死出山怪奇譚集番外編 編集の鬼門さん
梅雨の真っ只中、原稿用紙が湿気る頃だった。私は雨が降る中ずっと家で執筆をしていた。すると、玄関の扉が開いて、中から誰かが入って行く。
「闇先生!原稿を受け取りに伺いました!」
私の担当編集者である鬼門将の声だった。鬼門さんは私よりも三つ年上で、現在独身だと聞いている。そして、私が狂気に陥っていた頃に小説を描き始めた時からかれこれ四年くらいの付き合いになっていた。鬼門さんは傘を畳んで家の中へ入る。
怪奇小説家闇深太郎、それが私のペンネームだ。狂気に陥っていた時に考えた名前で本当はあまり気に入っていないのだが、世間は私をそう認識しているらしい。渡辺茂という一個人を知っているのは、志保や優太といった家族、死出山で出会った風見瞬君達といった数少ない者達だ。
鬼門さんは、今月分の原稿を受け取ると、突然なにかに気づいたようにこんな事を呟いた。
「先生こちらに引っ越してから随分雰囲気変わられましたよね?」
恐らく鬼門さんは、私が狂気から覚めて事を性格が変わったように思っているようだった。そういえば、私は鬼門さんに狂気に陥った頃の事を詳しく話していなかった。
「ここに来て変わったのではない。変わったから、この青波台に来たんだ。」
「そうなのですか?僕はあの志手山は便が悪かったのですから、通いやすくなって助かっていますが…。」
鬼門さんは原稿用紙を確認した後、私の顔をじっと見つめてきた。
「やはり、先生は随分変わられましたね?」
私はしばらく考えて、鬼門さんにこう返した。
「『事実は小説よりも奇なり』」
「はい?」
「小説家の私が言うのもどうだがね、私自身奇妙な体験をした事があるんだ。」
「奇妙な体験、ですか?」
「私は十七年間妖に取り憑かれて狂気に陥り、呪われた『本』を完成させようとした。」
鬼門さんはその話が信じられないらしく、動揺しながらこう答えた。
「それ、次の小説のアイデアですか?霊も妖もこの世界には居ない空想の産物ですよね…?」
「霊も妖もこの世界には居るさ。私は事実を少し脚色して書いているに過ぎないのだよ。」
それから私は、鬼門さんに狂気に陥った頃の話をした。鬼門さんは最初の頃は驚いていたが、私の話が面白かったのか、聞き入っていた。
そして、その話が終わると鬼門さんは私にこう言った。
「その話、小説にはしないのですか?」
私は『風見の少年』というタイトルで瞬君の事を書いていたが、私自身の事はあまり書いていなかった。
「いつか書こうとは思うが、それは『闇深太郎』としては書かないな。」
「どうしてですか?」
「これは私自身の物語だからだよ。」
私はそう答えると鬼門さんは何かを考えていた。
すると、隣の部屋で遊んでいた息子の優太が私の元へやって来た。
「おとうさん、だっこ」
私は夢を抱きながら鬼門さんの話を聞いた。
「息子さん、でしたよね?」
「ああ、そうだが?」
「先生は僕よりも年下でしたよね?普段からそのように見えませんので忘れていましたが…。」
「宣伝のSNSにそのような書き込みがあったから、気になってな…」
私はスマートフォンを取り出して、鬼門さんに見せた。
「『オニオニも鬼嫁、じゃなかったお嫁さんが欲しいオニ』ってね、彼女募集中ってところかね?」
「いえ、相手が居るにはいますね。中学からの同級生の女の子とは今も長い付き合いなのですが…、中々踏み込んだ関係に至らなくて。けれど、そういう話をしている場合ではありませんね。僕は仕事に戻らなくてはなりません。それでは先生ありがとうございました。」
そして、鬼門さんは足早に編集室に戻ってしまった。先程まで降っていた雨は止んでいた。鬼門さんもその事を気にしているのだろうか。心の傷を私がに広げてしまったのなら、申し訳ないな、次会った時には謝ろうと思っていた。
しばらく経って、梅雨が終わり、紺碧の空が広がる頃だった。私の家の玄関のチャイムが鳴った。扉を開けると、そこには見慣れない女性が立っている。彼女は切り揃えられた短髪で、左手には指輪を着けていた。
「初めまして闇先生、鬼門美彩と申します。」
鬼門というのは編集者の鬼門さんの事だろうか。それにしても左手の薬指に指輪という事は、結婚されたのだろうか、あの後に鬼門さんに一度原稿を渡したが、何も話してはくれなかった。
「主人がいつもお世話になっております。その挨拶ともう一つ、私自身闇先生にお会いしたかったので。」
私は突然の来客に驚いたが、玄関先で話すのもどうかと考えて、一度居間に上げた。
「ああ、今日は休日だしゆっくりしてください。お茶入れてきますね。」
「主人は、将さんは先生に迷惑かけていませんか?」
「いつもいい働きをしてくれますよ」
それから私はお茶を入れて美彩さんと話した。
彼女も私の作品を読んでくれているようだ。実はあの後すぐに二人の関係が進展して、二週間前に結婚したとの事だった。
「それにしても闇先生も結婚されていたとは、存じませんでした。」
美彩さんも、私の事を闇先生と呼んでいる。あってはいるのだが少し寂しい気持ちになった。
「私は怪奇小説家、渡辺茂だよ。今度はこの名で小説を書こうと思っている。」
「そうなのですか?」
「ああ、編集の鬼門さんにはまだ伝えてないがね」
美彩さんはその後帰ってきた志保とも話した後、家に帰ってしまった。二人はあの後家で過ごしていたのだろうか。次に原稿を受け取りに来た時に話してみようと思った。