アンジュの過去
ある冬の日のこと……。
この星の緯度からすると、かなり北に位置するこの地域には雪も降るが、積雪量はそれほどでもないのが通例で、日陰に根雪が残る程度だ。だが、その年の冬は珍しく雪が積もった。
白銀世界の祝福を受けた村に「天使」が降り立つ。まだ新生児であるにも関わらず、輝くようなブロンド、エメラルドの瞳、その子の美麗は異次元のものだった。だが、人に非ざるような美しい赤子は、村人にとって賛美の対象とはならなかった。
この少女の左胸、乳房の少し上には、聖なる紋様十字架とは逆の印、逆十字の痣があったのだから。
魔法のない世界でいうところの迷信などではない。この世界の人々は誰しも魔法を感知する力、霊力がとても強い。この少女が生来持つ呪いは。決して根も葉もないものではなかった。
「可哀想じゃが、この子は村に災いを齎す。どうか、こらえてくれ」
村長の言葉は、母の胸を鋭く抉った。母もこの世界の住人、今はいたいけない赤子であったとしても、この子が、将来、村に破滅を呼ぶ存在であることは分かっている。分かってはいるが、母が子を想う心、その愛を阻めるものなど、この世に存在しない。
「どうか、どうか、おやめ下さい。娘を捨てるというのなら、私も一緒に死にます」
泣き叫ぶ母は屈強な男たちに取り押さえられ、その赤子、アンジュは、結界の外に捨てられた。ここは魔獣が蠢く魔境、赤子など、捨てられれば、ものの半刻もたたぬ内に、魔獣の餌となるだろう。
だが……。
「うん? なんだ、あれは? 人、赤子ではないか!」
このことを「数奇な運命」で片付けるには少々無理がある。おそらく、神が仕組んだ巧妙なシナリオだったに違いない。
息子の鍛錬をするため、魔の森に来ていた、先代勇者パウルと、まだ十歳の子供であった現勇者ニールの二人連れが、アンジュを見つけた。
「捨て子か、だが、この子はとてつもない強運を持っている。魔獣に食われる前に、我らに出会うのだからな」
「こんなところに、人が住んでいる、ということになりますね」
二人は気付かなかったようだが、メープルの樹液を採取するために壺が所々に置かれており、隠れ里がほど近いことを示唆していた。
「うーん、魔の森の奥に隠れ里があるとも聞くが……。こんな幼い子を捨てるなど、人として許されざる行為だな。だが、我々は勇者、勧善懲悪がその使命ではない。分かるな? ニール」
「はい。お父様、私、そろそろ妹がほしいと思っていたところです」
一を聞いて十を知る。ニールの利発さに、パウルは微笑んだ。
「よく分かっておる。だが、ニールのその望みだけは、叶えてやれぬな。いずれにせよ、安全なところまで、この子を連れ行くとして……。うん、これは?」
赤子が包まれていた毛布の中にパウルは巾着袋を見つけた。袋の中には粉ミルク、哺乳瓶ととも白いカードが添えられている。
そこには「アンジュ、12月25日生まれ」とあった。これは、誰かに拾われる奇跡を信じた母が我が子に持たせたものなのだろう。
「とにかく、街まで急ぐぞ!」
さすが勇者親子というしかないだろう。途中、食事と授乳休憩を挟みつつではあるが、赤子を背負ったパウルと十歳のニールは、魔の森をひたすら駆けた。近寄る魔獣は、剣を抜いたとも見えぬ早技で瞬く間に切り伏せて進む。
一昼夜走り通した二人は翌朝、無事、近隣の街ヒルトハイムに到着した。
「さて、ニールよ、残念だが、この子は、奴隷商に預けるしかなさそうだ」
勇者はリバにとって最需要人物であり国の命運を左右する立場にある。勇者家系は、国に保護されている反面、その血筋は厳しい管理下に置かれている。気まぐれに養子をとるなど、許されるものではない。
だが、パウルのいった奴隷商は、地球でいうところの、それとは大きく異なる。この世界における人身売買自体は合法、契約に縛られた奴隷という身分も存在するが、その基本的人権は保障されており、劣悪な労働環境の下、無給で働かされる、などということはない。
奴隷商と呼ばれる業者は、身寄りのない子供を収容する孤児院であったり、ハローワークであったり、倫理の問題はさておき、公では行き届かない社会福祉を担う一組織とみることもできる。
パウルはアンジュを馴染みで信頼のおける奴隷商に預けることにした。
彼らは子供を引き取り、育てる、育児に掛かった費用に儲けを上乗せして、誰かに売る。奴隷は売値分の負債を負うことになるが、売られた先で働くことにより、これを返済する。
通常、売られてから五年程度は、もらえる給与が半分となるが、完済すれば、奴隷としての契約は終了、そのまま十割給与をもらって働き続けるか、他の職を探すかを選べる、すなわち平民としての地位を回復し、自由を得たことになる。
アンジュは孤児院で育ち、五歳の時、たまたま魔の森を視察に来ていたイーサの王に、ロゼの遊び相手として身染められ、今に至っている。