23
(郵便屋さんか?)
それしかなかった。
この二年、ぼくの家にぼくの私的な来訪者――つまり友人と呼べる存在は来たことがなかった。だれかがチャイムを鳴らすとすれば、それはぼくの両親が依頼した国際郵便を届けてくれる郵便配達の人だけ。
ともかくインターホンにでなくてはいけない。
ぼくは手にした携帯を握ったままできる限りの迅速さで階下にあるインターホンまで急いだ。
インターホンの画面には門扉前の風景を隠すように女性の上半身が映し出されていた。
こんな人見覚えがないな、でも応答しなければと通話ボタンを押そうとしたぼくを、ぼくの意志が瞬間的に制止させた。
「ひい!」
という悲鳴と同時に。
見覚えがある! あるだろう、あるだろうにこの姿。
髪はロング、画像の解析度が悪くても美人と分かるこの女性がだれであるかは!
「灰我さん!」
声が大きい。
ぼくは慌てて手のひらで口を塞いだ。
灰我さんがぼくの家の門扉前にいる!
なぜだ? なぜ彼女がぼくの自宅前にいるのだ。
はっ! たしか昨日、ホテルの部屋で灰我さんが言ってたぞ。
ぼくがオフ会の二次会のカラオケで日和見部隊のメンバーの前に立ち、ぼくは寂しいんです、だからぼくの家に来て下さいと自宅の住所を叫んでいたと……。
まさかそれを記憶してここまで来たのか灰我さんは……。
いや、いやいや、それよりどういった目的でぼくの家まで来たのかということの方が重要なことだ。でもそんなこと一考しただけですぐにその目的は判明する。
「――責任とって下さい」
これだ。
責任をとってもらうためにここまで来た、これしかない。
この責任の返答を聞くためにここまで来たということが目的なのは明白。
でもよくよく考えてみれば「責任」とはどういうことを指しているのだろうか。
ぼくと灰我さんは、日和見部隊のオフ会の夜、ホテルで関係を持ってしまった(と、ぼくの意識に関係なくそのようになっている)。ぼくの記憶にはないその行為の責任をとって下さいということなのだろうが、責任をとるとは具体的にはぼくが灰我さんに対してなにをしなければならないことなのだろう? 考えられることは、そういう行為があったので、お付き合いをすること、うん、これだ。付き合うということは、それを男女間で行う可能性が当然あるという前提で交わされるものなんだろう(それとは、つまりずばりSEXのこと)。まぁ男女の関係なんて色々あり、結婚初夜までそういったことを経ずに付き合いを始めるカップルもいるかもしれないが……。
これが答えだろう。
順序は逆になってしまったが、灰我さんはその考えをもってこの場に来たのだ。
ぼくとしては、容姿端麗、スタイルも想像するに抜群であろう灰我さんとお付き合いできるということは、今までの人生を振り返っても夢のような出来事でとても喜ばしいことなのだが、ぼく自身、灰我さんに対して淡い恋愛感情など微塵もなく、なんなら恐怖を感じているぐらいだ。
ホテルで「――責任をとって下さい」と言ったあのときの灰我さんのぼくを射すくめる視線は、映画やドラマで観る女性の幽霊が放つ怨念のこもったそれであり、当分ぼくの脳裡に残ることだろう。
それに恐怖だけが灰我さんに好意を持てない理由ではなかった。ここが肝心なのだが、何度か言ったように灰我さんが本当に愛してやまないのは、霊座という音楽グループのボーカル「灰我」なのだ。
灰我さん――この場合は清乃さん――は、相当霊座の「灰我」を信奉しているようで、その熱量は、ぼくが想像するよりもはるかに強力なことに違いない。その熱量が、たまたま「灰我」に似ているぼくに直撃しているというのが今の状況。
彼女は、「灰我」をぼくに置き換えて好意を抱いているに過ぎない。つまりぼくこと横手悠一に好意を寄せているわけではないのだ。「灰我」に対する愛の熱量は、彼女を盲目的にし、責任をとって下さいますわね? の返答を求めるために今ぼくの家まで足を運ぶに至らしめているのだ。
ぼくは口を塞いだまま、身じろぎせず石のように固まった。
居留守を使ってやり過ごす。これしかない。その場しのぎの小細工かもしれないが、彼女と面と向かう気持ちは少なくとも今の時点ではまだできていない。ここは居留守で乗り切る。
灰我さんも画面の中でピクリともせずこちらをみつめたまま立っている。
綺麗だ、たしかに綺麗な女性だ。でも無表情。それが恐怖をうみだしている。
そのままぼくたちは、カメラと画面を介してみつめあっていたが、インターホンの画像が規定の時間がきたため暗くなった。
灰我さんの姿は消えた。でもそれは画像から消えたのであって、門扉の向こう側にはいるだろう。
またチャイムを鳴らすかもしれない。
ぼくはその場で相変わらず身動きせずに時間の経過だけを待った。三分ほど時間が経つと、ぼくは玄関へと足を進めた。
理由は、玄関扉ののぞき穴から外の様子を伺い、灰我さんの姿の有無を確認するため。
玄関に着くとサンダルを履き、恐る恐るのぞき穴に目をあてた。
「ふうあぁぁぁぁぁぁ!」
絶叫。
絶叫してしまった。
なぜか? ――――それは、いたとしても門扉の外側にいるであろうと予想していた灰我さんが、玄関の扉一枚隔てたすぐそこにいたからだ。
彼女の姿はレンズの効果で胴体が異様に長く、まるで蛇女みたいだ。
まさか門扉をあけ敷地内に侵入し、玄関前まで身を移しているとは、想像だにしていなかった。
その直線、握っていた携帯が震えた。
画面をみると「雨川清乃」。
いつもより、より震えている気がする携帯を手にしながら、ぼくはぼおっとその氏名をみていたのだが、扉の外からドンドンと音がするのを聞くと観念し、電話に出た。
扉一枚挟んでいるとはいえ、あんな絶叫、彼女の耳に確実に届いている。
「――悠一さま、ドアをあけていただきませんか? そこにいらっしゃるのでしょう?」
ぼくは携帯を切り、二ヶ所ある扉のカギを上から順にひねって、取っ手を押した。