しかしシルム殿下はレゼフィーヌの妹のリリアと婚約中のはずだ。
それなのに七年も王都を離れ森の中で魔女修業をしていた女性を妃に迎えるだなんて前代未聞のことだ。
(あの魔女に騙されているのではないか)
アレクの頭の中にそんな思いがよぎった。
シルム殿下の身に降りかかりそうな不安要素は少しでも排除しておかなくては。
アレクはテーブルの下できつく拳を握りしめた。
「しかし、妃になるのも講師になるのも断られたのでしょう? それならばすっぱり諦めて、早く次の候補へ声をかけたほうが良いと思います。どうです、この『洞窟の魔女』なんて良さげでは」
アレクが講師候補の名簿をパラパラとめくっていると、シルムはきっぱりと言い放った。
「いやだ」
「し、しかしシルム殿下」
慌てるアレクの目をじっと見つめ、シルムは言った。
「いいかい、アレク。魔導学園の講師候補は他にもいるかもしれないけれど、僕の花嫁候補は彼女一人だけだ。断られたから次にというわけにはいかないんだよ」
「シルム殿下……」
シルムはグラスに入った葡萄酒をぐいと飲み干すと、こう続けた。
「それに一度断られたくらいで引き下がるだなんて誠意がないと思わないかい。本当に彼女を妃にしたいのならば、最低三回は頭を下げるべきだ」
「ではもし三回頭を下げても駄目でしたら?」
「それだったら十回頭を下げよう。それでも駄目なら百回頭を下げればよい。本気ならばそれぐらいすべきだ」
まっすぐにアレクの顔を見てそう言ってのけるシルム。
アレクは頭を抱えた。
いつもは素直でかわいい弟のようなお坊ちゃまだが、一方でシルムは自分でこうと決めたら絶対に引かない頑固さもある。
仕方ない。ここは黙ってシルムの気が済むまでやらせるほかない。
――だが、万が一シルム殿下に危害が加えられるようなことがあったら。
アレクはテーブルの傍らに立てかけた剣を見た。
この剣で、刺し違えてでもシルム殿下をたぶらかす魔女を倒さねばならないだろう。