後
「――だから、ママはあの子に甘すぎるの!」
実家の親と話をしているのか、彼女はさっきからスマホ片手にリビングをウロウロしている。
「男だって今時は家事やるのが当たり前なんだからね。将来結婚できなくて、家に居座っても知らないから!」
そう言って、彼女は一方的に通話を切った。
「弟君、上京するの? 大学受かったんだ、すごいね」
コンロでキャベツを炒めていた俺は、彼女へと振り返る。
彼女の年子の弟は今年受験生だった。優秀らしく東京の有名私立大を受験したと聞いていた。
「うん。でもママが『一か月に一度は、ケイくんの部屋の掃除に行かなきゃ』とか言ってるの。そんなだから、あの子マザコンなんだよ」
「それは男目線でもキツイかも」
興奮を冷ますように、ため息をついた彼女が「あっ」と小声で叫んだ。
「やだコレ……気持ち悪い」
愛らしい顔を歪める視線の先には、シンクの中に置かれた三角コーナーがあった。
「昨日生ゴミ捨てなかったでしょ? コバエがたかってるよ」
「悪い、忘れてた。なんかこういうの見ると、あったかくなったんだなって気がするな」
「そんなことに春の訪れを感じないでよ。キッチン用のアルコールスプレーある?」
「シンクの下にあるかも。なければ玄関横の収納にストックあるからそれ使って」
探しても目当ての物がなかったらしく、収納に向かった彼女だが、しばらくしてから妙な表情をしながら戻って来た。
「新しく越してきた人って、動画配信とかやってるのかな?」
「なんで?」
「さっきから変な口調で、一人で話してるのが聞こえるけど……」
薄気味悪そうに話す彼女に、俺は苦笑する。
「違うよ。大学で演劇サークルに入ってるって聞いたから、きっと台詞の練習だよ」
一瞬彼女が、息を飲んだような気がした。
「誰から聞いたの?」
彼女の声のトーンがにわかに変わった。その血の気を失った顔に俺は笑いかける。
「なに怖い顔してるんだよ、亜里沙」
俺が一歩踏み出すと、彼女がびくりと後ろに後ずさった。
橋元 亜里沙とは付き合ってまだ一か月。ただのお隣に住んでいる学生同士から、彼氏彼女になったばかりだ。
「だって、205号室の椿さんと昨日話したけど、ナオちゃんとは引っ越しの挨拶の時にしか会ってないって言ってたもん。そんな話どうやって聞いたの!?」
「もちろん自分の耳で聞いたんだよ」
下手に言い訳するより、素直に認める方が許される確率が高いことは身をもって知っている。亜里沙の前に付き合っていた女から学んだことだ。
彼女を安心させるために俺は微笑みかけたが、亜里沙の顔には絶望が広がる。
「……杉下先輩が言ってたこと、やっぱり本当だったんだ」
「杉下……? ああ、千咲のことか」
杉下 千咲。二十歳。
俺が去年の春頃まで付き合っていた、同じ城ノ台大学の建築学部に通う同級生だ。同じ授業を取っていたので、前々から顔と苗字くらいは知っていた。ある時、偶然配達の仕事の届け先が千咲のアパートで、そこから彼女のことが気になるようになった。あれこれと彼女の情報を集め、やがて交際することができた。慎ましい大学生同士らしい付き合いは、なかなか楽しかった。
ところが、ゴールデンウィークを開けた頃から急に向こうがよそよそしい態度を取るようになった。少しずつ疎遠になって、梅雨入りの頃に正式な別れ話を切り出された。こうなっては俺も未練はなかったので、すんなりと応じた。原因は大方、俺のことをよく知る同級生から忠告されたのだろう。
――あいつにはヤバい趣味がある、と。
千咲は俺を刺激しないよう無理に問いたださず、ゆっくりと自然消滅を狙ったのかもしれない。彼女はここ最近付き合った女の中では一番賢かった。さすが我が大学の同級生だ。
「杉下先輩とはインカレで知り合ったの。それで直ちゃんとの付き合いは考え直した方がいいって言われて……。最初は元カノの立場で、私のことよく思ってないから、変なこと言うのかなって聞き流してたけど、全部本当だったんだね」
そういえば千咲は、テニスサークルに入ってると言っていた。まさかそんな所で繋がりがあるとは思わなかった。世間は狭いものだ。
「……前からちょっと変だなって思ってたの。初めて一緒にご飯食べに行った時ファミレスの順番待ちで、ナオちゃんは私の名前を正確に『橋元』って書いてたよね。知らない人は大抵、私の名前を本の方の『本』って書くのに」
「うん、『ハシモト』自体は同級生とかにもいたけど、その漢字で書く人は初めて会った」
亜里沙の本名は、彼女と出会って一か月で把握した。
ウチのアパートは各部屋のドアの横に、直接郵便物を入れる投函口が付いている。入れた物はそこから備え付けの靴箱の上に落ちる仕組みだ。針金ハンガーを使ったら、三分とかからず彼女宛てのダイレクトメールが手に入った。同じアパートだと部屋の構造はよくわかっているので都合がいい。
「じゃあやっぱり、あれはそうだったんだ……」
亜里沙がうめくようにつぶやく。
「あれ?」
「去年の夏に、ナオちゃんが『彼女が寝たがってるから、静かにして』ってウチに言いに来た日のこと……あの時はもう、杉下先輩じゃない人と付き合ってたよね」
亜里沙の言葉に、あの時付き合っていたのは誰だったかな、と首をひねる。「ああ、はいはい。マアちゃんだ」としばらくしてから思い出した。
高倉 雅実。二十七歳。
年上で、看護師として働く彼女は大らかでさっぱりとした性格で、今まで付き合った誰よりも気楽な間柄だった。通っていた整形外科で働いていて、そこで知り合った。
医療関係者は病院のホームページや、地域の情報サイトに名前を載せていることも多いので、ネットで個人情報を探すのは特に簡単だ。マアちゃんの前の職場は、アットホームな病院をアピールするために、職員の趣味や休日の過ごし方など、どうでもいい個人プロフィールまで載せていた。しかも退職後の職員の情報まで、そのままになっている杜撰ぶりだ。
そこからマアちゃんの趣味や嗜好をヒントに、SNSのアカウントを見つけた。地元を離れ、年配の同僚が多い職場で、彼女が寂しさを持て余しているのはすぐ予想ができた。仕事帰りに行きつけの居酒屋で、一人飲みが趣味だともわかった。俺もその居酒屋に通い、偶然を装ってマアちゃんとたびたび会い、彼女好みの『手のかかる弟分』を演じた。
歳の差はあったが、その世代の違いもまた新鮮だった。世話好きで気配り上手な人だったので、彼女として何の不満もなかった。しかし去年の秋頃、実家の親が重病になったとかで地元に帰って行った。さすがにその状況で遠距離恋愛は難しく、しばらくしてから向こうから『新しい彼女はできた?』と連絡が来て、すでに終わった関係なのだと察した。
「ナオちゃんが来る少し前に、私の部屋から盗聴器が見つかったの。……友達でしつこい元カレがいる子が、念のためってネットで盗聴発見機買ったの。ついでに他の子の部屋も調べてみようって、冗談半分で女子会したときに持ってきたんだよ」
「ふーん。ああいうのは精度低いって聞いたけど、案外見つかるんだな」
「信じられない……盗聴器なんてどうやって付けたの?」
亜里沙の部屋の合鍵を入手するのも楽勝だった。ゴミ捨て場がアパートの敷地を出てすぐ横にあるせいか、亜里沙はゴミを持っていく時に部屋のドアを施錠していなかった。ダイレクトメールの転送元の住所――彼女の実家は、調べたらそう遠くない隣県だが結構な田舎だった。防犯意識が低い地域の、おおらかな生活が身に付いているのだろう。
梅雨頃だっただろうか。俺は亜里沙がゴミ捨て場で大家のおばさんに話しかけられている所を見つけ、ためしに彼女の部屋に入ってみた。不用心なことにキーケースは玄関の靴箱の上に、投函された郵便物やチラシに紛れて置かれていた。これはチャンスだと思い、俺はキーケースを拝借すると、開店すぐにバイト先のホームセンターに行って鍵を複製してもらった。
その日は水曜日で、亜里沙は一、二限目の授業がないのか、正午頃に家を出ると俺はあらかじめ知っていた。あの散らかった靴箱の上を見るに、数時間ならキーケースが無くても、どうせ気づかないだろうと踏んだのだ。
わずか十分で合鍵を作製してもらい、すぐにアパートに戻って来た俺は、いつもと反対の要領で、郵便物の投函口からそっとキーケースを戻しておいた。玄関の気配を俺の部屋からうかがっていたが、やがて何事もなかったように亜里沙は出掛けて行った。こうして俺は小一時間で亜里沙の部屋の合鍵を入手したのだ。
「亜里沙はちょっと不用心だよ。盗聴器を警戒したっていう、お友達を見習わないと。そうか……あの時に盗聴器を見つけたのか」
女の子たちが妙な悲鳴を上げ、俺が部屋を尋ねた時には、亜里沙の友達から警戒の眼差しで見られた原因がようやくわかった。
「なんで付けたの、そんな物……?」
「うん、あれはよくなかったな」
最初に使っていたのはコンセント型盗聴器だった。日常風景に溶け込んでしまえば見つかりにくいが、一度疑問を持たれれば盗聴器としてはありがちな物だったこともあり、すぐにバレて外されてしまった。
結局今は、長時間録音可能なボイスレコーダを亜里沙の寝室のチェスト裏に置いている。付き合うようになってから、亜里沙に部屋に堂々と出入りできるようになったので、設置も回収も簡単だ。この様子だといまだに見つかっていないみたいだし、最初からそうすればよかった。
「まさか、生ゴミをポストからウチに入れたのもナオちゃんなの!?」
「へ? それは知らな――」
否定しかけてから、俺は口元を手で覆う。
「いや……悪い。それやったの、多分秋頃付き合ってた彼女だわ」
「はあ? まだ別の女がいたの?」
亜里沙が呆れたような目を向けた。
呉葉 真奈。二十歳。
メディカルトレーナーを目指す専門学生だ。駅前に新しくできたスポーツジムで、インストラクターのバイトをしていた。初めて見た時から、俺はそのモデルのように優美な肢体に惹かれていた。雅実と疎遠になりつつあったこともあって、俺は思い切って声をかけてみることにした。
同い年だったことがわかり、思っていたよりあっさりと友達になって、順調に交際にまで発展した。真奈は体育会系女子らしい、キビキビした行動力のある子だった。そして付き合っているうちにストイックな反面、陰湿で嫉妬深い性格に気づいていしまった。やっぱり付き合う時は、見た目よりも内面をよく吟味すべきだと、つくづく実感した。
真奈はなぜか、亜里沙を『地雷系女子』などと呼んで、やたらと敵視していた。あの頃、亜里沙とはただの隣人以外に接点がなかったのにだ。さすがに彼氏を奪われると警戒していたわけではないだろうが、生ゴミを部屋に突っ込む程度には気に入らない存在だったようだ。しかし今こうして俺が亜里沙と付き合っていることを考えれば、女の勘は怖いものだ。
真奈は歴代彼女の中でもトップクラスの美人であったが、俺から振ったのは初めてだった。別れ話を持ちかけた時は、『絶対に別れない!』と案の定激しく拒否され、アパートや大学に押しかけられるわで、泥沼状態だった。
しかしここで、あるアイテムが役に立った。五千円かけて作った、真奈の部屋の合鍵だ。付き合っている時に真奈から直接渡された合鍵は、別れ話が本気だという意思を伝えるために無理やり返したが、俺はもう一つ真奈の部屋の鍵を持っていたのだ。
付き合った当初、真奈は意外と警戒心が強く合鍵を渡してくれなかった。半面まあまあ杜撰の所もあり、真奈の家に遊びに行った際、彼女がコンビニに行っている間に部屋を探ってみたところ、あまり使っている形跡のない小物入れから合鍵を見つけた。もともと部屋を借りた際に預かった物だろう。俺が一週間拝借しても、まったく真奈は気づかなかった。
結局しばらくして、真奈の方から合鍵を渡してくれたので、俺が作成した鍵はほとんど機会もなかったが、別れてからようやく日の目を見ることになった。
気は少し咎めたが、俺は真奈の部屋に侵入し、さりげなく置時計や観葉植物の位置をずらした。俺や真奈とは趣味の違う、男物の香水をほのかに部屋に匂わせる細工も忘れなかった。もちろん物を持ち出したり、破壊したりなどは流儀に反するので、絶対にしなかった。
鈍感な人間なら気づかない程度の細工だが、勘の鋭い真奈には効果抜群だった。とにかく復縁のごり押しだった真奈が、『最近一人でいるのが怖いの』と弱音を吐くようになった。そこをあえて冷たく突き放すと、向こうから幻滅したのか、ぱたりと復縁要請が止んだ。
しばらくしてから真奈はアパートを引っ越したようだった。彼女が以前、高校生の時に痴漢に遭ったが警察は何もしてくれなかったと愚痴をこぼしたことがあった。警察に行くのをためらうような、行ったところで『気のせい』で片づけられそうな、絶妙なラインで細工をしたことはやはり正解だった。
今思えば、自分は生ゴミを人の家に突っ込むという嫌がらせをしていたのに、自分は物の配置が変えられた程度で怖気づくとは情けない話だ。やはり、見た目と中身が釣り合ってない女だった。
「最初はそんなことする女とは思わなかったんだよ。……ごめんな。あいつがやったことに関しては、俺も無関係じゃないから申し訳ないとは思ってる」
亜里沙は大きくため息をついた。
「それに年末頃にも部屋を出入りしてた女の人いたよね。あれただの知り合いとか言ってたけど、絶対に付き合ってたでしょ?」」
さすがにその言葉だけは、同意できなかった。
「言い訳する訳じゃないけど、あの女は彼女のうちにカウントしたくない」
浅野 愛玲那。二十一歳。
彼女や大学の友達に誘われて行ったガールズバーで働いていた女だ。愛玲那は出会った時はトーク力が売りのバーテンダーにしては、頓珍漢なことばかり言っていて、頭の回転があまりよくない印象だった。けれど、たどたどしくも一生懸命な姿は健気であり、いわゆる庇護欲を誘う女だった。気の強い真奈に疲れていたこともあり、おれはつい愛玲那と会うために店に通い詰めていた。
『キャバクラ行ってない?』とやたら怪しんでいた真奈は、性格に悪かったが、やはり勘だけはよかったようだ。
そして愛玲那の容姿の良さと頭の悪さと加え、気が弱い割には男に対する距離感のなさ。直感的に、この女いかがわしい仕事をしていた経験があるのではと思った。結局俺の男の勘もなかなかのものだった。
押しに弱い愛玲那と付き合うこと自体は難しくなかったが、さらに彼女のことを知りたいと思った。一緒に行ったカフェで席を外したすきに、カバンの中を物色したら、レシートでパンパンに膨らんだ長財布の中からは、この辺ではあまり見ないスーパーのポイントカードが出てきた。ネットで検索したら福岡市にある店だった。
そこで福岡の風俗店を片っ端から検索したら、あっさりと彼女らしき写真を見つけた。源氏名は彼女が好きと言っていた、漫画のヒロインと同じ名前だったのですぐに確信した。
『口元しか出してなかったのに』と愛玲那は言っていたが、彼女のぽってりとした下唇や、きゅっと上がった口角などは、顔の中でも特に特徴的なパーツだ。身バレしたくないなら、メイクでどうとでも誤魔化せる目元を出しておくのが正解だっただろう。
ちなみにハンバーガーショップで働いている先輩が、食事に来た俺たちを見ていたことも、彼が福岡出身なのも本当だが、ただそれだけだ。言葉の端々から、愛玲那が勝手に告げ口されたと勘違いしたのだ。
彼女に言った通り、俺は仕事に対する差別意識はなかったし、愛玲那がどんな過去を背負っていようと彼女を愛する気持ちに変わりはなかった。……そう、過去の話ならば。
あの女、浮気をしていたのだ。よりにもよって身近な人間と。
相手は俺の隣の部屋205号室に住んでいた、聖華土木産業大を退学した甲斐だった。ウチのアパートは、先代の大家さんが縁起を担ぐ人だったらしく、死や苦がイメージされる『4』、『9』といった数字が使われていない。だから俺の部屋203号室の隣は『204』を飛ばし、205号室になっている。
甲斐のことはイイ奴だと思っていたのに、あの男サークルの金盗むわ、人の女寝取るわで、正体は最悪だった。甲斐はいつの間にか愛玲那から連絡先を聞き出し、そこからなし崩しに関係を持ったらしい。
『壁の向こうに彼氏がいる』という、エロ動画で死ぬほど見たシチュエーションで、二人して盛り上がっていたと聞いた時は、さすがに殺意を覚えた。
俺に『絶対に別れたくない』などと殊勝なことを言っていたくせに、結局あの女、山梨の実家に帰っていった甲斐を追って行ってしまった。愛玲那との交際で学んだことあったので、すべてが無駄という訳ではなかったが、同時にやっぱり風俗で働くような女は頭も股もユルいなと思った。
愛玲那との馴れ初めや、甲斐の悪行を亜里沙にぶちまけると、彼女は心底軽蔑し切った口調で言った。
「それ全員クズじゃん。自分だって前の彼女と別れてないうちに、ガールズバーの女をナンパしてるってことでしょ?」
「だからその前の真奈とは、あの時点で事実上終わってたようなもんだし。あの女、裏の顔が陰険なだけで、底が浅くてもう面白みがねーんだもん」
「面白み?」
「そ。俺さ、気に入った女の子を自分でリサーチして、集めた情報からこの子はどんな性格で、どんな人生を歩んできたのかなーって予想するのが趣味なわけ。そんで実際付き合ってみて、予想が正解だったらテンション上がるでしょ」
「意味わかんない……」
「なんで? 亜里沙だって『幕末! 恋は浅葱の風の中に』だっけ? スマホでめっちゃ検索してるし、同人誌だって描いてるじゃん。そういうのと一緒だよ。調べて知って、そこからさらに想像したいんだよ」
「なんなの……本当気持ち悪い……」
オタクであることを周囲には隠している亜里沙は、顔を真っ赤にしながらも、俺に蔑みの眼差しを向ける。
ああこれ、さっきキッチンでコバエを見た時の反応と同じだ思った。春になり汚物の中で蠢き出す虫を見つけた時の、理解しえない不気味な物を前にした嫌悪と恐怖の目。
「わかってもらえないか……。ま、いいけどね」
「私の物返してよ!」
「はいはい、合鍵ね」
俺はキーケースを取って来ると、自分の部屋や自転車の鍵と共にぶら下がっていた亜里沙の部屋の鍵を外す。さらにキッチングッズが収納してある引き出しを外し、その下に隠しておいたもう一つの合鍵と共に亜里沙に渡す。
二本の鍵を手の上に載せられ、亜里沙が悔しそうに唇を引き絞った。
「他にも盗聴したデータとかあるでしょう?」
そこで亜里沙がはっと気づいたように青ざめる。
「まさか映像は撮ってないよね。お風呂とか寝室とか……」
「ああ……」
亜里沙は世間でよく問題視されている、リベンジポルノの類を恐れている訳だ。
「盗撮はしてないよ。それは人の道に反するじゃん。録音データも保管してない。疑うなら、俺のスマホもパソコンも全部調べていいよ」
俺はあくまで『知りたい』だけだ。窃盗癖や収集癖、まして隠し撮り映像で興奮する趣味もない。合鍵などの実用的なアイテム以外はすぐに破棄してしまう。もともと何かに固執する性質ではないし、物をため込むのは嫌いなのだ。
「だいたい女性に対して性的な嫌がらせとか、男として最低だろ」
愛妻家である父や三人の姉たちから、俺はフェミニスト精神を子供の頃から叩き込まれている。そんな人の道にもとる真似をするはずがない。
恥じる所はなく、俺は堂々と笑って告げると、亜里沙から感情が抜け落ちたように、表情がなくなった。
「……もういい。頭のおかしいヤツに、なに言っても無駄なのがよくわかった。警察には言わないから、代わりにこのアパートから出て行って――」
亜里沙は大きくかぶりを振る。
「ううん、私が出て行く。だからもう二度と私と関わらないで。 ……あんたみたいな変態はいるし、気持ち悪いオッサンがいつも叫んでるし、お父さんたちに言われた通り、こんな安アパートやめておけばよかった」
言って、亜里沙はわざと足音を響かせるように俺の横を通り、リビングからバッグをつかみ取ると、最後に俺を一睨みして部屋から去って行った。
閉じたドアの向こうから、アパートの外階段を鳴らすヒールの音が響く。自分の部屋には帰らず外に出て行ったらしい。まあ、あれだけ啖呵を切っておいて、帰る先が俺と壁を挟んですぐの場所では格好がつかないが。
『あさがおコーポ』――駅から徒歩十五分、築四十年。2DKで家賃は三万四千円。築年数や地方であることを差し引いても、リノベーションはされてるし、間取りを考えれば破格の家賃だ。
噂では三十年以上前に、このアパートで別れ話のもつれから女を刺した男が自殺したらしい。その辺の真偽は不明だが、不自然に家賃の安い場所には、相応のヤバい奴らが集まるというのはあり得なくない。
事実住んでいる連中だって、ついに留年四年目のアル中に、窃盗ヤリチン野郎、果ては引きこもりの頭おかしいオッサンだ。亜里沙の親御さんが心配するのも無理はない。
「……あ、この前仕込んだボイスレコーダー、回収しとけばよかった」
学生にはまあまあ高価な買い物だった。引越しの時に見つかれば、怒り狂った亜里沙に確実に破壊されるだろう。
「ま、いっか」
どちらにしても、一度使った小道具を別の女に使うのは主義ではない。姉ちゃんたちからも、元カノの生活用品を今カノに回すのだけはやめておけと言われている。確かにお古など失礼な話だ。
俺は気を取り直してリビングのソファに座ると、スマホを取り出し、設定画面のデバイス一覧からあまり馴染みのないメーカーのスピーカー名をタッチする。以前調べたら東欧に本拠地を置くメーカーだった。接続しても画面に小さなマークが出るだけで、通知音がしないことは、もちろん確認済みだ。
接続するとマイクを通じて、205号の椿 律子の声がよく聞こえて来た。小柄な体格からは想像できない、張りのある芯の通った美しい声に俺は聞き入る。
椿さんは今年大学二年だが、以前住んでいたアパートでボヤが騒ぎがあり、部屋が住める状態ではなくなったらしく、急遽ここに引っ越してきたと“聞いた”。
亜里沙とほぼ同じ手口で合鍵は入手してある。女性らしい見た目や所作、そして古風な下の名前からして育ちは良さそうだ。半面、食事はレトルト食品が多く、部屋の床にはバッグや服が散乱していた。躾にうるさい親の抑圧から解放され、その反動で自堕落な生活をしているパターンかもしれない。
俺はリビングの掃き出し窓から、小さなバルコニーへと出る。風に乗り散りゆく桜が雨のように舞っている。春という季節に皆浮かれていのだろうか。街のざわめきがいつもより浮足立っているように聞こえた。彼女と別れたばかりだというのに、不思議と俺までわくわくとした気分になってくる。
新しい“お隣さん”はどんな男を演じれば、俺に興味を持ってくれるだろう……。彼女には昭和気取りの厳しい父親がいると見ている。最初は甘すぎるくらいの優男を演じ、それから少しずつ男らしくリードする姿勢を見せるのがいいかもしれない。そういう女は父親のような男に反発しつつも、その実は支配されることを望んでいることが多い。
「……よし、その方向で行こう」
ふと横を見ると二軒隣のバルコニーで、《発狂さん》が上機嫌で歌いながら洗濯物を干していた。
『DOKI・DOKIがおさまらない! いつもキミを見つめているから もっとWOKU・WAKU知りたいの! どんなときもキミをかんじてたいから そばにいたい! はなれたくない! ゆめのツバサでとびだしたらホールド・ミー・タイト♪』
調子っぱずれな中年男の声だったのですぐに気づかなかったが、俺が幼稚園の頃、姉たちと一緒に見ていた女児向けアニメの主題歌だと思い出した。ポップな表現に誤魔化されそうになるが、冷静に歌詞を聞くと、なかなか情念がこもった歌だ。
多分俺は、短い足で懸命に走る仔犬か、アスファルトに咲くタンポポにでも向けるような眼差しをしていただろう。しばらく穏やかな心境で熱唱を続ける《発狂さん》を眺めていると、向こうが俺の存在に気づいた。
途端にあたふたとキョドり始める《発狂さん》に、俺は笑いかける。
「いい歌ですね」
一瞬ぽかんとした後、《発狂さん》が「ふひっ!」と笑った。
お読みいただきありがとうございます。
現在女性向けの真面目系主人公のお話を書いているので、息抜きにまったく方向性の違うことをやりたくなりました。書いてて楽しいクズがたくさん出せて自己満足できました。真面目な子も大好きですが、まともな人の思考を考えると疲れるので、しばらくはクズとの反復横跳びで乗り切っていこうと思います。