遥か遠くけれども近しき故郷
近くにいた時は気付かないくせに大切なものは失ってから気付く、なんてのはよくある話だ。
そしてクラエスもまたそうだった。
クラエスはコレットが自分にとっての特別な存在になっていた事を自覚しないまま、彼女は何があっても自分の元を離れる事がないと信じて疑ってすらいなかった。
そんなはずあるわけがないのに。
仮に夢を見る乙女のような気持ちをコレットが抱いていたとしても、夢はいずれ覚めるものでそしてそれはクラエスの手によってあっさりと訪れた。
彼がチームから追い出すような事をしなければ、きっとコレットは今も夢を見たままだったのかもしれない。行くアテのない自分に居場所をくれた人。盲目的に信じて信じ続けていたに違いないのだ。
けれども彼はそうと気付かず彼女を解放してしまった。
行くアテがなくなってしまったコレットは嫌でも現実に目を向けなければならない。
その隙をセルジュ達は突いたに過ぎないのだ。
セルジュ達のチームの中で誰よりも身体が大きなルグノアであるけれど、その実チームの中では最年少である。彼はとある深い森の中で暮らす部族の出であった。
深い森の中は実りも多かったけれど、その森に同じく集落を作っていたエルフと度々争う事があった。
同じ森で暮らす者同士、仲良く……というのが理想なのかもしれないが、エルフはルグノアの一族を低俗で下賤な者と蔑んでいたし、一族の大人たちはエルフを高慢で森の恵みへの感謝も薄れてしまった穢れた種族であると罵っていた。
常に争っていたわけではないが、時々思い出したかのように森の中で争いが勃発する。
とはいえ、それでもお互い蛮族であるとは思っていないので最低限の流儀だとかが存在していた。
森の中で争うにしても、武器を持たぬこどもは襲ってはならない。
抵抗もできない幼子を殺すまでしてしまえば、流石にそれは外道の所業だとお互いが認めていた。流石にそこまで堕ちた覚えはお互いに無いのだ。
ルグノアの一族もエルフたちも、お互いがお互いを気に入らないと思ってはいても、敵を根絶やしにするために手段を選ばないというところまではいってなかったのである。
大人たちはお互いを嫌い合っていたけれど、こどもたちはまだそこまででもなかった。
とはいえエルフは長命種族。人間であればとっくに大人だろう年齢になってもまだ幼子であると言われる種族だ。そしてルグノアは実際年齢はまだ年端もいかないものであったけれど、その時には既に身体が同年代の子よりも一回りや二回りほど大きく育ってしまっていた。
結局のところ、こどもは狙わないなんてお互い取り決めていてもどこからどこまでをこどもと見なすべきなのか――そんな細かな部分をお互いに取り決めたりはしていなかった。自分たちの集落や里での常識が相手にも通用するものだと思い込んでいた。
その結果、エルフの子らは部族から見れば大人扱いであったし、実年齢がどうであれ身体はすっかり大きくなってしまったルグノアはエルフから見ればもうすっかり一人前だと思い込んでしまっていたのである。
こどもは狙わない、なんてお互いに取り決めていたとしても、そんなものは何の意味もなさなかった。
まだ幼かったルグノアは森の中で突然狙われたし、同じく幼いエルフたちもまた同様に襲われていた。
最初にどちらが手を出したか、なんてのはその頃にはもうどうでもよくなっているくらいに争いは激化してしまった。
結果としてエルフの里は壊滅寸前まで追い込まれ、ルグノアの一族もまたほとんどが命を落とした。
そして命を落とした者の中にはルグノアの姉もいた。
まだ幼いルグノアを庇って死んだ。端的に言えばただそれだけの話だ。
けれども姉が死ぬ必要があったとはルグノアは到底思えなかったし、こどもを狙う事はないと集落で言われていたにも関わらず自分は狙われた。エルフというのは思っていた以上に野蛮な種族だとルグノアの中で思い込むには充分すぎる出来事でもあったのだ。
一族のほとんどが死に絶えて、一族の中で誰よりも頑丈だったらしいルグノアは生き延びてしまった。
それから先の事はあまり覚えてはいない。
ただ、弓を手に森の中を彷徨って目についたものを手当たり次第に射抜いて。
まだ生きていたエルフも、森の中で暮らしていた動物も、魔物も、迷い込んでしまった旅人も。
目についたもの全てを射抜いて。射ち落として。
その中で仕留め損ねたのが、セルジュ達だ。どういうやりとりを行ったかさえルグノアの記憶は朧気ではあるけれど、それでも彼はセルジュ達と共に冒険者として活動する事になってしまった。
それを良いとも悪いとも思ってはいない。
ただ、あのままあの森の中で朽ちていくにしても、そうなれば折角助けてくれた姉の命を無駄にするかもしれないと思っただけで。明確な目的など何もないままに、流されるように。
あまり深入りしてこないけれど突き放すでもない丁度良い距離感は、そういう意味でルグノアにとって居心地は良かった。
ルグノアにとっての世界とは、薄い膜一枚隔てたような、どこか遠い世界を垣間見ているようで。仲間と認識しているのはセルジュ達だけ。それ以外の生命はどこか現実感のないお伽噺の登場人物のようで。
彼は周囲を拒絶していたし、周囲もまた彼に関して容易に踏み込めない。
そんな中、例外が現れた。コレットである。
ルグノアは別に他の者たちのように胃袋を掴まれたわけではない。
故郷で食べたものなんて大体森で得られるもので、別段珍しくもなんともないし特別なご馳走なんてものもなかった。そもそも故郷を出てからというものルグノアにとっての食事はただ生きるための栄養を補うためのもので、それ以上でも以下でもない。
ただ、コレットの一挙手一投足が。
何故だか姉と重なって見えた。
そうだ。家の中で母の手伝いをして、家事をしている時、ふとした瞬間こちらに気付いて目を細めて笑う姉に、自分も何か手伝う事はないかと問いかけて――
そんな懐かしい思い出。それがふと蘇って、気付けばコレットにも同じように手伝いを申し出ていた。
元々口数が多い方ではなかったルグノアではあったけれど、姉はそれでも彼の言いたいことを拾い上げるようにしてくれていた。
そしてコレットもまた似たように、彼の言いたいことを察してくれていた。
コレットの察しの良さは単純に仲間たちやクラエスの身の回りのことをやって顔色窺ってるうちに身に着いただけではある。ルグノアの姉は森の中で狩人としても活動していたので、そういう意味では違うのだけれど。
コレットが姉などではない事なんて勿論ルグノアも承知している。
けれども、それでも。
彼女の隣にいると、姉と一緒にいるような、そんな気持ちになるのだ。
もう帰る事もないだろう故郷の、失う前のあの温かい日々。
失ってしまった故郷は、しかし彼女と共に在る。
彼女の中に姉を見出してしまってからは、彼女と共に囲む食卓というものがとても尊く思えた。もういない家族との思い出が、ルグノア本人も忘れていたような些細な出来事が、コレットと共にいるとふとした瞬間思い出されるようになってきて、そしてようやく帰ってきたのだ、と何故だかそう思うようになった。
もう滅びて何もないはずの故郷ではあるけれど。
しかしまだ、ここに残されていた、と思えるのだ。
コレットはルグノアの故郷と何一つ関係しているはずもないのに。
けれども確かにルグノアにとってコレットの近くは故郷にも等しくて。
だからこそ、セルジュ達がコレットをチームに引き入れたいというその意見には反対する必要がどこにもない。ルグノアにとってのコレットは、今度は失ってはならない故郷であるからして。
だからこそ、彼女の事を雑に扱うクラエスは、ルグノアにとって故郷へ侵略してくる奴にも等しい。なるべく共に行動するようにセルジュが仕向けていて、よく共闘するようになった時、ルグノアはクラエスの動向に目を向けてそれでいてコレットの近くで彼女を守るべく動いていた。
コレットが戦えないのは最初の時点で知らされていたし、そんな彼女を狙って魔物が突っ込んでこないとも限らない。そして、そうなった時他の仲間がコレットを助けるべく動いたとして、彼女が足を引っ張っている、なんて言われるような事になれば。
そもそも戦えないのは最初からわかっているのだし、であれば最初から最低一人、コレットの近くで彼女を守る必要があるだろうにその時のクラエスの仲間たちはそこまで気が回っていないようだった。
放っておいてもどうにかなると思っているのか、それともコレットが自力でどうにかするとでも思っているのか。
どちらにしても、コレットをこちら側に引き込むというセルジュ達の意見には大いに賛成であった。
ルグノアにとってはむしろ故郷奪還作戦と言ってもいい。
故郷の象徴でもあり、姉のようでもあるコレットが幸せでいる事が、ルグノアの望みである。