脱出口
ついに、ついに、この時が来た。大きな安堵と心に秘めた寂寥感、アンジュは、
「まもなく日付が変わります。王宮から逃げるには、とてもよい時間、どうかこれを」
そう言って、どこに隠していたのだろう、ちょうどロゼが背負える大きさのリュックを取り出してきた。
「こんな日が、いつかは来ると思って準備しておいてようございました。あの、それで、お二人は、どこへ行くのか、お決めになっていらっしゃいますか?」
「イーサ東のバルバ山と考えていたのだが……」
「あそこは、冬になると雪も深く、隠れ家を建てるにしても、難儀かと思います。もし、よろしければ、私の生まれ故郷、魔の森、ミシュラ・マ・フルシュの奥地は、いかがでしょう?」
「魔の森ですと」
「はい、あの奥に、結界を張って人々が暮らす隠れ里があります。村の名をミシュラ・ワハームと言います」
ミシュラ・ワハーム? その村の名はニールの記憶に、どこか引っ掛かる。だが、どうも正確には思い出せない。
「さ、さ、早く」
「あ、アンジュは?」
「問題ございません。寝ているうちに、ロゼ様がいなくなったと証言いたします。ほとぼりが冷めましたら、私も後を追います故、どうか再び、おそば付きにさせてください」
「もちろんよ」
「アンジュ殿、恩に着ます」
アンジュは先ほどのロープをベッドの脚に結びつける。チュニックとパンツに着替え、防寒用のコート羽織ったロゼは、ニールと共に、縄を伝って王宮の庭に降りた。
「さっ、こちらへ、あそこの茂みに荷物を隠しておりますので」
「はい、でも、どうされました? ニール様」
「どうされた、とは? それから、私のことは呼び捨てで」
「なんだか楽しそうですよ、ニール」
「愛する人との逃避行、楽しくないわけでは……。多分、それだけではありませんね。ロゼ殿と同様、勇者という重荷から解放された、ということでしょう」
「私のことも、呼び捨ててくださいませ。ですが、ニールは、重荷と一緒に、地位も名誉も財産も、全て捨てたということでは?」
「独身を貫いてきた私、あなたと、それらを天秤に掛ければ、遥かに、遥かに、あなたが重い」
「あら、私、そんなに太ってはいませんわ」
「ロゼこそ、冗談が言えているじゃないか」
「私の場合は、重荷というより、呪縛でしたから」
「あっ、声が大き過ぎましたか」
「さすが、ロゼ、感じるか?」
ニールは背中に吊るした聖剣に手を掛けた。
「お待ちください。私は味方です」
「ローレンス!」
「アンジュ殿より、手引きをせよと、申し付かっております」
電波というものを知らぬこの世界の住人だが、魔法によりこれを代替している。ペアの指輪、一方の魔力を込めれば、一方に嵌められた宝石の色が変わる、といった単純なものから、「発信機」を持つ者の位置が魔法の水晶玉から分かる高度な魔道具すら存在する。
今日あることを予見していたアンジュ、ローレンスとの連絡方法も決めておいたのだろう。
「ニール殿でしたよね? ここで召喚魔法を使うのは危険です。あなたのような、大きな魔力、誰かに感知されてしまうに違いありません。それに、二人乗りであの塀を飛び越えるのも、かなり無理があるかと」
ロゼ、ブラッディローズの力に頼り、軍備を怠っているこの国、王宮の守りも薄く、周りに堀を巡らせるなどの備えはない。
とはいえ、王宮は王宮、その塀の高さは五メートルもある。ロートハーゼの身体能力をしても、二人乗りとなると、かなり厳しいだろう。
「こちらに、隠し扉が、ございます」
「ローレンス、あなたまで、こんなことをしては……」
「心配はご無用、警備の不備ということで、王から叱責は受けるでしょうが、その程度です。それに」
「それに?」
「アンジュ殿からの受け売りですが、『いかなる人の幸せも、誰かの犠牲の元に成り立つものではない』。たとえ、五万対一だったとしても、ロゼ様を生贄として、幸せになる権利など、この国に、この世に存在しません。もちろん、私自身もアンジュ殿も、そのような幸せは、望んでおりません」
「ローレンス殿と仰るのですね。私も、あなたに全く同意です」
「はい、お願いしましたよ。ニール様、どうか、どうか、ロゼ様とお幸せに」
と言いながら、ローレンスはなんの変哲もない、塀に手を置いた。これは、指紋認証の魔法なのだろう、彼の手形に反応した塀には、ちうど人が通れるくらいの扉ができた。
「一朝事ある時、王宮の者が逃げられるようにした設備ですが、こんな時に役立つとは」
「ありがたい!」
「ありがとう、ローレンス殿。想うところがあるかもしれないけれど、アンジュのこと、お願いしますよ」
「心得ておりますよ、ロゼ様。何があろうろ、アンジュ殿が私にとって世界一大切な人であることは、未来永劫変わりませんから。では、お二人ともお幸せに」
二人が王宮外に出たのを確認したローレンスは再び扉を閉じた。




