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普段とテイストの違う物に挑戦したくなりました。流血や殺人など残酷シーンはないミステリー物です。


※一部の方に対する偏見や差別的表現がございます。ご注意ください。




「ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。隣の202号室に越してきたハシモトです。よろしくお願いします」


 粗品を持って俺の部屋を訪ねて来たその子は、まっすぐな黒髪を揺らし、今時の子にしては珍しい丁寧な挨拶と共に頭を下げた。


 顔を上げると、濃いピンクのアイシャドウに彩られた大きな瞳と視線が合う。ハシモトと名乗ったその子は、首元にリボンタイがついたフリルでいっぱいの白いブラウスに、『不思議の国のアリス』のイメージなのか、パステルピンクにトランプの黒いスートがあしらわれたスカートをはいていた。

 

 女子らしい甘さを強調し過ぎで、見ているだけで胸焼けがしそうだなと思ってしまった。とはいえ、華奢な体格や少し童顔な彼女の雰囲気とは合っている。


「俺は冴島さえじまです。えーと、大学生だよね」


「はい。この四月からの新入生です」


「俺も大学生だよ。城ノ台大学(しろだい)で春から二年。この辺だと聖華? 商科? 医療短大? もしかしてウチの大学?」


 近隣で知っているだけの学校名を並べ、最後に自分が通う大学を挙げる。とはいえ、質問しながらも「うちの大学のカラーじゃないな、この子」とは思っていた。


 ウチの大学にいる女子はモラトリアム目当てではなく、学ぶことを心から楽しんでいる真面目というか、よく言えば職人気質、もしくはオタク系の子がほとんどだ。もちろんファッションにこだわりのある子はいるが、肩で風切って歩きそうな女子ばかりで、ハシモトさんのようにフワフワしたお嬢さん風な子はめったに見ない。




「えーと……大学はここから三十分以内の場所です」


 困惑と共に返ってきた曖昧な答えに、女の子に対し矢継ぎ早に質問し過ぎたことに気づく。個人情報にうるさい昨今だ。今日出会ったばかりの隣の男に、あれこれ詮索されたくないのは当然だ。


「そっか。中途半端な田舎だから遊ぶとこはあんまりないけど、贅沢言わなければ、生活に必要なものは徒歩圏内で揃うから便利な場所だよ」


「はい、一人暮らし初めてだから楽しみです」


 あっさりと俺が納得したことに安堵したのか、ハシモトさんはほっとしたように笑った。俺も女子大生から、怪しい隣人に認定されなかったことに胸を撫で下ろす。


「たまに友達とか彼女が遊びに来るから、うるさかったら遠慮なく言って」


 念のため『彼女持ち』であることをアピールし、安全性を印象付けておく。


「こちらこそ、何かあったら教えてください」


 最後にまた丁寧に頭を下げて、ハシモトさんは帰って行った。




 ドアを閉め振り返ると、ちょうど昨夜から家に泊まっていた彼女が洗面所から顔を出した。その手にはヘアアイロンがあり、いつもはストレートのボブの毛先がくるりと丸まっていた。


「お隣の部屋、新しい人入ったんだ。ナオトくんずいぶん前のめりだったね。そんなに可愛かった?」


 からかうような口調だったが、ここで調子に乗っていらないことを話すとロクなことにならない。いかにも女の子らしいカワイイ子でした、などとは言えず適当に濁す。


「……なんか毛玉が付きそうな、モコモコしたピンクのルームウェア持ってそうな子だった」


「あはは、なにそれ」


 笑いながら再び洗面所に消えていく彼女に、どうやら答えは正解だったと思い知る。


 ふいに薄い壁を通して、隣の部屋の会話が聞こえた。


『アリサ、このカラボってテレビの横でいい?』


『あ、待ってケイくん! 白いのはベッドの脇に置きたい』


 ハシモトさんの部屋には、もう一人誰か男がいるらしい。下の名前アリサっていうのかとか、荷ほどきに駆り出された兄弟……いや彼氏という可能性もあるかとか、一瞬で色々な考えがよぎる。




 洗面所で、春らしい桜色のリキッドルージュを塗っていた彼女の元へ向かう。もやっとした感情を拭うように、彼女の瑞々しそうな唇に触れるようなキスをする。「もぉー」と呆れたように笑いながら、彼女は俺の唇を人差し指でぬぐった。


「朝から何してるの? 口紅ついちゃったじゃん」


「時間関係ある? 真面目だな、『杉下女史』は」


 その呼び名に彼女は鼻に皺を寄せた。


「……それ、やめてってば」


 何日か前、夜のファミレスで彼女の元同級生だという男子グループと行き会った。その時呼ばれたあだ名が、苗字に『女史』という古風な呼びかけを付けたものだった。


「私、高校の頃は理系コースだったから、男子はオタク系のノリの人たちが多くて、変な呼ばれ方されてたんだよね」


「ちょっとわかる。理系っていうか、オタクだらけだと変なテンションが当たり前になるよな。うちの学部もそんな感じだし」


「やっぱり『なんとかでござる~』とか『デュフフ』って言うの?」


「ノリでは言うかも」


「ウソでしょう!?」




 涙を浮かべて笑っている彼女の脇を通り抜け、玄関のフックに掛けてあった針金ハンガーからコーチジャケットを手に取る。


「どこか出掛けるの?」


「うん、いつもの整形外科。昼までには戻るから、その後どっか昼飯食べ行くか」


「膝の具合まだ悪いんだ」


「あー……ちょっと違和感があるくらい。もう自転車に乗るのは支障ないよ」


「まだあの仕事続ける気? ホームセンターのバイトだけでいいじゃん」


 大学入りたてで始めたホームセンターのバイトの他に、去年の秋から俺はアプリ登録制のフードデリバリーで配達員をしている。元々自転車に乗るのは好きだったし、気が向いた時にできる手軽さもあって、いい小遣い稼ぎになっていた。


 ところが一か月ほど前、悪質なトラックに煽られ、縁石に乗り上げて転ぶ事故に遭ってしまった。幸い転んだのは歩道側で、配達帰りだったこともあり誰にも迷惑はかけなかったが、俺は左膝を強打する羽目になり病院通いだ。


「……まあ、そのうちな」


「そんなこと言ってると、いつか大きな事故に巻き込まれるからね!」


 わかってはいるが、趣味と実益を兼ねた悪くない仕事だ。俺は靴紐を結びながら、どうしたものかと考えあぐねていた。




 外に出ると、アパートの一室からくぐもった叫び声が聞こえてきた。


『猫になりたいぃぃ!! いっそ猫になりたいのぉぉぉお!!』


 ああ春だなと、俺はしみじみ思いながら、ドスンドスンと何かを床に叩きつける音が響くドアの前を通り過ぎた。






 ※※※※※※※※※※






 うだるような夜の熱気から逃れるため、手早くアパートの鍵を開けると、冷気と共に除光液の臭いが漂ってきた。リビングでは彼女が両手のネイルポリッシュを落していた。テーブルの上には水色に染まったコットンが散らばっている。ここ最近のいつもの週末の光景だ。


 ジェルネイルとかいうのにすればいいのにと言ったら、『うちの院長は頭古いから、控えめな色でも看護師がネイルしてたら怒られちゃう』と返された。


「おかえりー、ナオくん」


「ただいま。マアちゃん、それちょうだい」


 彼女の前に置いてあった、汗をかいたグラスの中身を飲み干す。麦茶かと思ったらウィスキーの水割りだった。思いがけないアルコール臭にむせると、彼女に笑われた。


 安アパートの壁を通して202号室の橋元 亜里沙ありさの部屋から、テンポの良い楽曲と、女の子のはしゃぎ声がまばらに聞こえてくる。友達が来ているようだ。聞こえてくる曲に合わせて、頬を赤くした彼女が小声で歌っている。


「懐っ……これ『めいぱにゃ』の曲だよな」


 七、八年くらい前に歌い手としてキャッチ―なメロディと歌詞で、中高生を中心に流行った歌手だ。『めいぱにゃ』はその翌年メジャーデビューを果たし、今はもう少しまともな芸名で活動している。


「うそっ。私の中ではまあまあ最近なんだけど」


「小学生の時の曲は懐メロでしょ」


「ええー……」


 彼女が口の端を持ち上げて、嫌そうに顔を歪めた。




 俺がシャワーを浴びてリビングに戻ってくると、にわかに亜里沙の部屋から聞こえる笑い声が大きくなった。甲高い女子の声はそれほど大きくなくても、木造アパートにはよく響く。


「あっちの部屋盛り上がってるね。飲み会かな?」


 足元に置いていたウィスキーの瓶を持ち上げて、彼女がいたずらっぽく笑う。


「混ぜてもらおっか?」


「女子大生の飲み会だぞ。カシスオレンジとかカルーアミルク飲んでるって。本格的な呑んべい、ドン引きされるからやめとけ」


 それもそっかー、と彼女が笑った。


 またふいに隣の声が大きくなった。『亜里沙、亜里沙!!』と切羽詰まったような声と、『うそ、やだっ!!』と悲鳴なような叫び声が響き、思わず彼女と顔を見合わせる。


「ゴキブリでも出た? それともホラー映画の鑑賞会とか?」


「さあ。でももういい時間だし、静かにしてって頼んでくるか」


「そうだね。明日は早めには出たいし」


 俺たちは明日少し足を延ばして、近県の水族館に行く予定だった。


 時計を見ると二十三時を回るところだった。アパートの規約でも二十一時から七時までは、音の大きい家電などは使わないようにとあった。学生の一人暮らしがほとんどのアパートとはいえ、常識的には静かにするべき時間だ。苦情を言っても、神経質というほどではないだろう。






 女子集団の中へ乗り込むのは緊張したが、俺は意を決して隣の部屋を訪ねる。玄関チャイムを鳴らすと、急に中の人の気配が途絶えた。ウチのアパートは今時珍しい、呼び出し音だけのチャイムだ。住人の中には防犯上の理由で、インターホンやカメラを自費で付ける人も多いが、亜里沙の部屋は引っ越し当時のチャイムのままだった。


 俺はあえてドアスコープからよく見えそうな位置に立つ。ゆっくりと開いたドアから顔を出したのは、グレイアッシュの長い巻き髪に、肌の露出が多いオフショルダーの黒いTシャツという、亜里沙とは真逆なファッションセンスの女の子だった。いかにも気の強そうな女子の不信感でいっぱいな視線に、俺はなんと言っていいのか戸惑う。


「あ、冴島さん」


 巻き髪女子の後ろから亜里沙が顔を出した。見知った顔に俺はほっとする。亜里沙が部屋の奥に向かって『お隣の人!』と叫ぶと、息を飲むような気配が消え、女子たちが会話を再開した。


「こんばんは。夜分にゴメン、あ――」


 俺はとっさに『亜里沙』と呼びかけそうになって、口を閉ざす。いつの間にか心の中で彼女を名字でなく、亜里沙と呼んでいたことに気づく。ただの隣人でありながら、馴れ馴れしく下の名前で呼んでくる距離感のない男になるところだった。


「――橋元さん、もうちょっと声落してもらっていい? 彼女が早めに寝たがってるんだ」


 いつもの彼女が部屋にいるから怪しくないです、妙なことはしませんよアピールは忘れない。


「やだ、ごめんさいっ!」


「すみません、ご迷惑おかけして。私たちももうお開きにします」


 慌てて頭を下げる亜里沙の隣で、巻き髪女子が意外にも丁寧な言葉遣いで謝罪する。


「こっちこそ、楽しんでるところ邪魔しちゃってゴメン。――じゃあ」


「ちょっと待ってください」


 そそくさと帰ろうとする俺を引き止め、巻き髪女子が橋元さんに言う。


「亜里沙、聞いてみたらいいじゃん、さっきの話」


「あ、そっか」


 はっとしたような表情を浮かべた橋元さんが、巻き髪女子と場所を入れ替わる。




「冴島さん、205号室の方って知ってますか?」


「205? ……ああ、甲斐くんね。たまに話すけどなんで?」


 205号室の住人、甲斐かい 貴文たかふみ。俺と年齢も学年も同じで、背が高く愛嬌のあるなかなかのイケメンだ。大学は違うが同じ理系学生ということもあって、住人の中では仲がいい方だ。


「どういう人なのかなって……。私がゴミ出しの時によく会うんですけど、『それ重いでしょ』って、こっちが答えるまえにさっとゴミ袋を持って行っちゃったり。あとこの間、駅の中で肩をポンって叩いてきて、急に自分の話し始めたり……ちょっと独特の距離感の人ですよね」


「まーね。でも甲斐くんは、俺とか他の住人にもそんな感じだよ」


 彼は子供の頃からサッカーをやっていて、今も大学でフットサルサークルに入っていると言っていた。あの体育会系特有のノリ、確かに初見の人間はびっくりする。ましてツラが良いとはいえ、長身の男にベタベタと付きまとわれては、橋元さんのような女子が脅威と感じてもおかしくない。


「あの人は誰にでも距離感バグッてるだけで、悪気は全然ないんだよ。もし苦手だったら、俺からそれとなく注意しておくよ。もちろん橋元さんの名前は出さないから」


「すみません、気を遣っていただいて。――それともう一ついいですか?」


「うん?」


「ハッキョウさんって何ですか?」


「……誰から聞いたの、それ?」




 重いため息をつく俺に、何を思ったのか亜里沙の表情が硬く強張る。なんだかホラー映画の導入部みたいだなと思った。


「お隣の設楽したらさんです。何日か前に玄関先で行き会った時、『橋元さんはハッキョウさん好みだから、気を付けた方がいいよ』って言われました。このアパートに住んでる人ですか?」


「ったく、設楽先輩はしょうがねーな……」


 201号室に住む、俺の大学の先輩でもある設楽先輩は、冗談好きで楽しい人だが、しょっちゅう酒を飲んで酔っぱらっては、事を大げさにする悪癖がある。ついでに今年で留年三年目だ。


「《発狂さん》が橋元さんを襲うとかはないよ。……あそこにちょっとドアがへこんだ部屋あるじゃん?」


 俺は声をひそめながら、自分たちの部屋の並びにあるドアの一つを指さす。


「あそこに住んでる人、学生じゃなくて三十代のオッサンなんだよ。十年以上実家で引きこもりやってたみたいで、無理やりココに放り込まれたんだって。親から仕送りは受けてるらしくて働いてないし、めったに部屋から出てこないんだけどね。たださ、去年越してきてすぐにちょっと騒ぎになったことがあって――」




 あれは忘れもしない、俺がこのアパートの住人になって一か月ほどたった頃だった。夜の日付も変わる頃、《発狂さん》の部屋から最初は壁を殴る音や、『おいゴルァ!』や『ぬわああん!!』などと意味のない叫び声が聞こえてきた。段々その内容が『火ぃ付けに行こっかなあ!!』とか『殺してやんよ!!』などと物騒になってきて、『さすがに警察呼ぶ? 』と、騒ぎに驚いて表に出てきた住人同士で相談したことがあった。


 結局、俺と設楽先輩と甲斐くんの三人が代表して、《発狂さん》の部屋を訪ねた。意外なことに《発狂さん》はすんなりと姿を現した。不摂生な中年と聞いていたので、腹の突き出たデブを想像していたが、背も小さくひ弱な中学生みたいな体格で、頭だけが禿げ上がっていた。


 注意する俺たちに《発狂さん》は『つい昔の嫌なことを思い出して……』と平身低頭で頭を下げた。年上の男性が青ざめた顔で恐縮する姿に、さすがに俺たちもそれ以上はきつく言えなかった。


 やがて騒ぎを聞きつけた大家のおばさんが現れ、念のため部屋の現状を確認したいと、俺たちと共に《発狂さん》の部屋に入った。週に一度母親が家事をしに来るというだけあって、男の一人暮らしにしては意外と片付いていた。


 ただ壁や床のあらゆる所がボコボコで、ロリータ物の漫画が置かれていた。俺たち男は気を遣って目を逸らしたが、大家さんは『こんな破廉恥な本を隠し持ってるなんて、警察に通報するわ!』とヒステリックにわめき散らした。庇う義理はまったくなかったが、同じ男として赤の他人に性癖を暴かれるという辱めにはさすがに同情した。『一応違法ではないから』と大家さんを取りなすのが大変だった。


 大家さんは部屋を滅茶苦茶にされたこともあり、『あんな変態追い出してやる!』と怒り狂っていたが、最終的に《発狂さん》の親が金を積んで解決したらしく、彼は今も同じ部屋に住んでいる。後日アパートの全部屋に《発狂さん》の母親が菓子折りを持って謝りに回ったこともあり、騒ぎはとりあえず解決した。


 それ以来《発狂さん》は昼間に叫んだり、物を投げつけたりする様子はあるものの。その言動は以前より遥かにましになった。それ以上の害はなかったし、「まあ、そういう人なんだろう」と住民一同は生暖かく見守ることにした。




「《発狂さん》は確かに特殊なご趣味があるみたいだけど、犯罪ではないし、別に橋元さんがあの人の好みってわけじゃ全然ないから。むしろ女子にイジメられた経験があるから、女の人とは目も合わせられないって話だよ」


 あの日ちらりと見たエロ本はすべて漫画で、女子は小学生風に描かれていた。いわゆる二次元にしか興味がないタイプなのだろう。それに橋元さんは童顔ではあるが、子供に間違いようはない。


 さすがに俺の口から女性に、《発狂さん》の性癖についてくわしく説明するつもりはなかった。どちらにせよ設楽先輩が言ったことはタチの悪い冗談で、彼女が気に掛ける価値もないだろう。


「とにかく珍獣レベルで姿も見せない人だから、あんまり気にしなくていいんじゃないかな。あと設楽先輩の言うことは、今度から話半分くらいで聞き流しなよ」


「そ、そうだったんですね。設楽さんが急にそんなこと言うから、私もびっくりして聞き返せなくて……。でも今の話を聞いて安心しました」


「そう、それならよかった。何か他に心配なことはない?」


 その時、亜里沙は少しぎくりとした表情で俺を見た。


「あ……あの」


 その時、後ろで俺たちの話を聞いていた巻き髪女子が、亜里沙の肩を叩く。


「亜里沙、もう遅いから終わりにしよ。私は泊っていくけど、ユカたちは終電あるし」


「う、うん、そうだね」


 何か亜里沙が言いかけた言葉を、友達が引き止めたように見えた。とはいえ、たかが隣人の俺が知り合って間もない女子大生の事情に立ち入るのも変だ。正直トラブルに巻き込まれるのもやっかいだし、無理やり聞き出す必要性も感じなかった。


「じゃあ、俺はそろそろ行くね。おやすみ」


「色々ありがとうございます。今日は本当にすみませんでした」


 頭を下げる亜里沙に見送られ、俺はさっさと女の園から退散する。

  





「遅かったね。どうだった、女子大生の部屋は?」


 部屋に戻ると彼女がキッチンで洗い物をしていた。


「イヤらしい言い方すんな。なんかこっちが申し訳ないくらい謝られたよ。あと近所の人についてちょっと聞かれた」


「で、女子大生たち何で悲鳴上げてたの?」


「そこまで聞かなかった」


「えー、気になるぅー」


 俺は強張った肩を回し、大きくあくびをした。


「俺もう寝るよ。今日は店に男手が少なくてさ、久しぶりに重たい物ばっか運ばされたんだよね」


「配達の仕事の方は結局やめちゃったんだっけ?」




 先月、膝を怪我した時と同じような状況でまた車に煽られた。今度は転びこそしなかったが、わざと特徴的な配達バッグを持った自転車に嫌がらせをする車もあると知り、さすがもう無理だなと思った。


「あれはフードデリバリーだから、荷物自体はたいして重くなかったよ。でもあの仕事辞めてからあんまり自転車乗らないし、運動不足にはなったかも」


「そういえば、駅前にできる新しいスポーツジムの広告入ってたよ。フィットネスバイクとかやれば?」


「今まで自転車乗って金もらってたのに、金払って乗ったらなんか損した気分じゃん」


「あ、これだった」


 彼女が丸まった広告を開き、中に包まれていた枝豆の皮をキッチンのゴミ箱に捨てる。


「ほら、今なら入会金と手数料がタダで、学生は三か月間会費も半額だって。……私も行こうかな」


「へー」


 興味ないなと思っていたが、じっとりと湿った広告に表記されていた破格のキャンペーンに俺の心はちょっと動いていた。






 ※※※※※※※※※※






 今日も換気扇を通じて、《発狂さん》の『やっちゃうよ? やっちゃうよ!?』という叫びがかすかに聞こえてくる。俺はインスタント麺の具材にするキャベツを刻みながら、スマホから流れる曲に合わせて鼻歌を歌っていた。


「――ハロー、リリ。そのクソみたいな曲止めて」


 後ろを通りかかった彼女が俺のスマホに話しかけた。持ち主である俺の声しか登録していないので、バーチャルアシスタントは起動しなかった。彼女も同じ機種のスマホを使っているのでそれはわかっているはずだ。あからさまな当てつけに、俺は無言でトースターの上に置いてあったスマホに触れ、曲を止める。


「それ『早川メイナ』の曲でしょ。こういう甘ったるい媚びた歌い方嫌いなんだよね」


「はいはい」


 わざとらしい不機嫌アピールに、「生理かよ。めんどくせーな」と絶対に口には出せないことを、心の中で毒づく。




 今日は友達から車を借りて、彼女と県内でも有名な紅葉スポットに行ってきた。ところが帰り道で渋滞にはまり、それ以降彼女はずっと機嫌が悪い。俺だって彼女を楽しませたかったのに、どうしようもないことで責められてはさすがに腹も立ってくる。


 リビングにマットを敷いた彼女が耳にイヤホンをはめ、不思議なポージングを始めた。


「それヨガ?」


「違う。ピラティス」


「ふーん」


 スポーツジムに通うまで知らなかった言葉だ。受付で『メンズピラティス、最近流行ってますよ』と新しいプログラムに誘われたが、話を聞いてもあまり興味は湧かなかった。どちらかと言えば、筋トレマシーンでガッツリと筋肉をいじめ抜く達成感を味わいたい。


 彼女はゆったりとした、それだけにインナーマッスルに効きそうなトレーニングを二十分ほど続けた。やがて彼女がマットを片付けるタイミングを待って、俺はインスタント麺をテーブルに持っていく。




「またインスタントかあー。まあ野菜入れてるだけ偉いけど」


 わざとらしく眼前に麺を持ち上げ、上から目線で評論する彼女を無視して、俺はラーメンをすする。


「そういえば、さっきお隣の子がくれたブドウはどうしたの?」


「冷蔵庫。もう面倒だから明日でもいい?」


 山梨の実家から送られて来たというでっかいブドウは、大きくない冷蔵庫の中を占拠していた。


「半分家にもらっていってもいい?」


「どうぞ」


「最近果物高いよねー。ありがたいけど、私あの子は苦手」


「なんで? 良い人だよ」


「だからぁー、その人の良さそうな笑顔が胡散うさん臭いの。目が笑ってないっていうか」


「なんだよ、それ……」


 完全な言いがかりとしか思えない。俺はモヤモヤした気持ちと一緒にラーメンの汁を飲み込む。




 丼ぶりに浸かりそうになっている髪をかき上げ、彼女が何か思い出したようにニヤリとわらった。本人は気づいていないのだろうが、趣味の悪い話題を予感させる歪んだ笑みだ。


「そういえばさっき、外に五十歳くらいの男の人が合鍵でドア開けて、『アリサちゃん、上がるよー』って呼んでたんだけど、あれってパパ活かな?」


「それ多分リアルパパだよ。熱があって寝込んでるって聞いたから、差し入れでも持ってきたんだろ」


「えー、でも普通そういうのって母親とか姉妹に頼まない?」


「――真奈まな


 俺は少し強い口調で彼女の名を呼んだ。


他人ひとんちの事情はそれぞれだろ。くだらねえ詮索するなよ」


 以前彼女は小学生から片親で苦労したと言っていた。両親がそろっている家庭にはない不便さは誰よりもわかっているだろう。それなのに、他人の家の事情は小馬鹿にするのかとイライラした気分になる。




 俺が不機嫌なのに気づいたのか、彼女が少し鼻白む。しばらくしてから、話を逸らすように話題を変えた。


「私も実家の人用にスペアキーもう一個作ろうかな」


「なんで?」


「だって私が病気しても、ナオトじゃインスタントしか作れないでしょ。熱出してる人にレトルトカレーとか出してきそうなんだもん」


 それじゃダメなのかよ、と思いつつ、料理は苦手なので特に反論はできなかった。


「合鍵ってホムセンで作れるよね。やって来てよ」


「お前んちディンプルキーじゃん。うちのバイト先じゃ作れないよ」


「なにそれ?」


「溝の構造が複雑なんだよ。防犯性は高いけど、専門店かメーカーじゃないと合鍵は作れないよ。俺が前に注文したときは仕上がるまで一週間以上かかったし、値段も五千円くらいだったかな」


「ええ! そんな高いの?」


 俺は食べ終わったラーメンの丼ぶりをシンクに持っていくついでに、玄関からキーケースを持って来る。俺の部屋と彼女の部屋の合鍵がぶら下がっていた。


「ほら、比べるとだいぶ違うじゃん? ウチのアパートみたいな、こういう片側だけにギザギザが付いたピンシリンダーなら、ホムセンで十分もあれば複製はできるけど」


「へぇ、なんか専門家っぽいね。さすが理工学部」


 そこ関係ねえよと思いつつ、ふと思い出す。




「ああ、明日大学の友達と飲み会だから」


「またぁ? 最近多くない? まさかキャバクラとかにハマってないよね?」


「あるわけないじゃん。何だよ急に」


「だって男友達と飲みいくわりには、服とかこだわってるし……」


「いつもと一緒だよ。変な勘繰り止めろよ」


 また険悪な雰囲気に俺はこっそり息をつく。付き合い立てはノリが明るく、サバサバした彼女と一緒にいることが楽しかった。でも最近は我の強さや、攻撃的な性格が鼻につくようになってきた。正直、この付き合いも長くないだろうなと思い始めている。




「お風呂入って来るね」と言って、彼女はテーブルに食べ終わった丼ぶりをそのまま、リビングから出て行った。俺は手元にあったスマホに話しかける。


「――ハロー、リリ。面倒くさい彼女と円満に別れる方法教えて」


『スミマセン ソノ オ手伝イハ デキマセン』


「ですよねー」


 返ってきた無機質な音声に、そう遠くないうちに訪れるだろう修羅場の予感を覚え、俺は力なくうなだれた。


「……やっぱ自力で頑張るしかないか」






 ※※※※※※※※※※






「さっむ……」


 来客を見送った俺は、小雪が舞う空の元で身を震わせる。


 今日も風に乗って《発狂さん》の『生きててええーごめんなさーいぃい!!』『疲れたもおおおおんー!!』と叫ぶ声が聞こえてきた。天気が悪い日が続くと気が滅入るのか、ある意味今日も絶好調だ。




 アパートのドアを閉めると、さっき客人から受け取った有名和菓子店の小箱を眺める。重さからして安価な煎餅せんべいだろう。リビングに戻ると、彼女がコタツでテレビを見ていた。小箱をテーブルの上に置くと、彼女の横に体をねじ込むようにコタツへと潜り込んだ。


「もぉー狭いよ。反対行けばいいのに」


 満更でもなく笑う彼女に、両手をコタツに突っ込んだ俺は顎で小箱を示す。


「それあげる。その店のザラメのついた煎餅苦手なんだよね」


「どうしたの、これ?」


「さっき隣の人がくれた。大学やめるから地元に帰るんだって」


「ええっ! もったいない」


 俺は彼女に顔を近づけてコソっと話す。いくら騒音が筒抜けの安アパートとはいえ、さすがに普通の声量の会話までは聞こえないが、一応隣に住んでいる人の裏事情なので気分の問題で声を落す。


「ここだけの話な。お隣さんサークルの部費盗んで、警察沙汰になったんだって。本人は単位落して留年が決まったからって言ってたけど、絶対そのせいだと思う」


「良い子ちゃんぽいのに、人は見かけによらないね」


「それな」


「しかもあの人の通ってる聖華大学って学費高いんでしょ? 親御さん泣かせじゃん」


「何で大学知ってんの?」


「え、普通に教えてもらったけど。前に合鍵忘れちゃって、ナオトがバイトから帰って来るまで外で待ってことあったでしょ。その時にお隣さんと会って、ちょっとおしゃべりしたんだ」


「ああそう……」


 俺の家の隣人と俺の知らない所で、俺よりも親しくなっていたことにちょっと憮然とする。彼女は普段から赤ちゃん連れの母親や犬の散歩をしている人に、「わあ、カワイっ!」と平気で話しかけるタイプなので、あり得なくはないが。




「そういう事情なら、引っ越すしかないか……」


 言いながら、彼女は小箱から包装紙を剥ぐ。その爪先でキラリと光るものが目についた。


「それってジェルネイル?」


「うん、前は仕事で長い爪は禁止されてたから。初めてお店でやってもらったんだ」


 彼女は嬉しそうに両の指を俺にかざして見せる。季節をイメージしたのか、赤を基調にしたチェック柄に、ライトストーンで飾られたダークグリーンと何とも毒々し――華やかだ。


「どうかな?」


「いいんじゃん、クリスマスっぽくて。でも意外。そういうのすっごく好きそうなのに、初めてやったんだ」


「え?」


「だって前にキャバクラで働いてたって言ったじゃん。ああいう人らって、やたら派手な爪してるイメージあるんだけど」


「あ、ああ……うん、まあね」


 明らかに動揺し、視線を逸らせる彼女に俺は少し憐みを覚える。


「でも、ほら……派手なネイルって、好きじゃないって男の人も多いでしょ?」


「それもそうか」


 俺はさらりと納得した素振りで、何気なくテレビのリモコンに手を伸ばす。彼女が言いたくないのなら、無理に聞き出すつもりはなかった。




「待って!」


 彼女がリモコンを持つ俺の手を押さえた。


「ごめん。やっぱり、黙ってるのズルいと思うから話させて」


「……本当はキャバクラじゃなくて、ソープで働いてたことか?」


 彼女が驚きに大きく目を見開く。


「なんで知ってるの?」


「前にうちの大学の近くでハンバーガー食べたじゃん。あそこのキッチンで俺の先輩がバイトしてて、俺たちが一緒にいるのを見たって教えてくれた。その人、福岡出身なんだ」


「……そういうことかあ」


 引きつった唇を持ち上げ、彼女が力なく笑う。


「その人、私のお客さんだったのかな。パネルの顔出しは口元だけだったし。――同じお店の子がね、やり直すなら東京は意外と知り合いに出くわすから、縁もゆかりもない地方都市の方がいいよってアドバイスしてくれたんだ。……でもやっぱり悪いことはできないね」


「悪くはないだろ。真面目にやり直すことの何が悪いんだよ。それにだらしない理由で、そういう仕事をするとは思えない」


「……話したことあったっけ? ウチの親けっこうな毒親で、高校卒業したら知り合いの会社に入れられて、給料も全部取り上げられてたんだよね。逃げ出すには風俗で働くしか思い浮かばなくて……あと、いつか大学に行きたいって夢もあったし」


「大変だったんだな……」


 ぬくぬくと親のすねをかじって、生活費の大半や学費を払ってもらっている俺に、彼女を批判する資格がないのは当然として、下手な慰めの言葉すらおこがましいと思えた。




 彼女の青ざめた頬に、はらりと涙が流れる。


「ごめんね……ごめんね……こんな汚い女はヤだよね」


「バカだな。そんなこと思わないよ」


 俺は彼女を引き寄せるように抱きしめて、その頭を撫でる。震えながら体温を求めるようにすがりつく姿が、まるで雨に打たれた仔犬のようで憐れで、同時に愛おしかった。


「お願い、見捨てないで……別れたくないっ……」


「大丈夫だよ。そんな事考えてないから」


 倦怠期というのだろうか、実を言えば、些細な価値観の違いなどで彼女との別れを考えたこともあった。だがそれも過去の話だ。大きな山場を乗り越えたことで、俺たちの関係は一段深い物になった気がした。


 身を預けた彼女が、泣き腫らした目で俺を伺うように視線を上げる。無垢でありながら、泣いて潤んだ瞳はどこか艶っぽかった。体の上に乗り上げるように抱き着かれ、二人同時に座布団の上に倒れ込む。思わず顔を見合わせて一緒に笑った。その笑顔に敵わないなと思った。











 2023/07/23 誤字修正



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