プロローグ〜勇者の子
今夜はやけに冷えると思ったら、降り出した雨がいつの間にか雪に変わっていた。窓辺に目を転じれば、クリスマスローズの鉢植えが、白く可憐な花を咲かせている。私は赤い煉瓦を積んだ暖炉の炎を見つめながら、遠い異世界の物語をふと思い出していた。
名も知らぬ国で、ある聖人が寒い冬の夜に生まれたのだという。
聖人が星の導きによりこの世に生を受けたその夜、貧しい一人の少女が誕生を祝う儀式に駆けつけた。だが、少女には立派な身なりをした賢者のような贈り物などない。
嘆き悲しむ少女の流した涙は土に落ち、そこに真っ白なクリスマスローズが咲き乱れた。少女は清廉、純白なその花で花束を作り贈り物としたのだという。
この少女は、私の母なのだと思う。母は捧げたのだ、その命を、我が父と私のために。だが、聖母がごとき母の想いは、残念ながら父には伝わらなかった。いや違う、父はそれを知りつつ、心に湧き上がる復讐心という悪魔に抗し得なかったのだろう。
今は亡き両親の物語に心を奪われていたら、随分と時間が経ってしまった。明日は勇者である私が魔王と決闘をする日だ。
我が国リバと、隣接する魔族の国クトゥル・アル・シュタールの間には古くからの盟約がある。
両国は決して合い争わぬ、その代わり、両国間にある通称魔の森、ミシュラ・マ・フルシュの利権を賭け、勇者と魔王が決闘を行う、というものだ。その勝者が次の決闘までの間、魔の森の利権、すなわち税収全てを独占する、ことになる。
魔の森は魔獣が跋扈する危険な場所ではあるが、魔獣を狩って得られる魔石は貴重な資源であり、人々の暮らしを支えている。
というのが、私の父が亡くなる以前の両国関係だったのだが、今や、クトゥル・アル・シュタールの属国となり領土の一部を割譲してしまった我が国にとって、この決闘は宗主国のお情けで開催され行事となってしまった。
魔族の国と共闘して侵略を行ったオステンにより併合され、国自体が消滅した母の国イーサに比べれば、我が国の現状は幾分ましかもしれないが……。
ところで、リバを支配下においたクトゥル・アル・シュタールが、なぜ負けるリスクを犯してまで、魔王対勇者の決闘を行うのか? という点を不審に思われる向きもあるかもしれない。
実は、現在の魔王は、かつて勇者が連勝を重ねてきた、この百年にない強さだといわれている。それは、そうだろう、現魔王は百年間、魔族が待望した女性なのだから。
生物学的にみれば、男性の体力は女性を大きく上回るのが常ではある。だが、魔力、特に「加護」と呼ばれる魔法ステータスにおいて、抜群の素質を持つ者の大半は女性だ。
今の女魔王は、人族など、いかなる腕自慢でもまさに鎧袖一触らしい。唯一、対抗しうる可能性のある私、すなわち勇者であったとしても敵う相手ではない。
そうなのだ、これは決闘などではない、行事ですらない、見世物だ。魔王の強さ、その権威を人族に知らしめ、支配に甘んじることを強いるため、反抗を企てようとする心を挫くための茶番に過ぎない。私は魔王の片棒を担いで、明日、なぶり殺しにされるのだろう。
だが、そうと分かっていても、この決闘を断る選択肢など私にはない。一度でも辞退してしまえば、私が逃げれば、もはや永久に人族が魔の森の領有権を主張することは叶わぬだろう。
断っておくが、私は絶望し、自暴自棄になっているのではない、一縷の望みがあるのだ。ニール、敢えて亡き父の名をいただいた我が子は五歳にして類稀な魔才の発露がある。
彼ならば、きっと! いつの日にか魔王を倒してくれるだろう。捲土重来、再び、人族の民が立ち上がる旗印になってくれるに違いない。だから、私は明日の決闘に臨もうと決意した。
父も母も自ら命を絶った。であるが故、私は、私だけは、彼らのような生涯を送るまいと誓っていた。
だが、明日、魔王と対峙するということは、まさに自殺行為なのだろう。それでも、私には、死してでも、先に繋ぐ希望がある!
ああ、そうか、今、分かった、二人の自死は神の啓示が示されたが故、だったのかもしれない。何か霊的な導きがあり、自らの死と引き換えに得るものがあると、知っていたに違いない、そう、今の私のように……。
さて、明日、命が尽きるとして、今夜、私にはやらねばならぬことがある。
魔王との決闘が決まった三カ月前から書き溜めていた父母の物語、その最終章の執筆が残っているのだ。残酷な運命の渦に翻弄された父ニールと母ロゼの愛の物語、それを後世に伝えることこそ、私に残された最後の使命なのだと思う。