籠の鳥
拍手が鳴り止むのを待ち、演奏が始まった。このピアニストはなんらかの加護を持っているのかもしれない、信じられないほどの速弾きだ。
途中から、急に曲のテンポが変わり、ゆったり流れるようなメロディーとなった。弾いているのはおそらく女性だろう、細やかに包み込むような音色、彼女は高い表現力も兼ね備えている。
「素敵な演奏ですわ、心、揺さぶるようなメロディーラインも素晴らしい」
「そうですね、イーサが世界に誇る作曲家の『幻想即興曲』と言います」
ニールは作曲家の名を言わなかったが、どことなくショパンの有名曲に似ている。
演奏が終わり万雷の拍手が湧き起こる。客の興奮が収まったあたりで、店主が個室から裏口に誘導してくれた。二人はこっそり魔動車で作戦本部に戻った。
夢のような夜だった。デートどころではない、素敵な男性とディナーも楽しめた。私は人生の幸運、その全てを使い切った。もう思い残すこともないだろう。ロゼは自分に言い聞かせつつ、残り二日の時を過ごした。
そして、いよいよ、別れの朝がきた。
「ウーカシュ様、本当にありがとうございました」
「何を仰います。私たちが、今、生きていられるのは、ロゼ様あったればこそ」
「パーティの皆様も、ありがとうございました。もう二度とお会いすることはないと思いますが、どうかお元気で」
「だぁら〜 そういうところをね……」
言いかけたアガーテの言葉をドロシーが遮った。
「アガーテの言う通り、運命に絶対なんてないんだよ、お姉ちゃん、神様は常にサイコロを振っている」
「そうですよ。ロゼさんに過酷な未来があるのは承知しています。ですが、我ら、仲間であることだけは永遠、繰り返します、ずっと、あなたのことを案じている人間がいることを忘れないでください」
「はい、皆様の励まし、心に刻みます」
「では、ロゼ殿、行きましょうか?」
夏の朝、A星に続いてB星も顔を出した。二つの太陽に照らされる大地は早くも熱気を感じさせるが、作戦本部の前にポプラの木を揺らす風は、いくばくかの涼味を運んでくれているようだ。花壇に植えられたオレンジのキンセンカが風に戦いでいる。
ロゼはニールにエスコートされて魔動車に乗った。ドライブボタンを押すニール、静かに魔動車はドルティアの外周側城門に向かった。魔動車の自動運転AIは、とてもよくできている。城門前まで来たら停止位置でピタリと止まった。
「ロゼ様、ニール様、お疲れ様でございます。お気をつけて」
門番兵士も二人の顔を覚えているのだろう。内開きの城門が開け放たれると、魔動車は再びドライブモードに入った。
魔動車の中、ロゼは押し黙っている。何か楽しいことでも喋らないとと、思えば、思うほど、気持ちが塞いで、言葉が出てこない。そんな彼女の心中を察したのだろう、ニールは腕を組み目を閉じた。
ニールが気を使って狸寝入りをしているのは分かっている。いるが、やはり、ロゼは気の利いた話ができぬまま、沈黙を保った。
ふと車窓から外を見ると、夏の野には向日葵が咲き、樫や櫟の濃い青葉が揺れている。
そうだ!
「綺麗ですね」
「ええ」
かろうじて絞り出したワンワードだけの会話が先に進まない。唇に指を当てた神、ハルポクラテスが支配する車内の時間は、重く無意に過ぎ去っていく。魔動車から船、再び乗った魔動車はイーサの首都ミュルンの城門を超え、王宮に入った。
ロゼはポケットから、目隠しを出して、その瞳を覆う。同時にニールがその左手をさり気なく掴み、引いてくれた。
ロゼ、王宮では、表面上は丁重に扱われているが、王はもちろん、周りの者にとっては、籠の鳥、いや、囚人扱いなのだ。どこかへ逃げられたら国を揺るがす一大事、門兵自らアテンドして、そのまま三階奥の居室に連れていかれそうになった。
「少し、お待ちください」
「ハッ!」
「ニール様、なんだか胸が詰まってしまい、十分なお礼の言葉を述べることができず申し訳ありません。ですが、戦いが終わった後の一週間、本当に楽しい時間をいただけました。これからの人生、この思い出だけ糧に生きていける、と思うほどに。本当にありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ、あなたのような、素晴らしい女性と過ごせた珠玉の日々、一生の宝と心得、大切にいたします。ですが……」
「ですが?」
「運命の神は悪戯好きなのですよ」
「それは、また、戦争が起きる、ということでもあるのでは?」
「そうでないかもしれません……。では」
「はい」
ニールは指輪の返却と、ルバ王からの謝礼を届けに、王のもとへ行くようだ。
兵士に手を引かれ、中央の螺旋階段、奥にある三階に続く階段を登り、自室に向かうロゼ。
ああ、私は決して吟遊詩人にはなれないわ。才能がなさすぎるもの。最後のお別れなのに、もっと、ずっと、洒落た台詞、彼の方の心に残る言葉が出てこなかったのかしら?
そんなことを考えていたらロゼ、なんの前触れもなく、泣くという意識もなく、温かい涙が、目隠しを濡らし、とめどなく頬を伝うのを感じた。
あれ? 私、泣いたなんて経験あったかしら。私、涙を流すことができたんだ。
「では、こちらへ」




