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霊子ネット  作者: むーん
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第1話

これまで、世界の転換期と呼ばれる出来事はいくつあっただろうか。猿が地上に降り立った日、類人猿が火を使った日、宗教が生まれた日、農耕が始まった日、産業革命が起こった日、そしてインターネットが生まれた日。世界の情報が級数的に広がっていき、世界中のありとあらゆる人たちが情報発信者へと生まれ変わった。


そして2055年現在、インターネットは使われていない。情報世界は2030年代に発見された霊子ネットに取って代わられている。霊子ネットは魂のネットワークとも呼ばれることがある。その特徴は、人の体に存在する霊子を専用デバイスで抜き出し、霊子ネットに接続することにある。抜き出す、というと魂を取り出してしまうような印象だが、実際には専用のゴーグルデバイスを被るだけだ。これを被れば、霊子ネットに接続される。霊子ネットは発見以来、インターネット以上に利用拡大しており、あっという間に生活になくてはならないものになってしまった。


これはそんな時代の物語である。


---


「おはようございます」


武田明は挨拶しながら更衣室に入ったが、特に返事は期待していなかった。おそらく自分が一番最初であろうと思ったし、実際そうだったからだ。更衣室の中は乾いた空気が流れており、若干ひんやりしている。無機質でグレーなロッカーが並んでいる光景は、どことなく高校時代のサッカー部の部室を思い出させるものだった。


軽くあくびをしながら明は着替えをはじめた。いわゆる仕事着であるが、まるでこれから手術を受けるかのような緑色のガウン一枚に加えてオムツという格好だった。2年前にこの会社、アストラン社に就職した際、はじめてこの格好になれと言われた時の衝撃を今でも覚えている。アストラン社は惑星開拓市場を切り開いた先駆者的企業であり、今なお業界の圧倒的トップである。いわゆるスペースワーカー(宇宙空間での労働者)に憧れていた明は、アストラン社に入社できたことを喜んだのだったが、まさか自分がこんなガウンを着ることになるとは思わなかった。スペースワーカーと言えば、宇宙服だろうと言う思い込みがあったのだ。


「お、明。今日も早いな」


ちょうど袖を通し終わったタイミングで先輩の工藤浩介が声をかけてきた。工藤はいつも通り、近くのカフェで買ってきたコーヒーを片手にしている。元々予定表は見ていたが、今日は工藤先輩との作業になる。良い先輩ではあるのだが、時に先輩風が強すぎるのが玉に瑕だ。明は挨拶を返すと、さっさと着替えて作業場へ向かっていると伝えた。


作業場の扉はロッカールームの入り口と逆側にある。開くと、そこにあるのは巨大なマッサージチェアのような椅子と、霊子グラスだ。椅子は全部で20脚あるが、今は半分ほど空いていた。すでに座っている人たちは霊子グラスをかけ、黙って座っている。人が座っている間は椅子の周りに巨大な覆いが被さり、まるで卵のような状態になる。作業している人たちは霊子、というか魂はここにはないので、もし触ったとしても反応はない。ただ、体に何かあっても対処できないので、安全性として覆いが被さっているのだ。


椅子に座って(というよりも寝転がって)いると、ロッカールームの扉が開いて工藤先輩や他の作業員たちもぞろぞろと入ってきた。みんなお揃いの緑色したガウンというのが面白い。


「さあ、今日も行こうか」


工藤先輩が椅子に座りながらそういった。他の人たちも次々に椅子に座り、そして霊子グラスをかけていく。明はうなずくと、自分も霊子グラスを装着した。霊子グラスは特にモニターなどなく、真っ暗だ。いわば仰々しいアイマスクのようなものだ。明は頭をゆっくりと枕に固定し、苦しくない体制を探る。これから8時間は体が固定されるので、なるべく楽な体制をとっておいた方が、後で楽なのだ。そして最後に霊子グラスの横にあるボタンを長押しした。


霊子グラスから、作業開始しますというアナウンスが流れる。それと同時に、椅子の覆いが下がっていくのがモーター音で分かる。そうはいっても分かるのは十秒くらいだ。十秒も経つと、自分の体がふっと軽くなる。これは自分の霊子が抽出され、霊子ネットに接続された瞬間だ。目を開けると、目の前に霊子ネットが映し出されている。


霊子ネットはもはやもう一つの世界とも言える。巨大な建物があったり、町がある。人々が行き交って、互いに会話を楽しんでいる。現実世界と違うのは、物理法則に左右されないということだろう。つまり建物は地上に建っている必要はないので、空中に浮かんでいるものもあれば、形がいびつなものもある。人は空中を自由に飛び交っており、格好も自由に変えられる。背格好は自由に変えられるのだが、あまり巨大なものは今風ではない。巨大なものはイベントスペースに入れなかったり、邪魔扱いされてしまうので、数年前に廃れてしまった。今はどちらかというと、キャラクターになりきったコスプレ系のものが主流になっている。


「お。新しいショップがオープンしているのかな」


明はめざとく新しい靴屋がオープンしているのを見つけた。霊子ネットでは食べ物を食べたりすることはできないが、洋服を着たり、靴を履いたりすることはできる。自分で作ることもできるのだが、やはりスマートなデザインを求めるなら、専門ショップから手に入れた方が良い。明は仕事が明けたら行ってみようと心に決めた。


さて、こんな霊子ネットの解説をしている場合ではない。明は目を上方へと向けた。といっても霊子ネットの世界では上も下もないのだが、明の今いる方向からすれば、上方になる。そして一気に空中を飛んでいく。一説によると、この時の速度は光の速度を上回るらしい。霊子は目には見えず、物理法則に左右されるものではない。そのため光の速度を超えて移動が可能なのだ。実際、明が今関わっている火星での住環境構築プロジェクトまでわずか1分で移動できる。宇宙空間を移動している感覚はないのだが、霊子ネット上に、火星のプロジェクト用の空間が存在するのだ。


その空間は一見すると球体が浮かんでいるように見える。入り口にはアストラン社のマークが描かれている。そこから入る際には、霊子認証が行われる。霊子にはそれぞれ固有の違い(霊紋と呼ばれる)があり、それを使って照合している。これは、現時点において最高速と言われる2万量子ビットのコンピュータでも偽装できないと言われているので、十分に安全なものだと言われている。


その入り口を抜けると、個々の作業用ロボットの筐体が浮かんで見える。明は自分用に割り当てられた筐体に入り込むと、視界がこれまでの霊子ネットから、火星の地表へと一瞬で切り替わった。作業用ロボットに入り込んでいるので、いわゆる宇宙服的なものではない。もっとスマートで、動きやすいものだ。このロボット(今は自分の体とも言える)を動かして作業を行うのだ。ちなみにロボットは二足歩行の人型ロボットではない。作業効率を考えた結果、足は4本あり、首もぐるぐる回る。腕は2本だが、こちらも人間の体の構造限界に止まらない動きが可能だ。色は基本は白だが、ところどころにシルバーのラインが入っている。全体的に無骨な、四角が集まったようなデザインだが、作業するのには全く問題ない。


2050年現在のスペースワーカーはこのように働く。宇宙服を着て、ロケットに乗って宇宙に出る必要はない。宇宙空間での寂しさに耐えられるような訓練を行うこともない。さらに言えば、空気がある必要もない。霊子ネットを使って瞬時に惑星へ移動し、そこに配備してあるロボットを操作して作業を行うのだ。インターネットの時代では火星と地球とで通信の時間差が3分以上あったらしいので、それではとても遠隔操作はできない。霊子ネットを使って、直接ロボットを操作するのが効率的と言うわけだ。


ちなみに、簡単で単純な作業であれば、AIを用いたロボットが24時間休まずに作業を行っている。人が行うのは、自動ロボットでは難しい作業になる。今取り組んでいるのは、火星のフェボナ地区の開拓で、地下空洞の探索になる。


明は他の作業員たちと一緒に移動し、会議室スペースに入った。ロボットなので座る必要もなく、会議室とはいってもただの狭い部屋でしかない。しかも実際の会議は霊子ネット上で行うので、会議スペースに移動することがどこまで意味があるのかはよく分からない。とはいえ、こうして一カ所に集まるのが大事なのだろう。前当番の人たちはすでに会議室におり、総勢20台近いロボットが一カ所に集まっていた。


全員揃ったところで、これまでの作業の確認と、今日の作業内容の説明がはじまった。最近、微震が続いており、注意せよという申し送りがあった。また、季節柄砂嵐が吹き荒れるので、その点も注意して欲しいとのことだった。このあたりはいつも通りのことで、作業自体は滞りなく進んでいるようだった。明も予定されていた作業を順番に進めれば問題なさそうで、ほっと一安心した。

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